13 消えた村の呼び声
世界は、何事もなかったかのように動き続けていた。人々は、変わらない日常を送り、あの高校で起きた悍ましい異界送り事件など、存在しなかったかのように振る舞っている。
私は、あの事件を、心の最も深い底に封じ込めたまま、教師の職を辞し、大学院へと進んだ。私の専攻は、民間伝承、都市伝説、そして、未解明の不可解な失踪事件。私がこの道を選んだ理由は、誰にも言わなかった。言う必要などなかった。
ただ、あの夜を、二度と、繰り返させないため。
夜。薄暗い自室の机の引き出しの中で、仮面の破片が、私の脈動と同期するかのように微かに震えるたび、私は思う。
……まだ、終わっていない。あの呪いは、私の中で、息を潜めている。
ある日、指導教官が、古びた資料を私に手渡しながら、提案してきた。
「中嶋君、夜に消えた集落、っていうテーマを掘り下げてみたらどうだ?興味深いデータがいくつかあるんだが」
渡された資料の中に、私の心を鷲掴みにする、ひとつの名前があった。
“緒川村“
すでに地図からその名は消され、住民は全員行方不明。公式記録には、失踪理由も、事故も、災害も、何一つ残されていない。まるで最初から存在しなかったかのように、その痕跡は消されていた。
ただ、ネットの片隅には、かろうじて、こんな噂だけが残っていた。
『夜中に教室へ呼び出され、消される儀式があった』
『白い仮面をつけた教師が現れた』
私は、震える手でページをめくった。その指先が、紙の端に触れるたびに、電流が走るような悪寒が駆け巡る。
(……緒川)
緒川美琴。緒川陽子。あの、異界送りの呪いの起源とされた名前。まさに、かつて私が見た、地獄の原点。私は、また、あの呪いに呼ばれている。否応なしに、引き寄せられている。
机の引き出しから、仮面の破片を取り出し、掌にのせる。硬く、冷たい。しかし、どこか生きているような、微かな脈動を、確かに感じた。それは、私の中に眠る、もう一人の自分を、目覚めさせようとしているかのようだった。
(行くしかない)
誰に向かって言ったのかもわからない。ただ、私は、この避けられない運命と、真正面から向き合うことを決意した。
数日後、私は地図から消えたとされる“緒川村“へ向かっていた。
山間の小さな駅から、人気のない古いバスに乗り継ぎ、やがて舗装されていない廃道を歩くしかなかった。アスファルトはひび割れ、草木が道を覆い尽くしている。
日が傾き始め、あたりは薄暗くなっていた。鬱蒼とした木々の合間から差し込む光が、まるで血のように赤く、地面に影を長く落としている。ポケットの中の仮面の破片が、私の不安を煽るかのように、ずっと微かに震えていた。
山なのか森なのか、もはや判別もつかないほど荒れた道をひたすら歩く。獣道のような細い道が、どこまでも続いている。
そして、ようやく廃村らしき入り口に差し掛かったとき、誰かが、そこに立っていた。少女だった。銀色がかった黒髪が、夕闇の中でわずかに光を反射し、彼女の存在は、まるで儚げな影を纏うかのように、そこに佇んでいた。
彼女は、私の姿を、まるで最初からここで待っていたかのように、じっと見つめていた。その瞳は、深淵の闇を湛えているようにも見え、しかし、どこか懐かしいような、奇妙な感覚を私に与えた。
「……あなた、誰?」
私が、喉から絞り出すように問うと、彼女はふわりと首を傾げた。その仕草は幼く、しかし、その瞳は、途方もない時間を生きているかのように、静かだった。そして、彼女は、静かに、しかしはっきりと名乗った。
「緒川澪。この村の、最後の生き残り」
緒川――。あの名前。私の脳裏に、あの資料室で見た、代々続く仮面の呪いがフラッシュバックした。私は、言葉を失った。
澪は微笑まず、ただ、まっすぐに私の瞳を見つめていた。その視線は、私の心の奥底を見透かすかのようだった。
「君が、中嶋凛だよね」
どうして、私の名前を……?その問いを口にする間もなく、澪は、答えを待たずに言った。
「君は、ここに来る運命だった。血が、そう呼び寄せたんだよ」
夕闇の中で、彼女の声は、奇妙に優しく、そして、抗いがたい力を持っていた。私は、無言で彼女を見返すしかなかった。
緒川澪に導かれ、私は廃村へと足を踏み入れた。
夕暮れはすでに終わりを告げ、夜の帳が降り始めている。林を越える風が、どこか湿った、土と朽ちた植物の匂いを運んでくる。足元には、砕けた瓦礫と、折れた木の枝が散乱している。歩くたびに、ぱきり、ぱきりと乾いた音が、この死んだ村に、不気味に響いた。
「ここが、緒川村の跡地だよ」
澪は、まるで遠足にでも来たかのように、何気ない口調で言った。私は小さく頷きながら、辺りを見渡す。
かつて家だったものの、骨組みだけが残り、蔓草に飲み込まれた道。朽ち果てた井戸。文字の消えた古びた石碑。人の気配は、まったくない。そこにあるのは、時間の重みと、忘れ去られた過去だけだ。
「……誰もいないんだね」
「うん。もう、ずっと前から」
澪は、まるで散歩でもしているかのように、崩れた石段を軽やかに歩いた。私は、その後ろを、重い足取りでついていく。
静かだった。鳥の声も、虫の羽音も、しない。ただ、風が、痩せた草を擦る音だけが、遠くでかすれていた。その静寂は、あまりにも不自然で、かえって私の心をざわつかせた。
澪は、かつて村の中心だったという広場に私を案内した。そこには、ひときわ大きく、しかし歪んだ鳥居と、半ば倒れかかった小さな祠があった。鳥居の注連縄は朽ち果て、祠の扉は開きっぱなしになっている。
「ここが、始まりの場所」
澪はそう言い、祠の前にしゃがみこんだ。祠の中には、何も祀られていない。ただ、かつて何かを祀っていたであろう、煤けた痕跡だけが、かすかに残っていた。
「何を祀っていたの?」
「さあ……。知ってる人は、みんな、いなくなっちゃったから」
澪は、あっさりと言い放った。その、あまりに無頓着な口調に、私は胸の奥に、小さな引っかかりを覚えた。
(本当に……何もないの?本当に、何も知らないの?)
だが、何も起きない。空は、ただ静かに、群青色に沈みつつあるだけだった。
広場を離れ、澪はかつての民家跡を案内してくれた。ここは鍛冶屋だったらしい。ここは共同の井戸。あちらは、学校跡地。どの場所も、ただ静かに朽ちていた。時間が、ここで完全に止まっているかのようだ。
不意に、私のポケットの中の仮面の破片が、かすかに震えたような気がした。熱を帯びた、微かな脈動。だが、澪は何も言わない。私も、それを口に出すことはしなかった。
私と澪は、村の端にある、まだ比較的形を保っている一軒の家に戻った。澪は、どうやらそこで暮らしているらしい。
「今日は、ここで泊まっていけば?」
「……いいの?」
私は、戸惑いを隠せないまま尋ねた。この少女の、あまりにも自然な言動に、警戒心を抱かざるを得ない。
「もちろん。君が来ること、ずっと待ってたから」
彼女は、ごく自然に、微笑むでもなくそう言った。その言葉の「ずっと」という響きが、私の心に、得体の知れない不安を植え付けた。私は、少しだけ戸惑いながらも、頷いた。
古びた畳に座り、小さなちゃぶ台で、簡単な夕食をとる。質素な食事だったが、澪は何も言わず、ただ黙々と食べていた。彼女はほとんど喋らなかった。ただ、時折ふと、遠くの夜空を見るような、あるいは、遠い過去を想起するような、物憂げな目をするだけだった。
外では、風が木々をざわめかせる音。それ以外は、何もなかった。本当に、何も。
ただ、私は気づいていた。この村は、“静かすぎる”ということに。
夜なのに、虫も鳴かない。蛙の声も、獣の鳴き声も、聞こえない。風の音だけが、異様に大きく、耳に響く。
そして、澪が時折、何かを“待っている”ような仕草をすることに。その視線は、常に空の、あるいはどこか遠い場所に向けられていた。けれど、その夜は、何も起きなかった。
私は、ぼろぼろの布団に潜り込み、静かに目を閉じた。
(本当に……何も、起きないよね?)
自分にそう言い聞かせながら、微かな不安を胸に、闇へと沈んでいった。
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