旅路の果て
窓の外にしんしんと雪が降り積もるのを、少年はもうずっと黙ったままじっと見つめていました。
庭先に掲げられたランプの明かりが、大きな雪の粒を照らしています。少年はそこに人影が現れるのを待っているのでした。
ひらひらと舞い落ちる雪を眺めて、幾晩が過ぎたでそしょうか。
家出同然に姉が家を出たあの日も、今日のようにしんしんと雪が降っていました。
姉の帰りを待ちながら、けれど少年はもう姉は帰ってこないのだということを心のどこかでわかっているのでした。
それでも諦めきれずに、窓の外を眺め続けているのです。
姉はたいそう賢い女性でしたが、少し向こう見ずなところがありました。
森の奥に万病に効く薬草があるという噂を聞きつけた姉は、少年が止めるのも聞かずに雪の降る中出掛けて行ったのでした。
弟──つまり少年の病を治すために。
ですが、あるいはそれは自身の行く末をはかなんだ末の決断だったのではないか、と少年には思えてならないのでした。
少年が得た病のせいで治療費が嵩み、ついには姉の学費にと貯めていたお金まで使い潰してしまったからです。
僕が病でさえなければ。
いいや、僕がいさえしなければ。
彼女には、もっと違った未来がひらけていたのかもしれないのです。
今までに何度繰り返したかわからない自責に苛まれる少年の視界の端で、影が揺れました。
煌々とともるランプの灯りを遮って、細長い人影が窓辺へ近づいてきます。
その影の大きさから、姉のものでないのはすぐにわかりました。いいえ、それは人の影ですらありませんでした。
人の姿を模してはいますが、その影はあまりに暗すぎたのです。まるで闇そのものが人のかたちをしているかのようでした。
それは年若い青年の姿で、ゆっくりと雪の中を少年のいる窓辺まで歩いてきました。
人のような仕種ではありましたが、雪の中に足跡は残っていません。
恐ろしさのあまり寒気を感じて、少年は肩に羽織っていたストールをかき合わせ身を潜めるようにくるまりました。
ですが、人ならざる者を前に、それが何の助けになるでしょうか。
気づけば窓すらもすり抜け、青年の姿をした異形は少年の目の前に立っていました。
「……死に神」
思わず少年の口をついて出た言葉に、それはくっと喉の奥を鳴らして笑います。
そんな仕種までもが人間のようで、少年はいよいよ恐ろしくなりました。
「それはもう俺の名ではない」
歌うように、楽しそうに、それは言いました。
「じゃあ今俺はなんなのだろうな?何でもいいが、お前……酷い声だな」
少年を睥睨したそれは、すっとかたちのよい腕をのばすと少年の顎を掴みました。
無理やり口を開けさせると、中を覗き込んできます。気が済むまで少年の口の中を観察したそれは、不意に窓の外を指さしました。
「春になったらあの木の根元に草が生える。それを煎じて飲め」
「えぇ…?」
あまりに突然のことに、少年は困惑しました。
「何故……」
それの言ったとおり、少年の声は嗄れてまるで老人のそれのようでした。度重なる咳のために喉を傷めたきり、治ることがないのです。
その嗄れた声で、少年は問いました。
「楽になりたくないのか?」
答えにならない返事を寄越したそれは、自分の言葉に何故か傷ついたような顔をしました。
「わかった」
その表情があまりに哀れに思われて、少年は思わず頷きます。
ですが、そんな怪しげな草を煎じて飲むなんてことが少年にできるでしょうか。
それにはきっと、うんと勇気が必要だろうな、と少年は思いました。
もし、それが毒だったら?
そこまで考えて、少年はくすりと笑い声を漏らしました。
それが毒だったとして、何が変わるでしょうか?
いずれ少年を待ち受けている未来は死のみなのです。
春が近づいても、姉は帰ってきませんでした。
その代わり、という訳でもないのでしょうけれども、少年のもとには時たまあの人のかたちをした異形が訪れるようになっていました。
夜遅くに前触れなく窓を叩いては、とりとめのない話をして帰っていくのです。
友達がいたなら、こんな感じなのでしょうか。
幼い頃からふせりがちで、外遊びをすることすらままならない少年には友達と呼べる存在はひとりもなかったのです。
雪が解け、件の木の根元には少年が今まで見たこともない気味の悪い草が生えました。赤黒い茎に紫色の葉が茂っています。
よく晴れてあたたかなある日の昼下がり、少年はその草を少し摘んでみました。ぽきっと簡単に茎は折れ、断面からは独特の匂いのする汁が溢れてきます。そのにおいから想像するに、この草を煎じた汁はあまりおいしくないに違いありません。
「……なんかねばねばしてるし」
「そのねばねばが効くんだ、きっと」
いつの間にかやって来ていた青年が、少年の隣にしゃがみ込みながら言いました。
「いつも急に来るよな、アンタ。びっくりするからやめてくれる?」
「手紙でも出せと?」
「それも困るな。これ、煎じればいいんだっけ?」
「そうだ」
重々しく頷いた青年は、促すように少年が手にしたねばねばした草に視線をやります。
「……まずそうだな」
「アンタが言うなよ。賭けてもいいけど絶対まずいよ」
母親が出掛けているのを見計らって、少年は台所で摘んできた草をぐつぐつと煎じました。
出来上がった煎茶は、葉の色がお湯に溶け出していかにも怪しげです。
「……ふう」
ねばねばのせいでちょっとどろっとした液体を、いつも使っているマグカップに注ぐと、少年は息をつきました。
ちょっと──いやかなり飲みたくないな。
それに、青年はこれを飲むように言っただけで、飲んだらどうなるという肝心の所を教えてくれてはいないのです。
ですが、マグカップを持っている少年を見つめる彼がどことなく不安そうな顔をしていたので、少年はありったけの勇気を振り絞ってマグカップに口をつけました。
ごくん、とひとくち飲み込みます。
熱々なので、味などわかりません。
ただ、飲み込んだあとに喉がすうっとするような感覚がありました。
もうひとくち、今度はゆっくりと口に含んでみると意外にも味は悪くありません。
ごくごくと少年は煎茶を飲み干して、空になったカップを青年に見せてやりました。
「……お前は姉によく似ているな」
不意に青年が言ったので、少年は驚きました。
「アンタ、姉さんを知ってるの?」
「俺はお前の姉と約束をしたからここにいる。言ってなかったか?」
「聞いてないですけど」
それは、まったく思いもよらぬことでした。
「じゃあアンタは姉さんがどこにいるか知ってるの?」
「もちろん、知っている」
事も無げに青年は頷きます。
「お前の姉は、森の奥にいる。もう二度と戻ることはない」
それは少年が、半ば予想していた答えでした。
「お前のために森に入り、そして自分の願いを叶えた。代償は大きかったが。お前の姉は勇敢だ。──お前と同じように。俺なら俺のような得たいの知れぬ者が与えたものを口にするなんてとてもできないだろう」
「だから、アンタがそれを言うなって」
呆れたように呟いて、少年はあれ?と自分の喉に指先で触れました。心持ち、声が出しやすいような気がします。
「……姉さんの願いって?」
「お前が健康で長生きすること」
彼の言葉に、少年は思わず俯いてしまいました。
自分が命を長らえても、喜んでくれる人がいないのでは意味がありません。
「ばかだな、姉さんは。長生きするより姉さんがいてくれるほうが僕にとってはずっとよかったのに。それじゃあアンタは、姉さんに頼まれて僕の体を治してくれるってこと?アンタは一体何者なんだよ」
問いかけに、青年は困ったように眉を寄せました。
「さあな。俺が何者なのかはお前が決めてくれ」
まるで自分で自分が何者なのかわかっていないようです。
「少なくとも死に神じゃないことは確かだね」
冗談めかして笑った自分の言葉が、かつて死と呼ばれていた存在を救ったことなど、少年自身には知る由もないのでした。
おしまい