12 呪いの残滓
異界の空気は、ねっとりと重かった。肺の奥まで、腐敗したような湿気が入り込む。
薄暗い教室。教壇の上には、白く、しかしどこか血の色を帯びたかのように見えた、あの仮面が置かれている。
私は、その仮面を凝視していた。心臓が、耳元で激しく脈打つ。
(今しかない……)
震える指を、仮面へと伸ばす。だが、異界全体が私の動きを察知したかのように、教室の外から、おぞましい異形のモノたちが、うごめき、うなり声を上げていた。床を這う、粘液質の音。壁を叩きつける、鈍い音。彼らの、純粋な怒りと憎しみが、空間を満たしていくのが肌で感じられた。
逃げ場はない。私の背後には、出口のない絶望が広がっている。
でも、私は知っている。この仮面を砕かない限り、この地獄は永遠に繰り返される。また生徒たちが“選ばれ”、また無惨に消えていくことを。あの地獄の光景を、もう二度と繰り返してはならない。
私は、迷いを振り払い、教壇の仮面を掴んだ。その冷たい感触が、私の指先に吸い付くかのようだった。
その瞬間、教室のドアが、轟音と共に内側から破られた。
おぞましい異形たちが、津波のように、なだれ込んでくる。腕が三本ある者、顔がねじれている者、人間の形を模した、しかしあまりにも異質な、人ではないものたち。彼らの瞳は、血のように赤く光り、私を、生きた獲物として捉えていた。
「……来るなら、来い」
私は、仮面を胸に強く抱きしめ、校舎の奥へ向かって、無我夢中で走った。
逃げる私を追って、異形たちは、まるで泥流のように廊下を埋め尽くす。彼らの足音が、ドタドタと不気味に響き、背後から迫りくる殺意が、肌を粟立たせる。
廊下の突き当たり。そこには、見る影もなく崩れた階段があった。朽ちた非常扉が、私の進路を塞ぐように、酷く歪んでいる。すべてが、私をこの異界に閉じ込めるために、仕組まれているかのようだった。
だが、私は知っていた。この異界送りの構造は、現実の廃校そのものと、完全に重なっている。
ならば、あの非常階段……。緒川美琴が、かつて命を絶ち、呪いの起点となった場所。
ここが、呪いの真の源。そこまでたどり着けば、仮面を砕く力も、最大になるはずだ。
私は、迫りくる異形たちの腕を、紙一重でかいくぐりながら、朽ちた非常扉を、全身の力を込めて蹴破った。
踊り場に出た瞬間、空気が、それまでの異界の重苦しさとは、まるで別物のように変わった。
だが、それは、解放の空気ではなかった。全身を押し潰されるような、途方もない重圧。呼吸をするのも苦しい。世界全体が、私の動きを抑えつけようとしているかのようだった。足がもつれ、バランスを崩し、膝をつく。仮面を握る手が、痺れるように痛い。この重圧は、私が呪いの仮面を破壊しようとしていることへの、異界からの最後の抵抗だった。
だが、そのとき。
「……先生!」
微かに、しかし、明確に、聞こえた。
背後から、生徒たちの声。
振り返ると、数人の生徒たちが、私を守るように、必死に異形たちを押し返していた。彼らの顔は、恐怖に震え、涙を浮かべている。それでも、彼らは、私を信じ、私を支えようと、その小さな体で、巨大な異形に立ち向かっていたのだ。
「終わらせてください!」
「先生しか、できないから!」
彼らの叫びが、私の心に、絶望の闇を打ち破る光をもたらした。彼らが、私を人間として見てくれている。私を、教師として、希望として、信じてくれている。
私は、再び立ち上がった。震える腕を高く掲げ、仮面を、まるで聖なる捧げ物のように、頭上に掲げる。
そして……。
(これで、すべてを終わらせる!)
私の魂の奥底から絞り出した、咆哮のような叫びとともに、仮面を、踊り場の冷たいコンクリートに、全身の力を込めて叩きつけた。
バキィィィィィィィンッ!
耳をつんざくような、甲高い音が、異界全体に響き渡る。仮面は、粉々に砕けた。白い細かい破片が、まるで雪のように、空中に舞い上がる。
その瞬間、異界全体が、激しく震え、音を立てて崩壊を始めた。壁が音を立てて割れ、天井が轟音を立てて落ちていく。漆黒の霧が、激しい渦を巻きながら、異形たちが苦悶の声をあげ、肉体が霧散していく。異界という世界そのものが、私の目の前で、消滅しようとしていた。
私は、安堵と、そして言いようのない寂しさを感じながら、目を閉じた。
(みんな、どうか――)
次に目を開けたとき、私は現実世界の教室に立っていた。
まばゆい朝日が、窓から燦々と差し込んでいる。生徒たちも、そこにいた。彼らは、呆然とした表情で、しかし確かに、そこに存在していた。
全員、無事だった。
私は、教壇の上で、震える足で立ちながら、心の底から、深く、長く、静かに息を吐いた。
(終わった……)
放課後。
人気のない廊下を、私は一人、静かに歩いていた。私の歩く足音だけが、コンクリートの床に響く。
ふと、無意識にポケットに手を入れた。
そこには、ひと欠片の、白い仮面の破片が残っていた。砕いたはずの仮面。完全に消滅したと思っていたのに、微細な一片が、まるで私の指先に吸い付いたかのように、冷たく、そこにあった。
(本当に……終わったのか?)
心に、微かな疑念がよぎる。
ふと、廊下の奥の大きなガラス窓に映った、自分の顔。その口元が、わずかに……笑っているように見えた。それは、私の表情ではなかった。あの仮面の、冷たい笑み。ゾクリ、と、再び背筋に悪寒が走った。
***
数日後。学校は何事もなかったかのように、日常を完全に取り戻していた。
誰も、異界送りのこと、あの恐ろしい夜々のことは、口にしない。生徒たちも、教師たちも、まるで全てが悪夢だったかのように振る舞っている。
欠席していた生徒たちも、不思議なほど何事もなかったかのように戻ってきた。彼らの顔からは、あの夜の恐怖の痕跡は、全く見受けられない。
ただ……私だけが知っている。あの夜、本当に何があったのかを。そして、何が、私の心の奥底に刻み込まれたのかを。
放課後。私は、再び資料室にいた。あの異界送りの記録を、今度は別の視点から、再び見直していた。
緒川美琴。そして、その祖母、緒川陽子。彼女たちは、確かに、代々続く「呪い」に絡め取られていた。美琴は、異界送りの“器”として選ばれ、陽子は、その“始祖”だった。
だが、私の直感は、もっと深い闇が存在する、と告げていた。
なぜ緒川家なのか?なぜ代々、仮面を被る存在が生まれるのか?この世界に、何が潜んでいるのか……?
(答えは、まだ全部見つかっていない)
私は、封筒に挟まれた一枚の古びた写真を手に取った。それは、緒川陽子が教師として写っている、ぼやけた集合写真だった。
その陽子の隣に、もう一人、目立たぬように立つ、黒い制服の少女が写っている。写真には、彼女の名前は書かれていなかった。
ただ、その少女の顔は、微かに……私に似ている気がした。
ぞくり、と背筋を悪寒が走った。それは、既視感ではない。もっと深い、血縁のような、あるいは運命のような、悍ましい繋がりを示唆しているかのようだった。
その夜、帰宅してベッドに潜り込んだとき。窓の外から、冷たい風が吹き込んだ。その風に乗って、誰かの声が、囁きのように聞こえた。
『まだ、終わってないよ』
私は、静かに目を閉じた。その言葉は、私の耳ではなく、心の奥底に直接響いた。
ポケットの中で、仮面の破片が、まるで生きているかのように、冷たく光った。
(……また、いつか)
この呪いと、再び向き合う日が、来るかもしれない。
だが今は、この短い、しかし尊い平穏を、私はただ、噛みしめていた。
そして、世界のどこかで。誰かが、また、夜中の教室に集められる、遠くで、しかし確かに、そんな音がした。
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