14 呼び覚まされる呪い
目を覚ましたのは、まだ夜明け前だった。古びた家の中は、しんと静まり返っている。薄い障子の向こうからは、かすかに風の音が聞こえるだけ。月明かりがかろうじて、部屋の輪郭を幽霊のように浮かび上がらせていた。私は、布団の中で目を開けたまま、しばらく天井を見つめていた。
(眠れない……)
無理もなかった。ここ、緒川村に来てから、何も起きていない。異常なまでに、何も。しかし、その“何も起きていないこと”自体が、逆に不自然で、私の心をざわつかせ続けていた。嵐の前の静けさ、あるいは、何かが、私をじっと観察しているかのような感覚。
ふと、ポケットの中に手を伸ばす。仮面の破片。
冷たく、固く、しかし、どこか体温を持っているような錯覚。それは、まるで、私の体の一部のように感じられた。指先で撫でると、わずかに震えた気がした。
(気のせい……だよね?)
私はそっと布団から抜け出し、家の中を、足音を立てないように、そっと歩き始めた。廊下は軋み、壁には細かなひびが走っている。懐中電灯もないので、月明かりを頼りに、手探りで歩くしかない。
澪の姿は見えなかった。おそらく別の部屋で休んでいるのだろう。
縁側に出ると、冷たい夜の空気が肌を撫でた。月明かりに照らされた村の風景が、白黒の絵のように広がっていた。崩れた家々、雑草に埋もれた道、そして、ぽつんと立つ、あの倒れかけた祠。
(……あそこが、始まりの場所)
澪がそう言っていた。その言葉が、私の脳裏で不気味に反響する。
私は裸足のまま、そっと家を出た。夜の村は、昼間よりもさらに静かだった。風さえも、今は鳴りを潜めている。ただ、遠くで、得体の知れない“何か”が、息を潜めているような気配だけがあった。
私は、足音を立てないように、祠へ向かって歩いた。祠の前に立ったとき。ふと、胸騒ぎがした。祠の中は、やはり空っぽだ。誰かがいた痕跡もない。
だけど……違和感。
目に見えるわけではない。でも、確かに「何か」が、そこに、じっと潜んでいる気配。私は息を殺し、じっと祠を見つめた。
そして、気づいた。
祠の中に、うっすらと浮かぶ、無数の指跡。小さな手。大人の手。爪で抉ったような、無数のひっかき傷。祠の床や壁に、うっすらと、しかし明確に、無数の指で掻き毟ったような跡が刻まれていた。
月明かりに照らされ、その傷跡が、まるでこちらを見ているかのように見えた。彼らの苦悶と絶望が、時を超えて私に語りかけてくるようだった。
背筋に冷たいものが走った。心臓が、ドクンと嫌な音を立てる。
(なにこれ……)
私は一歩、後ずさった。その瞬間。
カラン、と乾いた音がした。
祠の奥から、何かが転がり落ちた。小さな、白い、仮面の破片。私の持っている破片と、そっくりだった。
でも、違う。それは、濡れていた。月明かりに濡れる仮面の破片は、まるで、血を吸ったかのように、鈍く赤黒く染まっていた。
そのとき、背後で、枯れた草を踏む、微かな音がした。
振り向くと、そこに澪が立っていた。彼女の顔は、月明かりの中で、まるで蝋人形のように青白く見えた。
「こんな夜中に、何してるの?」
穏やかな声。だが、その瞳の奥に、ほんの僅かに、何か別のものが潜んでいる気がした。それは、好奇心か、それとも……。
私は、答えを喉の奥でつかえさせたまま、ただ、立ち尽くしていた。
「祠に近づくのは、あまりよくないよ」
澪は静かに言った。その声には、一切の感情が感じられなかった。
祠の前で拾った、あの赤黒い仮面の破片を、私は咄嗟にポケットにしまい込んだ。
何かを言おうとしたが、口をついて出るのは、曖昧な謝罪の言葉だけだった。
「ごめん、ただ……眠れなくて」
「うん、大丈夫」
澪は、にっこりと、しかしその瞳は何も語らず、笑った。
その笑顔に、私はなぜか、ほんの少しだけ息苦しさを覚えた。彼女の笑顔は、あまりにも純粋で、同時に、あまりにも異様だった。
翌朝、私たちは村の奥へと向かった。
「見せたいものがあるんだ」
そう言って、澪は昨日まで案内しなかった、細い小道へと進んでいった。獣道のように細い道。背の高い草をかき分け、蔓が絡まった木々の間を縫うように歩く。朝の光も、この道には届かない。
やがて、木々が途切れ、ぽっかりと開けた空間に出た。
そこには、真新しい鳥居と見間違えるほどに、倒れた鳥居と、崩れかけた校舎が、朽ちたまま、放置されていた。鳥居は傾き、校舎の窓ガラスはほとんどが割れている。
「ここ、学校だったの?」
「うん。昔、この村にも子どもたちがたくさんいたんだよ」
澪は淡々と答えた。その声には、過去への郷愁も、悲しみも、一切含まれていなかった。
私は、校舎のガラス窓が、誰もいないはずなのに、奇妙に、しかし確実に、光を反射していることに気づいた。まるで、誰かが、中からこちらをじっと見ているかのように。
私は、おそるおそる校舎の中に入った。床板は腐り、踏み出すたびに嫌な音がする。黒ずんだ壁には、無数のヒビが走っている。廊下を歩くと、かすかに、誰かがノートをめくるような、あるいは、チョークで黒板を擦るような、微かな音がした気がした。
だが、澪は気にする様子もなく、まっすぐにある一室へと向かう。ドアを開けると、そこだけ、なぜか綺麗に整えられていた。
埃一つない教室。整然と並んだ机と椅子。その完璧な配置が、逆に異常な違和感を生み出していた。黒板には、チョークで、白い粉が飛び散るように、乱暴に、しかし明確に、何かが書かれていた。
『五人、選びなさい』
私は、心臓が跳ねるのを感じた。呼吸が止まる。
(ここは……)
ここは、あの、異界送りで召喚された、地獄の教室に……酷似している。いや、同じだ。あの時の、死の匂いが、確かにここにある。
澪は、そんな私の反応を楽しむでもなく、ただ静かに言った。
「ここが、“門”なんだよ」
「……門?」
私の声は、ひどく掠れていた。
「異界と現世をつなぐ、最初の場所。君たちがかつて立たされたのも、きっとこんな場所だったはず」
澪の言葉に、反論の余地はない。言葉が出なかった。喉が乾ききっていた。
澪は教室の中央に立ち、ポケットから、何かを取り出した。それは、私が持っているものと同じ、仮面の破片だった。彼女が手にしている破片は、昨日祠で見た、あの赤黒く染まったものだった。
「これが、鍵になる」
仮面の破片。破片を持つ者だけが、門を開くことができる。私の中に、漠然とした、しかし恐ろしい確信が芽生えていた。私は、この呪いから、決して逃れられないのだ。
夕暮れ。私たちは校舎を後にした。
帰り道、背後から、誰かが、あるいは何かが、じっとこちらを見ている気がしてならなかった。肌を撫でる風が、まるで生暖かい息吹のように感じられる。
だが、振り返っても、そこには、風に揺れる草しかなかった。
夜。眠れずに縁側に出た私は、ポケットの破片を取り出して、月光にかざした。すると、破片の奥に、ぼんやりと……あの教室が、はっきりと浮かび上がった。
誰もいないはずの教室。だが、黒板の前に、何かが立っていた。顔のない、白い仮面をつけた影。その瞬間、背後から声がした。
「怖い?」
振り向くと、そこには、微笑む澪が立っていた。その瞳は、深淵の闇を湛え、私を見つめている。
月明かりに照らされた澪の影は、どこか、異様に長く、まるで校舎の影と一体化しているかのように伸びていた。
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