『今何をして』
ある初夏の日の事、もう蝉が彼方此方で声を上げている朝だったろう。
あまりにも別嬪さんが家の前を通るもんだから思わず「おはようさん」と声をかけてしまったが、その別嬪さんは特に嫌そうな対応をする事も無く私の方を何も言わずに向いて静かに立ち止まった。
「朝ご飯はもう済んだかね、まだならウチで食べていくかね」
年甲斐もなくウキウキとはしゃいだ私は別嬪さんにそう声をかけると、別嬪さんは何も言わずにウチの門扉をくぐり静かに家に上がってきたんだ。
あの別嬪さんは今何をしているのだろう。
丁度通勤する時だった、その子はとても綺麗な瞳をしていたのを覚えている。
その日は急な予定変更もあって普段よりゆっくりとした朝の時間を過ごしていて、いつもと違うルートで出勤していたから初めての出会いだった。
「おはよう、蝉凄いね」
近くの家に聳え立つ桜の樹には何匹も何匹もの蝉たちが必死になって声を上げ、まるでこの季節は自分たちの物だ! と主張しているような気持になっているとその子も一緒になって桜の樹を見上げる。
その見上げる姿勢は形容しがたい美しさを有しており、即座に握ったがスマートフォン程度のカメラに収めるのが悪の様な気がしてしまう程だった。
その時は出勤時間も迫ってきたし去ってしまったが、その子は今何してるんだろ。
とってもあつい日だった。
ほいくえんにとてもかわいい子が入ってきたんだよ、とってもきれいでかわいいかったんだおめめもキラキラしてた。
キラキラでさらさらしてたから「ちょっとさわってもいーい?」ってきいて、手をんーっておそらにむけてしたけどとどかなくて、どうしようっておもってたらかわいい子からきてくれたんだ。
せんせえによばれたからもういかなきゃっておもって、ばいばいって手をふったらみえなくなるまでじっとみててくれたんだ。ほんとうだよ!
ほんとうにきらきらのさらさらだったあのこはいまなにしているのかな。
炎天下で歩きまわされて疲れ果てた夏の昼を大幅に過ぎた頃、確かそこには小規模ではあるが喫茶店が有った筈だと思い向かえば先客がいた。
店主が「相席になっちゃうな」と困ったように笑うのがおかしく「構いません」と、つられて笑いアイスコーヒーとバナナクレープを注文。
「そうだ、こちらにも何かご用意してもらってもいいですか?」
「ああ勿論だとも、何が良いだろうかな」
蝉に負けず劣らずといったくらいに豪快に喜び笑う店主を後にし、夏の日差しを受けて輝く先客の隣に「失礼」と言って座る。
先客は特に何も返さず、ただ窓の先の景色を見ているだけの様だった。
「お待ちどうさん、あんたにはこっちだ」
店主が目の前にアイスコーヒーとバナナクレープを、隣にはプレーンのクッキーを置いてにこやかに去っていく。
注文したものを食べ終えたら直ぐに店を出たが、あの時の先客はちゃんと食べたのだろうか……不思議と今何をしているのだろうと興味が湧いている。
今日も一日暑かったなぁと思いながら買い物帰り、夕日があまりにも目が眩みそうな程強く美しい時でした。
今朝は娘夫婦の所にお邪魔していた事もあり、主人には家の事任せてしまったのでうんと御馳走を用意したかったの。
それでお夕飯の材料を押し車に載せてあるているといつの間にか綺麗な子が隣を、どうやら歩幅を合わせてくれているのか同じ速度で歩いてくれた優しい子がいました。
「こんにちは、綺麗な夕日ですねぇ」
そう思わず声をかけると僅かにこちらを向いて、またすぐに正面を向いてしまいますがその様子がとても可愛らしかったわ。急に声をかけられてびっくりしたのかしら、それとも人見知りな子だったら恥ずかしくなったのかしら。
お家に着くと主人が「おや君は今朝の」と驚くので話を聞くと、どうやら今朝主人と一緒にご飯を食べてくれた子だったのよ。凄い偶然よねって思ったのでどうせならと一緒にお夕飯もいかが? って声をかけたのだけど、やっぱり恥ずかしがり屋さんだったのか何も言わずに頭を下げて去ってしまったの。
もう一度お話したいのだけれど、あの子は今何をしていらっしゃるのか今も元気でいるか気になるわ。
ある日の夏の事。
私が早朝の見回りをしていると男性のご老人に話しかけられた。
まだ朝食を摂っていなかったのでお言葉に甘え、私は焼き魚とお水を頂きご老人はそれに加え野菜を幾つか食べていたのを覚えている。
終始穏やかな笑顔の絶えないご老人だった彼の家には広い庭があり、そこには数十年と時を見つめて居そうな立派な桜の樹があった。
そこの桜の樹の作る木陰が心地良く腹も満たされた事もありそこで止んでいると、今度は通りすがりの女性が話しかけてきた。
彼女が樹を見上げて蝉を見つめるので私もつられて見上げるが、その先は見上げても見上げ無くとも変わらない程蝉の声と生があるだけ。しかしながらその蝉も一口に蝉と言わず何種類かが同じ樹に止まり、他にもコガネムシや解りにくいがカミキリムシにナナフシまで居たのが記憶に新しい。もっともっとこの光景を眺めて居たいと思ったが、残念な事に時間が過ぎれば木陰は失われ私も移動を強いられる。
覚えている限りの涼を求め歩いていると今度は小さな子供に呼び止められた、その子は私を見るなり手を伸ばし幼いながらも加減された手で触れてきた事を覚えている。
言葉はどこかたどたどしくてわかりにくい所があったが、おそらくはどれも私を褒めていると声音で感じ取ることが出来た。その後大人に呼ばれたのだろう、私に一言詫びるとその大人の元へ着くまでに何度も何度も振りむいては大手を振っていたんだ。
私からも子共からもお互いが見えなくなるまで、見えなくなっても私はその子少しの間見届けて再び歩みを再開させる。
よく行く公園の中にある建物に向かうと丁度ドアが開いたのでお邪魔すると、大きな声と共に笑い声が響きいつものことながらびくりと反応してしまう。
私の特等席は窓際の部屋の隅でいつもの定位置と言えば定位置であり、ここから日が暮れるまでの緩やかな時間の流れを見るのが好きだった。
ただこの日は青年が隣に座る事になったので少し不快に思ったが、現金なもので私に何か振る舞ってくれると聴こえたので直ぐにその不快感は喪失していった。
ご相伴にあずかる前に香りを堪能していると青年は食べ終えたのか、すぐさまどこかへ消えてしまった。コーヒーは飲めないが残り香も悪くないと思いつついただいたクッキーを真似る様に素早く摂取し、口元に付いてしまった粉を取って改めて特等席で時間の流れを見つめる事にする。
結局うたた寝から本格的に寝落ちてしまったのだろう、もう店終いだと申し訳なさそうな表情で店主に起こされ私も店主と共に店を出る。
もう今日が終わる時間の方が近いのかと思い夕日を見つめていると、懸命に手押し車を連れて歩くご婦人が交差点の向こうに見えた。
私はそれを手伝う事は出来ないが道中の安全確認だけは出来ると思い、彼女の傍に向かって可能な限り歩を合わせて歩くと穏やかな笑みで挨拶をされる。この人の表情や声音にどこか既視感を抱きながら暫く共に歩き、その正体を知る頃には最初朝に声をかけたご老人の番の様だった。
私がご婦人を送り届けたと思った様で老夫婦が共に夕餉に招くというが、流石にそれは悪いと思い私は何も言わずにその場を後にした。
それから瞬く間に月日が流れ、今や暑さこそまだ消えきらないが蝉の声をの方が少なく朝晩は冷える日が多い。
今同じ道を歩いているが誰も今日はあう事がない。
彼ら今どこで何をしているのだろう。
そう荒れ果て人の営みが失われた町内で孤独は桜の樹に上る。
そこから見えたのは大型のバスに大勢の人が我先にと乗り込み、慌てて逃げる様な姿だった。
孤独はその反対を振り返る。
「あぁ、成程」
そうつぶやく様に朽ち始めた街を嘆く様に、後方から迫りくる何かにかき消されながら町で最後に発せられた猫の声だった。
迫りくる何かは何をしに来たんだろうか。