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分け目

掲載日:2026/06/19


美容室に入ると、全員の視線が一瞬だけ集まった。


すぐに逸らされたけど、なんとなく分かる。

ああ、ここ“そういう店”だ。


「ご予約の方ですか?」


やけに落ち着いた声で聞かれる。


「はい、えっと……カットで」


言いながら、少し不安になる。カットでいいんだよな。ここ、カット以外に何かあるのか。


席に通されて、鏡の前に座る。


美容師が後ろに立った。


「今日は、どの方向でいきますか?」


方向。


なんだそれ。


「えっと……普通に、短く」


美容師は少しだけ考えて、うなずいた。


「かしこまりました。“現実寄りショート”ですね」


初めて聞いた。


鏡越しに自分の顔を見る。いつも通りの自分だ。特に“現実寄り”でも“非現実寄り”でもない。


ハサミが入る。


周りの美容師たちが、こちらをちらちら見ているのが分かる。


「今日のオーダー、現実寄りらしいよ」

「へえ、最近少ないよね」

「でもあの人、前は“希望強め”じゃなかった?」


なんの話だ。


しばらくして、美容師が手を止めた。


「すみません、一点だけ確認よろしいですか」


「はい」


「“現実寄り”ですが、“優しさを残す”か、“完全に割り切る”かで分かれます」


分かれるのか。


「えっと……違いは?」


美容師は少しだけ困った顔をした。


「こんな感じでガラッと雰囲気変わります。」


雰囲気。


鏡を見る。さっきと何も変わっていない。


「……じゃあ、優しさ残しで」


「かしこまりました」


周りが少しざわついた。


「そっち選ぶんだ」

「意外だな」

「今日、攻めるね」


攻めてない。


その後もカットは続いた。見た目は特に変わっていない気がする。でも美容師の動きは真剣で、何か大事な作業をしているようにも見える。


やがて、仕上げに入った。


「最後に分け目ですが、“現状維持”か“未来志向”でお選びいただけます」


なんだそれ。


「違いは?」


「現状維持はこんな感じですね」

「未来志向はこっちがこんな感じになります」


美容師は実演してくれたが違いがわからない。

少し考えて、なんとなく言った。


「未来志向で」


一瞬、店内の空気が変わった。


「……出た」

「ここでそれ選ぶ?」

「今日、だいぶいくね」


だから行ってない。


美容師は静かにうなずいた。


「承知しました」


仕上げが終わる。


「いかがでしょうか」


鏡を見る。


いつもの自分だった。


どこが変わったのか、全く分からない。


「……いい感じです」


とりあえずそう言うと、美容師は満足そうに微笑んだ。


会計を済ませて外に出る。


風が吹く。


前髪が揺れた。


その瞬間、通りすがりの人がこちらを見て、少しだけ驚いた顔をした。


小声でつぶやく。


「……あの人、“未来志向の優しさ残し”だ」


何もしてないのに。


家に帰って、鏡を見る。


やっぱり、何も変わっていない。


でも、なんとなく。


新しい自分に出会えた気がした。

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