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婚約破棄された伯爵令嬢、追放先の田舎で焼きうどんを食らう

作者: 相良徹生

「セフィリア、お前との婚約は解消させてもらう」


 卒業パーティーの夜、きらびやかに飾り付けられた大広間にきっぱりとした声が響いた。

 ハッと息を呑む音の後、喧騒が止み、重い沈黙が広がる。

 ワルツが途切れ、貴族の子女たちのドレスや宝石の輝きが時間が止まったかのように凍りついた。

 音楽隊はなんとか演奏を再開したが、ダンスを続ける者はいなかった。


 私、ルグノール伯爵家の長女セフィリア・ローレンシアは、広間の真ん中で呆然と立ち尽くしていた。足の裏から冷たさが這い上がり、胸の奥で心臓が不規則に跳ねる。

  目の前には婚約者——バルトハイム子爵アルベルト・アデルが、冷ややかな表情で見下ろしていた。


「お前には幻滅した。リディアへの陰口、嫌がらせ、噂話……もう我慢ならない」


 アルベルトの声は低く、会場の隅々まで届くほどはっきりしていた。

 普段は知的で温和な印象を与える精悍な顔立ちには、見たこともない嫌悪の表情が浮かんでいる。


「そんな……全くの事実無根です」


 やっと絞り出した言葉は震えていた。喉が詰まり、言葉が続かない。

 アルベルトはそんな私を冷たい瞳で一瞥した。その視線には、かつて向けられていた愛情のかけらも見当たらない。


「では、お前はリディアが虚言を重ねているとでも言いたいのか?」


 アルベルトの腕にしがみついているリディア・クレスタは顔を伏せている。

 栗色の巻き毛が肩に流れ落ち、震える肩が周囲の同情を誘っていた。だが、その下唇に浮かぶ微かな笑みが、私にははっきりと見えた。

 勝利の笑みだ。

 その瞬間、私ははめられたと確信した。冷たい塊が身体の芯で形作られていく。


「アルベルト、私は……」


「もう十分だ。お前のような女と添い遂げることなどできない」


 私は今夜、アルベルトと最後のダンスをする予定だった。

 彼との関係は心の奥底では違和感を覚えていたけれど、最推しの腕に抱かれ優雅に舞い踊る自分を何度も想像したし、いずれは純白のドレスに身を包んで結婚式を挙げるつもりだった。

 思い描いていた未来像は一瞬にして消え去った。


 そういえば……全キャラトゥルーエンドばかり回収して、バッドエンドは見てなかったな。と、場違いな事を考えてしまう。


 ここは乙女ゲーム『トワイライト・ハート』の世界。

 それに気づいたのは三年前のことだ。夢中になってプレイしていたそのゲームの中に自分がいることに気づいたのだ。

 前世の私は日本の社会人で、『トワイライト・ハート』の熱心なファンだった。

 そして今、眼の前ではヒロインが卒業パーティーで婚約破棄される、あの有名なバッドエンドのシーンが展開されている。

 ここだけは、ショート動画で見たことがある。


 周囲からクスクスという嘲笑の声が聞こえてくる。

 扇で口元を隠しながらひそひそと囁き合う同級生の令嬢たち。退屈そうに振る舞いながらも、実際は興味津々で眺める紳士たち。


「残念だよ、セフィリア。お前はもっと聡明だと思っていたのに……」


「まさか、あんたがレディ・リディアにそんなひどい事をするなんて!」


「お前はもう終わりだな。どこの家も相手にしてくれまい」


 ルーカス、エドワード、カイルが悲しげな、しかし同情のかけらもない冷たい口調で言った。

 パチンと、頭の中でスイッチを切り替わった気がした。霧が晴れるように、突然全てが見えてくる。

 彼らもゲームでは攻略対象キャラで、学園生活では苦楽をともにした友人のはずだった。それが今や、男爵令嬢のリディアによって嘘を吹き込まれ、たいした証拠もないのに、軽率にきつい言葉を投げかけてくる。

 あんなにも仲が良かったのに、今はまるで別人のようで胸が苦しくなる。


 溢れ出る涙が頬を伝い落ちた。悔し涙だった。

 こんな薄っぺらい男たちに惚れてしまった自分への怒りと情けなさで、涙が止まらない。

 前世で夢中になった『トワイライト・ハート』、忙しい社会人生活の中で唯一の癒しだった乙女ゲームだったのに。

 仕事で疲れ果てた夜、Switch liteの小さな画面を見つめながら、イケメンたちとの甘い恋愛を楽しんだものだった。


 ——悪くは言いたくない。


 あのゲームは確かに私を慰めてくれた。ただ、それにも限度がある。

 実際のゲームの世界に来てみれば、攻略対象たちはこんなにも薄情で身勝手な男たちだった。

 人を辱め、人生を踏みにじることに、何の躊躇もない。

 よくよく考えてみれば、ルーカスのシナリオだって女性を見下す描写が最後まであったし、エドワードだって自分勝手な部分が多かった。カイルは亡き姉を私と重ねている。

 当時はキャラデザとボイスに盲目で気づかなかったけれど、今思えばおかしなところだらけだった。

 しかも発売が三回も延期した。ちなみに、2の開発は中止になったはずだ。

 そして今回のこれは——言いたくないが、クソシナリオだ。


「なにか言いたいことがあるなら聞いてやる。お前とは金輪際、会うこともないだろう」


 アルベルトの声には、もはや温かみのかけらもなかった。

 かつて私の名前を愛おしそうに呼んでくれた彼は、もうどこにもいない。


 ——この後、どうなるんだっけ?


 YouTubeでプレイ動画くらい見ておけばよかった。こんな理不尽な状況をヒロインはどう切り抜ける?いや、違う。ヒロインは私だ。黙っているわけにはいかない!


「人に向かって『お前』だなんて言う男はごめんだ!!」


 私は広間の真ん中で叫んでしまった。

 もちろん、指も突きつけて。

 会場は、先ほどよりもさらに深い静寂に包まれた。


 馬鹿らしい——それが率直な感想だった。


 今まで推しのゲームだからと異世界生活も楽しんできた。そりゃあ、いい思いもした。声優さんの素敵な声のイケメンと、実際に会話ができるなんて最高だと思ったのだ。

 だからこそ、勉強も礼儀作法の特訓も、新人研修以上の熱心さで取り組んできた。

 だが、どうだ? 最推しの次期公爵アルベルトは知的で優雅なキャラクターのはずが、こんなにも独善的で思いやりがない。

 まったく、嘘に騙されたとはいえ、パーティーのど真ん中で婚約破棄を言い出すなんて——人としての配慮がまるで欠けている。

 令和の社会人だった私でさえ、こんな公開処刑じみた真似は愚かこの上ないと理解できる。キャラ崩壊もいいところだ。


 私はあっけにとられる群衆をかき分けて、玄関に向かった。

 シンとした広間に私のヒールの音だけがやけに響く。

 背中に視線を感じながらも、私は顔を上げて歩き続けた。パーティーは終わり、帰る時間なのは間違いない。



 ◇◇◇



 大広間から玄関ホールへ続く廊下には、歴代の学園長の肖像画が並んでいた。

 厳格な表情の老人たちが、まるで私を咎めるかのように見下ろしている。

 もう誰に何を言われても構わない。そもそも卒業できたのだから、ここには用はないのだ。

 その時、護衛騎士のライアン・ウィンザーが私に気づき、足早に近づいてきた。

 軍靴の重い響きが、廊下に低く響く。


「セフィリア様、どうかされましたか?」


 私の前に立った彼は、真っ直ぐこちらを見つめてきた。

 いつもは凛とした静けさを湛えているその顔に、今はわずかな陰りが差している。

 その瞳には、はっきりと私を案じる色がにじんでいた。黒い髪が光を弾き、整えられた鎧の肩先にわずかな緊張が宿る。言葉を選ぶように、彼の喉が一度だけわずかに動いた。


「子爵に婚約解消を言い渡されたわ」


 思ったよりも落ち着いた声が出て、自分でも驚いた。


「そんな……」


「そろいもそろって、ク……程度の低い男たちだったってわけ」


 頬を伝う涙を指先でそっと拭いながら、呟くように言う。悲しくて泣いていると思われるのは癪だった。これは悔し涙であり、怒りの涙だ。


「セフィリア様」


 ライアンがゆっくりと歩み寄ってくる。その表情には、見慣れた静けさではなく、張り詰めた緊張が宿っていた。


「セフィリア様、泣かないでください。私はずっとあなたを思っていました」


「は?」


 聞き返した瞬間、彼は一息で言い切った。


「——あなたを愛しています」


 思考が一瞬、完全に止まる。歴代の学園長の肖像画が、今度はまるで私を嘲笑うかのように見下ろしていた。


 この状況で? 今? 告白?


 アルベルトの身勝手な婚約破棄。友人たちの残酷で浅薄な裏切り、同情と好奇心に満ちた視線。そして今度はライアン。

 どうしてこうも、最悪なタイミングばかり重なるのだろう。私の心境を、誰一人として理解していないのか。

 彼の真剣な眼差しは、確かに心に響くものがある。

 正直に白状しよう。私はライアンに惹かれていた。

 アルベルトと過ごすうちに、私はどこかで気づいていたのだ。 彼が見せる優しさは表面だけで、本心はいつも遠くにあったことに。その寂しさを、私はずっと飲み込んでいた。

 その時は気付きもしなかったけれど、きっとこの世界はバッドエンドに向かう道を静かに辿っていたのだ。

 ただ、今は喜びよりも、混乱が私の思考をぐちゃぐちゃにかき混ぜている。怒りと戸惑いが胸をかき乱し、視界が真っ赤に染まる。

 まるで全身の血液が逆流するような感覚が私を支配していた。


「そりゃあ、私だってアルベルトよりあなたに惹かれていたわよ?!」


「セフィリア様! あなたも……」


 一瞬、ライアンの顔に安堵の色が浮かんだ。


「だってアルベルトって十八歳だし。わたしの心は二十四歳だもん。流石に現実だとどうかなーって思っちゃうわけ」


「は?」


 彼の表情が固まる。


「あなたは二十八歳で大人だし、話していると何だか落ち着くし。私が貴族の慣習にうっかり疑問を口にした時も、優しく諭してくれた。堅苦しい上流階級の中で、唯一私が素のままでいられる相手だったわ。でも、今度はわたしは今十八歳なわけでしょ。流石に十代の女の子に惹かれている二十代後半ってどうなのよ、とか思っちゃうし、もー今こんな事を考えたくないの!!」


 前世の記憶と現世の感情が入り混じり、思考がまとまらない。


「こんな時に告白するなんて、なんで今がいいと思ったの?」


「私はその……あなたの悲しい顔を——」


「悲しい顔を見たくないなんて言わないで。そもそも悲しんでいない」


 もうやだ。全部が嫌になった。


「怒っているのよ!」


 この世界も、この状況も、自分勝手な男たちも。それに、ライアンに心を開くことも、アルベルトとの関係を見極めることもできなかった自分自身にも。


「お母さんの焼きうどんが食べたい!」


 思わず叫んでしまった。声が震え、嗚咽に近い響きが漏れた。

 もちろん、この世界にうどんなんて存在しない。それでも、今の私の胸の奥から湧き上がったのは、この言葉だった。

 頭の中が真っ白になり、視界が歪むような感覚。息が詰まり、手足の先まで熱が走る。


「え?」


「お母さんの焼きうどんが食べたいの!!」


 私が高校生だった時に突然他界したお母さん。疲れた時、悲しい時、いつも作ってくれた温かい焼きうどん。キャベツとネギと豚肉が入った、少し甘めの醤油味。

 その香りと味の記憶が、今も胸の奥で鮮やかに蘇る。

 あの優しさと安心感に、もう一度包まれたくて、たまらなかった。

 涙が溢れ、頬を伝い、止めどなく落ちていく。声にならない声が、胸の中でぐちゃぐちゃに絡み合った。


「今の私にとっては……焼きうどんの方が優先度が高い——焼きうどんの方が大事なの!」


 後は、お察しの通りの修羅場だったはずだ。

 なぜ推量形か? 怒りと混乱で記憶がすっぽり抜けているからだ。ただ、気がついた時には馬車の中で、田舎の領地に向かっていた。



 ◇◇◇



 グリンウッドでの生活が始まった。

 グリンウッドは父の領地の一つで、都から馬車で四日かかる山沿いの小さな村だった。

 村の高台にあるローレンシア家の領主邸が、今の私の暮らしの場である。

 石造りのこじんまりした二階建てで、壁には蔦が這い、長い歴史を感じさせるたたずまいをしていた。

 使用人は三人だけ。追放された伯爵令嬢にふさわしい人数だと、父は考えたのだろう。


 最初の数日は、あまりの静けさに戸惑った。

 都の喧騒に慣れた身には、耳に届くのは虫の羽音と、草をすり抜ける風のざわめきだけという世界が、まるで別世界のように思えた。

 もちろん、馬車の車輪の音も、道行く人のざわめきも、貴婦人たちの笑い声もない。

 毎日、午前中は畑の柵の上に座って、ぼんやりと過ごす。都では絶対にできない贅沢で無作法な時間だ。

 遠くの畑では熱心に働く領民たちの姿が見える。農具を片手に作物の世話をする彼らの動きは、リズミカルで、どこか美しくもあった。


「セフィリア、お前にはがっかりした」


 あの日、父の声は氷のように冷たかった。

 書斎で向き合った時の、あの失望に満ちた表情が、今も忘れられない。

 それも当然だろう。

 娘が次期公爵との婚約を破棄され、同級生にいやがらせをしたという噂が流れ、学園の玄関ホールで「お母さんの焼きうどんが食べたい」と泣き叫んだのだから。

 どんなに娘に甘い父親でも、呆れ果てるのは仕方のないことだった。


「私は何ら恥じることはしていません」


 と、なんとか答えてみたが、当然恥じていた。あの場での振る舞いは令嬢として相応しくないと言われたら、返す言葉もない。


「しばらくは田舎で謹慎しろ」


 あのときの父の言葉を思い出すたび、胸がちくりと痛む。そして今、私はその言葉の通り、この田舎にいるのだ。

 とはいえ、ボンヤリと畑を眺めながら、初秋の風に頬を撫でられるのはとても心地よかった。

 麦畑が風に揺れ、金色の波のようにうねる。遠くには森が広がり、小鳥たちのさえずりがやさしく響いていた。

 都では感じたことのなかった静けさと平穏が、じわじわと胸に染みていく。


「お嬢様~。もぅ、そんな所に座って! 危ないですよ」


 唯一ついてきてくれた侍女のマリアが、少し呆れたように声をかけてきた。

 私と同い年の彼女は、快活で明るい女性だった。三年前に前世の記憶を思い出し混乱していた私を、時に優しく、時に厳しく支えてくれた頼もしい存在だ。

 いつも笑顔の彼女を見て、こんな田舎の謹慎生活に巻き込んでしまったことへの後ろめたさが込み上げる。


「マリア、ごめんなさいね。あなたまで巻き込んじゃって」


「なーに言ってるんですか。あたしは田舎育ちですし、伸び伸びできますよ。ついでにいい人を見つけるつもりですしね」


 エプロン姿の彼女は、都にいたときよりもいっそう生き生きして見える。


「それにすぐ謹慎も解けますよ」


「まだ追放一ヶ月目よ。そんなにすぐ許されるとは思えないけど」


「まぁまぁ、お館様から荷物が届いていますよ」


 玄関には都から届いた木箱がいくつも並んでいた。

 父の愛読書、母からの最新のドレス、妹からのぬいぐるみ、兄からの皮肉交じりの便りが山となっている。謹慎だの追放だの言われながらも、家族は毎週のように手紙や荷物を送ってくれるのだ。

 特に母には、申し訳なく思っている。「お母さんの焼きうどんが食べたい」なんて口走ったのを知られ、当然混乱させてしまったからだ。

 母からの手紙には「うどんって何かしら?」という困惑した文面があり、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 心配をかけてしまったのに、それでもこうして気にかけてくれる家族の存在が、じんわりと心に染み入った。


 うどんか……。


 たしか、材料は強力粉と塩と水だったはず。この世界にもパスタはあるのだから、手に入らない材料ではないはずだ。

 振り返ると、風に揺れる小麦畑が視界いっぱいに広がっていた。

 ぼんやりした心の中に、ふと決意が芽生える。


「わたし……うどん、作る」



 ◇◇◇




 前世のわずかな記憶を頼りに、何度も失敗を繰り返しながらうどん作りに挑戦していった。

 当然、最初はべちゃべちゃの失敗作ばかりだった。

 小麦粉の扱い方がわからず、生地がなかなかまとまらない。水の分量や塩の量も、すべて手探りだ。

 一人、台所で格闘する日々が続いた。

 生地のこね方、麺の伸ばし方、茹で加減……どれも新鮮で、同時に難題の連続だった。

 包丁で切った麺は太さがばらばらで、茹でると溶けてしまうことも珍しくない。それでも私は諦めなかった。


 毎日のように挑戦を重ねたのは、ただ単にうどんが食べたかったからだけではない。

 この世界で何一つ思い通りにならず、与えられるばかりの中で、唯一、自分の手で作るものだけは自分でコントロールできる。だから、うどん作りは単なる食欲くいいじ以上の意味を持っていたのだ。


 季節が流れる中で、私は少しずつグリンウッドの生活に馴染んでいった。

 朝は鶏の鳴き声で目を覚まし、昼は畑で領民たちと言葉を交わす。うどん作りにも精を出し、夕方は夕日を眺めながら散歩する。

 都での華やかな生活とは真逆だが、ここには心の平安があった。

 社交界のしがらみもなく、誰かの視線を気にする必要もない。

 ありのままの自分でいられる場所――それが、このグリンウッドだった。



 ◇◇◇



 半年が過ぎ、冬の寒さが和らいで春の気配が漂い始めた頃だった。


「セフィリア様、お客様です!」


 マリアが慌てて知らせに来た。彼女の頬は上気し、息を切らしている。


「お客?」


 私は畑仕事で汚れた手を拭きながら立ち上がった。

 この半年、訪問者といえば村の人たちや荷物を届ける商人くらいだ。

 門の外に目を向けると、確かに見覚えのある黒髪の男性が静かに立っていた。


「ライアン?」


 半年ぶりに再会した護衛騎士は、少し日焼けして逞しくなっていた。

 都にいた頃よりも精悍な印象で、旅の疲れがうっすらと顔に刻まれている。それでも、彼の緑の瞳は変わらず真っ直ぐで誠実だった。


「セフィリア様、お久しぶりです」


 以前と変わらない優しく穏やかな口調だ。


「どうしてここに?」


「お館様のお言付けを仰せつかりました。もう、いつでも都にお戻りいただけるとのことです」


「もう? まだ一年もたってないけど」


「次の社交シーズンまでにはお戻りいただきたいようです。奥様はもうドレスを仕立て始めております」


「強引に追放しておいて、まったく……」


 実は最近、父の手紙がしんみりしているのに気づいていた。娘を田舎に送りつけておいて、少し寂しくなったのだろう。

 そして、わざわざライアンをここまで迎えに遣わすなんて、やっぱり甘い父親だと思う。


「疲れたでしょう。お茶でも……いえ」


 ふと思い立って、私は微笑んだ。


「ライアンの分もうどんを茹でますね」


 ここ半年で習得した自慢の味を、ぜひとも彼に食べてもらいたかった。

 裏庭で薪に火をつけ、大鍋で手際よく麺を茹でる。

 茹で上がったうどんを冷水でしめると、真っ白で美しい麺が出来上がった。

 この瞬間の達成感は、何度味わっても新鮮だ。

 つけ汁は港から取り寄せた昆布とキノコで出汁を取り、藻塩で味を整えた。本当は醤油があれば理想的だが、この世界にはない。ただ、南の地方にある魚醤を取り寄せる予定で、いずれは味噌作りも始めたいと思っている。

 器に高く盛り付けてライアンに差し出す。

 真っ白でツヤツヤのグリンウッドうどんだ。


「これは……」


 ライアンが目を見開いた。


「白いパスタ……その、うどんです。汁につけて召し上がれ」


 一口食べたライアンの目がさらに大きく見開かれた。そしてゆっくりと微笑む。


「美味しい……初めて食べましたが、こんな食べ物があったのですね」


「つけうどんっていうの。本当は焼きうどんにしたいんだけど、まだ茹で時間を研究中」


 ライアンは感心したように頷きながら、丁寧にうどんを味わっている。その姿を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなった。


「セフィリア様、あなたはここで本当に幸せそうに見えます」


 ライアンがポツリと言った。


「そうね。最初は物凄い田舎に来ちゃったと思っていたけれど、今では大切な場所になった」


 本当にそう思っていた。

 都での華やかな生活も悪くはなかったが、ここでの素朴で穏やかな日々の方が、私には合っている気がする。

 何だか、イケメンに囲まれて浮かれていた学園生活が遠い昔のようだ。彼らをキャラクターとしか見ておらず、その本質には触れられていなかったのかもしれない。だからこそ、あの物語はバッドエンドへと進んでしまったのだろう。

 けれど今は、それも仕方のないことだったと、どこかで納得している自分がいる。

 ライアンはこの半年間の出来事を話してくれた。

 都では私の騒動もすっかり忘れられ、人々の関心は新しい話題に移っていた。

 アルベルトとリディアは一度婚約したものの、結局破談になったらしい。少し複雑な気持ちになった。


「あの二人は上手くいかなかったのね……」


「きっと、本当の愛を知らないからです」


 ライアンは真剣な表情を崩さず、静かに答えた。

 しばらく沈黙が続き、やがて言葉を続ける。


「セフィリア様。半年前、私は最悪のタイミングで思いを伝えてしまいました。でも、あの時の気持ちは今も変わりません。むしろ、この半年間、あなたのことばかり考えていました」


 ライアンは真っ直ぐに私を見つめている。


「あなたは私のことを少しは考えていただけましたか? 優先度は上がったでしょうか?」


「それは……」


 頬が熱くなり、真っ赤になっていませんようにと祈った。


「今は、その……うどんよりも、少しだけ優先度が高いかも」


「少しだけ、ですか」


「今のところは」


 ライアンは安堵の表情を浮かべた。


「それなら十分です。時間をかけて、もっと高い順位を目指します」


「焼きうどんも一緒に食べてくれる?」


 ライアンは静かに頷き、微笑んだ。

 風がそっと頬を撫で、時の流れがゆっくりと穏やかに感じられる。

 言葉にしなくてもわかり合える、そんな静かな時間が二人の間に流れていた。

うどん美味しい


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かけうどん派 サムズアップ

つけうどん派 ニコニコ顔

焼きうどん派 号泣顔

そば派 びっくり顔

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