15 誘われる深淵
夜、私は浅い眠りの中で目を覚ました。
まただ。この村に来てからというもの、ぐっすり眠れた試しがない。常に、何かが私を呼び、揺さぶっているかのようだった。
時計を見ると、午前二時過ぎ。縁側からは、かすかに風の音が聞こえるだけ。月明かりがかろうじて、古びた部屋の輪郭を、ぼんやりと、しかし不気味に浮かび上がらせていた。私は、布団の中で目を開けたまま、しばらく天井を見つめていた。
(眠れない……)
無理もなかった。ここに来てから、何も起きていない。しかし、何も起きていないこと自体が、逆に不自然で、私の心を、鉛のように重くしていた。嵐の前の静けさ。あるいは、何かが、私をじっと観察し、誘い出そうとしているかのような、底知れぬ悪意。
ふと、ポケットの中に手を伸ばす。仮面の破片。
冷たく、固く、しかし、どこか体温を持っているような錯覚がした。指先で撫でると、わずかに震えた気がした。
(気のせい……だよね?)
私はそっと布団から抜け出し、家の中を、足音を立てないように、静かに歩き始めた。古びた床が、ぎしぎしと不気味に軋む音。窓の外では、風にあおられた木の枝が、かさかさと、何かを擦るように震えている。
縁側に立ったとき、私は息を呑んだ。遠くに、微かな光が見えたのだ。昨日訪れた、あの朽ちた学校跡地。ありえない。この村は廃村で、電気など、通っているはずがないのに。だが、確かに、校舎の一部が、ぼんやりと、しかし力強く、光を放っていた。
私は、まるで何かに吸い寄せられるかのように、外に出た。裸足の足裏に、冷たい夜露がまとわりつく。その冷たさが、私の心を、不気味なほど冷静にしていった。
学校に近づくにつれ、奇妙な感覚にとらわれた。距離感がおかしい。近づいているはずなのに、景色が、まるで幻のようにすり替わっていく。
崩れた校舎は、次の瞬間には、真新しい姿へと変貌していた。まるで、過去の幻影を見ているかのようだ。新しいガラス窓が夜の闇を反射し、整然と並んだ机と椅子が、その影を落としている。黒板には、白いチョークで、あの言葉が書かれている。
『五人、選びなさい』
私は、抗えない引力に引かれるように、正面玄関の重い扉を押し開けた。
中に入ると、廊下には誰もいなかった。だが、その代わりに……聞こえた。
コツ、コツ、コツ。
乾いた、しかし重い足音。誰かが、廊下の奥から、ゆっくりと、しかし確実に、こちらへ歩いてくる音だ。
そして、どこか遠くから、無数の声が、私を呼ぶかのように囁く。
「……来た、来た、来た……」
私は、背筋に冷たい汗を流しながら、音のする方へ、まるで操られるかのように歩き出した。私の足は、私自身の意思とは無関係に、勝手に動いているかのようだった。
たどり着いたのは、あの「門」の教室。ドアが、自然に、きぃ、と嫌な音を立てて開いた。中には、誰もいなかった。
ただ、教壇の上に、白い仮面が、ぽつんと、しかし圧倒的な存在感を放って置かれていた。私は、その仮面に吸い寄せられるように、一歩、また一歩と歩み寄った。
そのとき。背後から、誰かの冷たい手が、私の肩を掴んだ。びくりと体が跳ねる。心臓が、喉元までせり上がる。
振り返ると、そこに澪が立っていた。彼女は、いつものように、静かに微笑んでいた。その笑顔は、あまりにも無垢で、しかし、あまりにも異様だった。
「こんな夜中に、何してるの?」
声は穏やかだった。だが、私はなぜか、答えることができなかった。恐怖が、私の喉を締め付けている。
澪の手が、まだ私の肩に触れている。その指先が、妙に冷たく、そして、石のように重たく感じた。
「戻ろう。まだ、夜は長いから」
そう言って、澪は、私の手を引いた。
私は、彼女の、抗いようのない力に、逆らえなかった。
気がつくと、私はまた、縁側の布団に戻っていた。あれは夢だったのか。それとも、現実だったのか。曖昧な境界線が、私の意識を揺さぶる。
ただ一つ、確かだったのは。ポケットに入れていたはずの仮面の破片が、少しだけ赤黒く、濡れていたことだ。まるで、血を吸ったかのように。
朝。目が覚めたとき、私はまだ、縁側の布団の上にいた。
外は曇り空。重たく、湿った空気が、私の心をさらに重くする。
ポケットに手を入れる。赤黒く染まった仮面の破片は、昨夜のまま、微かに、しかし確かに震えていた。
朝食の席。澪は、昨日までと何ひとつ変わらず、静かに私におかゆを出してくれた。その表情は、感情を読み取ることができないほどに無表情だ。
「今日も案内するよ。まだ、見せてない場所があるから」
私は、ただ頷くことしかできなかった。
澪の態度は、いつもと何ひとつ変わらない。だからこそ、昨日の夜の出来事が、すべて夢だったのか、幻覚だったのかと、必死に思いたくなる。しかし、ポケットの仮面の破片が、それが現実だったことを、冷酷に告げていた。
村のさらに奥。かつて祭壇があったという場所に、澪は私を連れて行った。
草に埋もれた石段を登りきると、そこは、ぽっかりと空いた広場だった。中央には、崩れかけた石の台座。そして、その台座の前に、誰かが立っていた。
小さな、少女の姿。白いワンピース。素足。ぼんやりと、まるで空気に溶けかかるような、あやふやな輪郭。それは、この世の存在とは思えないほど、幽玄で、儚げな存在だった。
私は、思わず足を止めた。心臓が、ドクン、ドクン、と不規則に脈打つ。
(誰……?)
「……見えるんだね」
澪が、私の横で、ぽつりと呟いた。その声は、なぜか、満足しているようにも聞こえた。
私は、恐怖に背中を這わせながら、澪を振り向いた。
「知ってるの?」
「うん。たぶん、君に会いに来たんだよ」
澪の言葉は穏やかだった。しかし、私の胸には、冷たい氷が広がっていくような感覚がした。
少女は、ただ、そこに立っていた。顔は、はっきりと見えない。だが、その手には、白く、しかしどこか黒ずんだ、欠けた仮面の破片を、まるで宝物のように握りしめていた。
少女は、ゆっくりと、震える手を伸ばした。私に、何かを訴えかけるように。
声は聞こえない。だが、その行動から、彼女の悲痛な感情だけが、私の胸の奥に、確かな波となって流れ込んできた。
……助けて。
その言葉にならない叫びに、私の魂が揺さぶられる。私は、一歩、踏み出そうとした。
そのとき。
「だめだよ」
澪の声が、まるで氷の壁のように、私を止めた。振り返ると、澪は微笑みながら、静かに首を振った。その微笑みは、先ほどと同じく無垢で、しかし、どこか、すべてを知っているかのような、得体の知れない余裕を感じさせた。
「今は、まだ行っちゃだめ」
「……でも」
「まだ、準備ができてない。君がすべてを知るには、もう少し、時間が必要なんだ」
その口調は、穏やかで、優しかった。けれど、なぜか私は、背中に冷たい汗を流していた。彼女の言葉が、私の行動を、完全に制御しているかのようだった。
少女は、寂しそうに、伸ばした手を下ろした。そして、月影が朝日に溶けるように、広場の空気に溶けて、静かに消えていった。
帰り道。私は何度も振り返った。草に埋もれた石段。崩れた祭壇。そして、誰もいなくなった広場。
だが、心には、あの小さな手が私に伸ばされた時の、切ない感触だけが、焼き付いて離れなかった。
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