平等と公平と幸福と民衆と私
「ちょっと前にSNSを賑わした、平等と公平の違いってのがあって」M氏が急に話し始める。M氏の話はいつも突然だ。「皆に同じ高さの台を用意するのがどっちかで、背の高い人に低い台、低い人に高い台を用意するのがどっちかだったんだ。どっちがどっちかは忘れた。」「ほう。」私は相槌を打つ。聞いたことのある話だ、同じ高さの台に乗っていると、背の低い人は壁に阻まれ遠くを眺めることができない。この場合は、それぞれにあった台を用意して乗るのが正解で、たしか、前者ではなく後者が、正しい世界のあり方だとかそんな話だったかしら。「でも、どっちがいいかって言われたら、同じ台の高さだと持たざる者は生きていけないし、背の高い人に低い台だと頑張って高くなった人が辛いよね。背で言われると難しいけど。」なるほど、面白いことを言う。「賃金の話しとかがそうだね。」「うん、だから、徐々に境目をつけて、平等と公平のどちらも取り込んだ、いい塩梅にするのが良いけど…。」ああ、今の日本の賃金のあり方ね、と、同意しかけた時に、何かを閃いたようにM氏が口を開く。「お金を凄く稼いでる人が、割を食っても凹まずに生きていける人材なら大丈夫なんじゃない?!」「共産主義の始まりやないか」先の話の問題点を見つめながらも突き進む姿勢に、思わずツッコミを入れてしまった。「みんなが同じだけお金を持ってるけど、それぞれが自分の役立つところで頑張る!」「共産主義の理想だ。」加速がとまらない。「隣で頑張らない人がいても頑張る!」「無理だろ、それ。」「でも、それが家庭なら?可能であるかも?」「まぁ、そうね。」共同財産って考えもあるしね。「なんでだろう。相手を思いやれる距離感だからかな。自分が頑張らないと、即、野垂れ死ぬってのもあるかな。やっぱ、人数が多いと難しいね。管理が、多様性が生まれるから。」そしてM氏は最高の笑顔で語る「私は、怠けられるギリギリのところで、まだいける、まだいける…はず!と思いながら頑張るよ!」ツッコむ隙も与えず言葉を続けるM氏、「はっ!もしや、頑張らないっていうのは、頑張る能力がないわけだから、頑張れない人と同列であり…。」しばしば起きる論理飛躍。幸せは難しい。