君主
「エアダル!」
俺は名を呼ばれ、振り返る。あの声は士官の中でも偉ぶった男の声だったはずだ。
「エアダル!」
奴は俺の顔を見て再び、声を張り上げて呼びつける。
まだ煮え湯の入った椀の中身をその場に捨て、椀を給兵へ戻し、俺はその場へ向かって駆ける。
「エアダル!」
士官の男が俺の顔を叩く。いつもの事だ。これは挨拶のようなものだ。
俺が生き残っている事が気に食わないのは、この士官だけではない。
この戦場で生きて返ってくる連中が気に食わないといった、そういう司令官は決して少なくない。
そして、生き残れば生き残っただけ、顔を覚えられている。
顔と名前の一致する存在は、連中にとっては、威厳を見せるのに都合の良い存在だ。
俺たち「数合わせ」を、大事に扱っている、しっかり見張っていると追加された連中に思わせることができるからだ。
だから、生きて返ってきた俺を、叩く。
何故生きて返ってきたのだと。戦場から逃げ出したのかと。
そんなはずはない。敵と戦って、上手く逃げおおせる。生きて帰る。
運が良ければ、一人二人、敵を殺して戻って来る。
それが俺たちの戦争だ。それが俺たち「数合わせ」のせいぜいの戦果だ。
俺を、目に見える場所で叩くことで、追加された連中に、俺の顔と名前を覚えさせる。
そうすれば、戦場では俺が目印になる。何をすればいいか、俺を見て覚える。
それでも、殆どの連中が、二度、三度と戦場に出る度に、死んでいく。
名前すら覚えられないで、死んでいく。気に食わない以前に、記憶にすら残らないのだ。
「エアダル!臆病者のお前には、特別な任務を与える!」
これは、転戦を指す。この場所での戦争は終わったという事だ。
当然、負けたのだ。「数合わせ」が出る戦場というのは既に、負けはじめている場所である。
だが逃げるとは言えない。
それを口にした指揮官は、生き残るために真っ先に戦場に捨てられるからだ。
そして、そのまま、殆どが生きて帰れない。
逃げる先も判らない、生き延びるための命乞いの仕方もわからない。
運よく、他の「数合わせ」に潜り込めなければ、そこでお終いだ。
そういう士官は、雨季のうちに死んでいった。
そういう指揮官の下の「数合わせ」も皆、死んでいった。
生きている指揮官は、生きているだけの理由がある。
芸も学もない俺たちは、そういう指揮官の顔を必死で覚えて、その指示で上手く生き残るしかない。
「エアダル!返事をせんか!」
「はい。」
返事と共に、顔を再び叩かれる。指揮官の顔は、奥歯を噛み締める厳しいものだった。
「貴様は、これより予備の矢筒を背負い、予備の槍を持って、私が指し示す方向へ向かって走れ。以後、その先で待つ士官の指揮下に入るのだ。途中で敵兵を一人以上、必ず仕留めていけ。」
「はい。」
俺の返事を、平手打ちで応え、指揮官は確かに、頷いたかの様に見えた。
「では行け!今、直ぐだ!」
俺は、給兵から受け取った槍と、あるだけの矢を詰め込まれた矢筒だけを背負い、陣を飛び出す。
弓を渡されなかったという事は、この矢を使うのは、俺の役目ではないということだろう。
俺が陣を飛び出した直後、後ろで指揮官の大きな号令が響いた。
あの指揮官に会うことは、もうないかも知れない。
敵軍が勢いを増していることは、誰の目にも明らかだった。
それでも、そこに留まる理由があるのだ。あの陣に命じられた、作戦なのだ。
眼の前に、孤立した敵兵が見えた。座り込んで、死んだ男に構っている。
俺は渡された槍を構える。幸い、向こうは俺に気づいていない。
足を止めていた敵兵との距離が縮まっていき、俺の構えた槍が、敵兵の脇腹を貫く。
敵兵は俺の顔をギロリと見上げて睨むと、その場で倒れ込んだ。
急いで槍を引き抜いて、俺はそのまま真っすぐと走り抜ける。
あの指揮官の与えた役目は、運よく、これで果たせたと言えるだろう。
仮に、お互い生きて再び出会ってしまったとしても、悪い思いをしなくて済む。
幸いにも、走った先には他に敵兵を見かけることもなかった。
遠目に見える櫓が徐々に近づいてくる。
走っていく中で、そこにはかなり多くの兵士が集まっているのが判った。
陣の中に駆け込むと、久々に見るような顔も幾つかあった。
俺の顔を見て、手を降ってくる、名前も知らない男も一人や二人ではなかった。
背負った矢筒を陣の給兵に届け、代わりに、煮え湯の注がれた椀を渡される。
それを口に運び、舌が震える。
湯には塩が入っていた。それだけでなく、改めて椀をのぞき込めば僅かに細かく刻まれた青物が浮いている。
「聞け!」
指揮官らしき声が響き渡る。その声は、陣中の強く響き渡り、集まった兵士たちが声に顔を向ける。
「間もなく、この戦場での戦いは終りとなるだろう。だが!前方には敵軍が居を構えている!これを突破せねばならない!陣中で指示を待て!守りを固め、敵軍との最後の戦いに備えよ!」
周囲で次々に喊声が上がる。
数人が俺に近寄ってくる。どの顔も、この戦争での古馴染みの「数合わせ」の顔だった。
「エアダル。見ろよ。」
一人、腕を突き上げ指を向ける。
櫓の上に、飾った胸甲を着込んだ指揮官の傍らに、小さな姿が見えた。
「あれが嘘か本当か、皇女イライザ様だって言うぜ。こんな負け戦の戦場に出てきていいのかよ。」




