1 異界送り初夜
「ねえ、異界送りって知ってる?」
放課後の教室、夕暮れが血のように窓を染め上げる中、田中美咲が何気なく口にした一言に、私は思わずノートを閉じた。その薄暗い教室の空気が、まるで喉に張り付くような粘着質な不快感を伴って、私を包み込む。
「え、なにそれ?」
「最近、SNSでちょっとバズってる都市伝説。夜中に突然、教室に“召喚”されて、誰かを“異界”に送らないといけないってやつ」
「またその手のやつ? くだらない」
そう吐き捨てたものの、美咲の表情はどこか真剣で、私の胸に薄い不安の膜が張り付いた。
「近くの学校でも、似たようなことがあったんだって」
そう言って、美咲はスマホを差し出した。画面には、見慣れたはずの教室が、しかしどこか不自然な影を落として写っている。そして、投稿の下には短いコメントが不気味に並んでいた。
「夜中に気づいたら教室にいた」
「変な担任に“投票しろ”って言われた」
「あの五人、今も学校に来てない」
冗談とは思えない、底冷えするような寒気が背筋を這い上がった。私の胃の腑が掴まれたようにきゅうと締め付けられ、吐き気を催す。まさか、そんな馬鹿な。しかし、拭いきれない悍ましい予感が、私の心をじわじわと蝕んでいく。
***
「……五人選びなさい」
暗闇に沈んだ教室の教壇に、担任教師である瀬戸山賢一が立っていた。その顔は、もはや人間のそれではない。無機質な、ねっとりとした油分に覆われたかのような仮面が張り付き、口元だけが歪んだ笑みを象ったように、醜悪に湾曲している。目の穴からは、生命の光など微塵も感じられず、ただ深淵のような虚無が覗いているだけだった。
窓の外は、あらゆる光を飲み込むような深い闇に沈み、遠くから聞こえるはずの街の喧騒も、この場所には届かない。壁にかかった時計は、午前二時三分を指していた。その不吉な時間が、まるでこの空間そのものの腐敗を告げているかのようだ。
教室には、私たちクラスメイト全員がいた。制服姿の私たちは、互いに顔を見合わせ、ざわざわと不安げに呟き、次第に騒ぎ出し始める。頭上でチカチカと不規則に明滅する蛍光灯は、まるで私たちを嘲笑うかのように、時折、教室全体を暗闇に突き落とした。その度に、誰かの短い悲鳴が上がる。
「五人選びなさい」
その声は、確かに担任瀬戸山の声だった。だが、そこに感情は一切なく、まるで機械が発する音声のように、冷酷に響き渡る。その無機質な響きが、私たちの神経を逆撫でる。
教室が絶対零度のように凍りつく中、一人の生徒が声を上げた。
「なに言ってんの?瀬戸山、ふざけてるとクビにするよ」
そう言ったのは、このクラスの絶対的“女王”、11番の桜庭麗華。桜庭グループの令嬢で、学園の理事長の姪。容姿端麗、成績優秀、運動神経抜群と非の打ちどころがない完璧な存在。表向きは優雅で物腰柔らかだが、その内面は凍てつくように冷酷かつ計算高い。クラスの絶対的支配者である彼女の一言が、この教室の空気、いや、この世界の法則すらも決定づける。その傲慢なまでの自信が、この異常な状況に一瞬の亀裂を入れたかに見えた。
「これ、夢だろ?なあ、誰かドッキリっていってくれよ!」
続いて発言したのは、9番の黒崎葵。クラスヒエラルキー第二階層の“侍女”で、大企業の社長令嬢。麗華の右腕的存在で、クラスの情報の収集・操作を担当するクールな観察眼の持ち主。彼女の声には、いつもの冷静さはなく、僅かながら動揺が滲んでいた。その動揺が、私たちの胸にさらなる恐怖を突き刺す。
「投票しなければ、全員が“送られる”」
瀬戸山は生徒たちの問いに一切答えず、まるで石像のように微動だにせず、ただ淡々と、しかし決定的な条件を追加してきた。その言葉は、刃物のように鋭く、私たちの心臓を直接抉り取ろうとするかのように、教室中に響き渡る。
「マジでやるの?」
「ざけんなよ!付き合ってられっか!」
“侍女”の11番、白石優香。政治家の娘で、人当たりは良いが、腹黒い一面も持っている。その顔は蒼白に染まり、声は震えていた。そして同じく“侍女”の22番、緑川紗良。代々続く医者の家系の娘で、細やかな気配りができるが、精神的に脆い。彼女は既に半狂乱になりかけ、今にも泣き出しそうに唇を噛み締めている。その様子は、私たちの中に潜む恐怖を、さらに大きく膨らませていった。
「あいつら送れば良いじゃない?」
最後の“侍女”、1番の赤坂美月。新興IT企業の社長令嬢で、明るく社交的だが計算高い。彼女が放ったその一言が、この教室に決定的な亀裂を生んだ。その声は、まるで悪魔の囁きのように甘く、しかし残酷に、闇の中でこだまする。
その言葉に、クラスヒエラルキー第四階層である“日陰者”の六人が、一斉に身構えた。彼らの顔は、恐怖と絶望、そして諦めと、微かな怒りが混じり合った複雑な表情で歪んでいる。
4番の井上咲良。口下手で、自分の意見をうまく伝えられない。常に孤独を感じている彼女は、怯えた子犬のように身体を震わせ、目を大きく見開いている。
7番の金子奈々。地方出身者で、言葉の訛りをからかわれることがある。都会の生活に馴染めずにいる彼女の顔は、すでに生気を失い、涙が頬を伝っている。
8番の木下遥。特待生として入学。成績は優秀だが、家庭環境を理由にいじめられている。内には強い反発心を秘めている彼女は、唇を血が滲むほど噛み締め、その瞳には悔しさと諦めが入り混じっていた。
15番の高橋里奈。運動が苦手で、体育の授業などで足手まといにされる。彼女は、もはや呼吸すらままならない様子で、ただひたすら小さく震えるばかりだ。
19番の野口芽衣。少し太り気味で、容姿をからかわれることが多い。控えめで自己評価が低い彼女は、俯いて顔を隠そうとするが、その太い指先が小刻みに震えているのが見て取れる。
21番の松本沙織。親が経営する会社の経営が悪化し、学園内で噂されている。精神的に不安定な彼女は、すでに正気を保てず、虚ろな目で宙を睨み、ぶつぶつと意味不明な言葉を呟いている。
「五人選べば良いんだよな、六人いるけどどうする?」
麗華の右腕でクラスを操作する葵が、冷徹な声で問いかけた。その声には、一切の躊躇がない。
「出席番号順で良いんじゃないの」
計算高い美月が、まるで日常の些事を選ぶかのように淡々と続く。その言葉は、彼らの命の重さを、塵芥のように扱っていることを如実に示していた。
「じゃあそれで決定ってことで」
麗華は、まるで簡単なテストの解答用紙を提出するかのように、担任瀬戸山に告げた。だが、瀬戸山は無言で、無機質なタブレットを麗華に手渡す。その金属の冷たさが、麗華の手を通じて、この教室全体の心臓を凍らせていくようだった。
「ほんと不気味な奴だな!」
麗華は舌打ちをしながらタブレットの画面に目を落とした。そこには、出席番号順にクラスの名簿が記載され、それぞれの名前の下にチェックボックスがあった。それはまるで、彼らが人間ではなく、ただのデータであることを示唆しているかのようだ。
「これにチェックすれば良いんだな」
麗華の長い指が、躊躇なく画面を滑る。彼女はクラスヒエラルキー第四階層から五人、4番の井上、7番の金子、8番の木下、15番の高橋、19番の野口を選んだ。チェックが入るたびに、まるで私たちの魂が削り取られていくかのような、乾いた音が聞こえる気がした。
選ばれた名前が、担任瀬戸山によって次々と無感情に、しかし明確に呼び上げられていく。
「4番、井上咲良」
井上の足元から、黒い霧が、まるで彼女の存在そのものを汚染するかのように、ゆらゆらと這い上がってくる。彼女は短い悲鳴を上げようとしたが、その声は霧の中に飲み込まれ、か細い喉からはひゅー、という哀れな空気を吐き出す音しか漏れない。身体が、まるで熱い鉄板の上に乗せられた氷のように、ぐにゃりと歪み、霧の中に溶け込んでいく。
「7番、金子奈々」
金子の視界が、漆黒の靄に覆われる。彼女は必死にもがいたが、その手は空を掴むばかり。絶叫が喉の奥で詰まり、ただ眼球だけが、恐怖に引き裂かれるように見開かれていく。身体は瞬く間に輪郭を失い、霧と同化するように消滅していく。その場には、微かな焦げ付いたような異臭だけが残された。
「8番、木下遥」
木下は、最後の抵抗とばかりに、その場で硬直した。彼女の肌に、まるで無数の蟲が這い上がってくるかのように、黒い霧が絡みつく。顔は苦痛に歪み、口からは血泡が吹き出す。その瞳に宿っていた反抗の光は、瞬く間に絶望へと変じ、身体はまるで黒い絵の具に溶かされるように、ゆっくりと、しかし確実に、霧の彼方へと消え去った。
「15番、高橋里奈」
高橋は、もはや意識を失っているかのように、その場に崩れ落ちた。彼女の身体は、まるで粘土細工が崩れるように、じわじわと形を失っていく。霧が彼女の口を覆い、鼻を覆い、その生暖かい空気が呼吸器の奥深くへと侵入していく。彼女の存在は、まるで最初からなかったかのように、跡形もなく消え去った。
「19番、野口芽衣」
野口は、最後の最後に、絞り出すような嗚咽を漏らした。その声は、この世の終わりのように寂しく、そして無力だった。彼女の肉体は、まるで紙細工のように薄くなり、そのまま霧の中に吸い込まれるように消滅した。その場には、微かな、しかし決定的な、何かが消え去ったことによる虚無感が残された。
五人の生徒は、足元から黒い霧に包まれ、叫びも、存在も、全てを飲み込まれながら、あっという間に消えていった。
……その先には、一体何が待っているのか。地獄か、それとも、永遠の虚無か。そして、私たちは、この夜を生き残れるのか。教室に残された私たち全員の顔に、底知れぬ恐怖と、そして、次に何が起こるかという純粋な疑問が、深く刻み込まれていた。彼らの消えた場所から、微かに残る血生臭いような、腐敗したような、あるいは焦げ付いたような、形容しがたい異臭が、私たちの鼻腔を刺激し、現実の残酷さを突きつけてくる。
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