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お兄様は私を溺愛しすぎている

作者: 雪嶺さとり

 エレメイン伯爵家には双子の兄妹がいる。

 次期伯爵に相応しい品格を持ち、社交的で周囲からの信頼も厚く非の打ち所のないお兄様。

 それに対して、口下手でまともに自己主張もできない根暗な妹の私、リリアンヌ。

 賢く優秀な兄と、地味で大人しい妹。双子なのにまるで似ていない。

 社交界ではみんな口を揃えてそう言うけれど、一つだけ間違っているところがある。

 私たち兄妹はそっくりだ。まるで、鏡写しのように――――――。






「起きて、リリィ。こんなところで寝たら風邪をひいてしまう」


 そっと優しく揺さぶられて、目を覚ました。

 ぼんやりしていた視界が徐々にはっきりして、お兄様が私を起こしてくれたのに気づく。

 

「うぅん…………おっ、お兄様! おかえりなさい、違うの、これは、えっと」

「ふふ、僕のリリィは相変わらず慌てんぼうだね。落ち着いて、ゆっくり話してごらん」


 お兄様が手を伸ばして、身体を起こす手伝いをしてくれる。

 ソファに寝転がってうたた寝なんて、お兄様の前で恥ずかしいことをしてしまった。誤魔化すように言い訳をしようとするが、起きたばかりで頭が上手く回らない。

 

「その、なんだか最近、寝つきが悪くて……。せっかくお兄様に買っていただいた本なのに、途中で寝てしまうなんて」

「疲れているんだろう。このところ、慣れない外出ばかりだったからね。今日ぐらいは、僕と一緒にのんびりしよう」


 乱れた髪を直すように、お兄様がやさしく頭を撫でてくれる。

 少しくすぐったいけれど、私とは全然違う大きな手のひらが心地いい。

 

「ありがとう、お兄様。でも……」

「でも? なんだい?」

「……ううん、なんでもないの。それより、お茶にしましょう。今日は私とのんびりしてくれるんでしょ」

「もちろんだよ。僕の可愛いリリィ」


 まただ。また今日も言えなかった。

 お兄様の優しい笑顔を前にすると、どうしても何も言えなくなってしまう。

 

 これは先日のお茶会で知ったことだが、どうも世間一般の兄妹に比べて私たちは仲良くしすぎているらしい。

 毎日朝はハグをして、夜はおやすみなさいのキスをする。贈り物もし合うし、毎週のお兄様とのお茶会も欠かせない。雨音が酷い夜は、同じベッドで寝てくれる。

 私のお兄様はこんなに素敵なんですって、知って欲しかっただけだったのに。

 

『仲が良いのはよろしい事だけれど、少し自立なさっては?』

 

 令嬢の小馬鹿にしたような言葉に、みんながくすくす笑う。

 私はもう十六歳で、もう少ししたら結婚も考えなくちゃいけない。それなのに、同世代のご令嬢たちに比べてどうも私は幼稚らしかった。

 ティーカップの中の冷めきった紅茶に映る私の顔は、見ていられないくらい酷いものだった。

 要領も悪く特技もないのだから、せめて社交だけでも頑張ろうと思ったけれど、仲良しと呼べるような友達もできず笑いものになるばかり。

 このままではお兄様やエレメイン家の恥にもなってしまう。

 お兄様に甘えてばかりで未熟な私から変わらなければいけない。

 そのためにはまず、お兄様から離れるべきだ。

 

 でも、そう思っても、どうしてだろう。

 お兄様を前にすると、そんな酷いこと、とても口にはできなかった。




 


「リリアンヌ様のお兄様って、とても素敵な方なのね! もっと早く紹介してくれれば良かったのに!」

「レナータ様、お兄様のことをご存知なのですか?」


 あくる日のお茶会。

 興奮気味に私に話しかけてくれたのは、シュタルテ侯爵家の令嬢、レナータ様だ。


「王宮でお見かけしたのよ。従兄弟が文官として勤めているのだけれど、用があって訪ねたら、あなたのお兄様がいらしてね。あんなに美しいお方、初めて見たわ……!」


 レナータ様の話によると、従兄弟の方からお兄様について教えてもらい、私に会うため今日のお茶会を主催してくれたのだと。

 こういうことは今までもよくあった。

 皆、お兄様に近づきたくて私に招待状を送ってくれる。

 でも、妹の私が期待はずれだったせいで継続的に仲良くしてくれる相手もなかなか少なかった。


「やっぱり双子なのね。とても似ているわ。リリアンヌ様が男性だったら、きっと見分けがつかなかったでしょうね」


 うっとりと語るレナータ様の視線が、わたしにじいっと向けられて緊張する。

 

「私とお兄様が似ていると……」

「もちろんよ! ほら、目元なんて特にそっくりだわ。紫色の綺麗な瞳で、じっと見ていると吸い込まれそう。ああ……性別が違えば今すぐ結婚を申し込みたいぐらいよ!」

「レナータ様!?」


 似ていると言われるのは嬉しいが、結婚したいというのには驚いてしまった。

 レナータ様は咳払いをすると姿勢を正す。

 

「ふふっ、ごめんなさい。はしゃいでしまって、はしたなかったわね。私、美しいものに目がなくて。あなたがこんなに可愛らしいなんて、お友達になれて本当に嬉しいわ」

「私と、お友達に……!?」

「ええ、そうよ。それとも、私じゃだめかしら?」

「そ、そんな! ただ、私はお兄様と違って地味ですから、レナータ様の思うような人では……」


 きっとすぐ、レナータ様も私に興味を失うだろう。

 思わず私は俯いてしまう。

 

「そんなこと言わないで。リリアンヌ様はとっても素敵な方よ。もちろん、あなたのお兄様も美しいけれど、あなたを見ているとなんだかかわいくてぎゅっと抱き締めたくなるの」

「だ、抱き締め……!?」


 びっくりして反射的に顔を上げれば、レナータ様がくすくすといたずらっぽく笑っていた。

 

「ほら、その顔。なんて可愛いのかしら! こんなに愛らしいあなたを地味だなんて、どこの誰が言ったのかしら? きっとあなたに嫉妬してるのね」

「嫉妬、ですか?」

「美しくて仲良しな双子の兄妹に、皆憧れてるのよ。もっと自信を持って堂々としていれば、すぐにでも社交界の星になれるわ」


 皆が憧れているのはお兄様だけのはず。

 だがレナータ様は、私を見下すどころか社交界の星とまで言ってくれた。

 お兄様以外に、こんなに私に優しくしてくれる方なんて初めてだった。

 きっとこの出会いは、お兄様がもたらしてくれた幸運だろう。全部、お兄様のおかげだ。

 


 


「それでね、今度レナータ様と王宮の夜会に一緒に行くことにしたの」

「……なるほどね。断るつもりだと言っていたばかりなのに、急にどうしたのかと思ったらお友達の影響か」

「お兄様も出席する予定なのよね。よかったら、レナータ様を紹介させて欲しいの」

「もちろん。ああ、リリィのエスコートは僕がしよう。ドレスも一緒に選ぼうか。せっかくだし、お揃いで新しい衣装を仕立てよう」

「待って待って、お兄様ったら。もう、急なんだから」


 あれこれ考え始めたお兄様を笑いながら止めれば、お兄様も一緒になって笑ってくれる。

 

「実は、レナータ様の従兄弟の方にお願いしようと思っているの。レナータ様が提案してくれたのよ。でも、新しいドレスはお兄様に選んで欲しいか、も……」


 ちょっと恥ずかしくてもじもじしながらそう言えば、お兄様はもう笑っていなかった。

 

「何故?」

「……お兄様?」

「僕がいるのに? リリィ、おかしなことを言うんだね」

「おかしいって、そんな」

「おかしいだろう。僕のリリィが他所の男に触れるなんて、許されるはずがないじゃないか。シュタルテ侯爵家の令嬢の従兄弟なんて、リリィは会ったことも無いだろう。それなのに、リリィのエスコートだって? あんな奴、リリィには相応しくない。僕がいればそれでいいだろ。僕たちの間に部外者はいらない。昔からずっとそうだった。ああそうか、分かったぞ。リリィはもう眠たいんだな。だから寝ぼけて変なことを言っちゃうんだ。ほら、ベッドに行こう。明日また話そうか。お父様とお母様にも報告しないとだね。リリィに新しい友達が出来て、二人とも喜んでくれるだろう。ね、そうだろリリィ」


 お兄様が一気にまくし立てる。

 ちょっと驚いたけれど、確かにお兄様の言う通りだ。


「そうだね。変なこと言ってごめんなさい」

「いいんだよ。リリィが分かってくれれば、それで」


 お兄様の紫色の瞳が、きらきらと輝いている。

 私もそっくりだけれど、お兄様の瞳はもっと綺麗だ。

 宝石みたいで、見ていると吸い込まれそう。レナータ様も同じことを言っていた。

 

「おやすみなさい、お兄様」


 お兄様がそっと私にキスをしてくれる。大好き、お兄様。




 


 夜会の日はあっという間に訪れた。

 予定通りお兄様のエスコートで会場に入れば、周囲の視線が一気に集まる。

 みんなお兄様の人間離れした美しさに夢中になっているみたいだ。

 お兄様はいつも美しいけれど、着飾った正装のお兄様はもっと美しい。

 

「まあリリアンヌ……! とっても綺麗よ、本当に素敵だわ!」

「レナータのおかげよ。ありがとう!」


 探すまでもなくレナータはすぐに見つけてくれた。予定通り、レナータのエスコートは彼女の従兄弟だ。

 話に聞いていた通り、ブロンドの髪はレナータと同じで、穏和な顔立ちの方だ。

 準備をする間、私たちはすっかり仲良しになり、もう親友と呼べるほどだった。


「そのドレス、とっても素敵よ! 宝石はお兄様とお揃いなのね!」

「レナータもね。いつもより大人っぽくって、すごく綺麗」


 髪を結って背筋を伸ばし、自信を持って堂々と歩く。

 歩き方はレナータに何度もレッスンしてもらった。お兄様は私に欠点なんてないと言うけれど、自信のなさが一番良くない。

 自分に自信を持って前を向ければ、きっと周りの見る目も変わるはず。そう信じて、レナータと一緒に頑張ってきた。


「あら、リリアンヌ様! お久しぶりですわ、普段と印象が違うものですから驚いてしまって……! そちらのお方はあのお兄様でして?」

「まあリリアンヌ様! 先日のお茶会は来てくださってありがとうございましたわ! 今日はリリアンヌ様のお兄様もお揃いですのね」


 お兄様と少し離れてレナータと楽しく喋っていると、途端に何人ものご令嬢が寄ってきた。

 中には私をお茶会で馬鹿にした令嬢もいる。けれどみんなあの時とは全然違う顔でこちらを見ていた。

 

「おや、君たちもリリィのお友達かな」


 お兄様がそう聞けば、みんな一斉に頷く。

 そして、私はどこどこの家の誰々でリリアンヌ様とはこういう仲で、と我先に語り始めるのだ。

 私はそれを横から眺めて、思わず笑ってしまう。


「ふふっ、本当にレナータの言う通りになった」

「そうでしょう。皆あなたたち双子に夢中よ。さ、今日の主役をかっさらってきなさい!」

「わっ!」


 レナータに背中を押され、令嬢たちの壁に割って入る。

 どうやら揃ってダンスの相手を申し込んでいるが、お兄様は踊る気がないのか困っているらしい。


「いいところに来た。リリィ、踊ろうか」


 音楽が始まると同時に、あっという間に手を引かれていく。

 ダンスはレナータと一緒に練習したけれど、あまり上出来とは言えなかった。


「お兄様。私のダンス、変じゃない?」

「変じゃないし、そんなの気にする必要も無い。リリィと踊るのは僕だけだからね。最初のダンスも、最後のダンスも」

「なあに、それ。ふふっ、お兄様ったら」


 シャンデリアの光の下で、お兄様は優雅に私の手を引いて踊る。

 見慣れているはずなのに、踊るお兄様を見るのは初めてだから、顔を見上げるだけなのに照れてしまいそうだった。


「次は私と踊ってください……!」

「いいえ、ぜひ私と!」

 

 踊り終えてからもお兄様はまだ囲まれている。

 そっと抜け出してレナータのところへ戻ろうとすると、誰かに名前を呼ばれて立ち止まった。


「リリアンヌ、久しぶりだな! 俺だ、クラウスだよ!」


 にこやかに手を振る赤髪の男性は、私の知る姿からずいぶん成長していた。

 

「クラウス……! 帰ってきていたのね! 本当に久しぶり!」


 幼なじみのクラウスだ。両親が昔からの友人同士で、子どもの頃からずっと一緒だった。

 けれど隣国へ留学へ行ってしまい、最初の頃は手紙も送ってくれていたが、今ではすっかり音沙汰もなくなっていた。


「リリアンヌ、俺がいない間にすっかり綺麗になったな」

「クラウスこそ、あんなに小さかったのにね。さっき、誰だか分からなくて驚いちゃった」

「俺もだよ。踊る姿を見て、リリアンヌだって咄嗟に気づけなかったさ。……それと、一緒にいたあの方は?」

「え? ふふっ、お兄様に決まってるじゃない。お兄様は昔と変わらないのに、忘れちゃったの?」


 すっかり見ない間に大人になっていて、今のクラウスはお兄様と同じくらいの背丈だ。

 声も全然違う。低くてよく通る、男性らしい声だ。

 子どもの頃は私より背が低くて、転んで泣いてばかりで、私がよく慰めてあげていた。


「クラウスったら、手紙のひとつぐらい送ってくれたってよかったじゃない。ずーっと、連絡が取れなくて寂しかったんだから。教えてくれれば、すぐにでも会いに行ったのに!」

「……あれ、送ったはずなんだけどな。手違いで届かなかったのかもしれない。悪かったな」

「まあ、そうだったの」


 手違いならば仕方がない。隣国からなら距離もあるし、そういうことも起きるだろう。

 

「いいさ。これからは俺が直接会いに行くよ。話したいこともいっぱいあるんだ……聞きたいことも」

「私もよ。お兄様もきっとクラウスに会いたいって思ってるわ。いつでも来て」


 今度の晩餐はクラウスを招待しよう。昔みたいにピクニックにお出かけするのも悪くないかもしれない。

 私とクラウスと、お兄様。子どもの頃の懐かしい思い出がいくつも頭の中に浮かぶ。

 

「なあ、さっきから……どうしたんだ? リリアンヌに兄なんていないだろ」

「え? 今、何か言った?」

「あ、いや……気にしないでくれ」

「じゃあ、またね。そろそろお兄様のところに行かなくちゃ」

「ああ、またな……」


 手を振ってお兄様の元へ戻る。クラウスはまだ何か言いたげだったが、あまり遅くなるとお兄様が心配してしまうからだ。

 それにしても、クラウスと会えるとは本当に驚いた。

 彼が隣国へ旅立ってから、もう何年経っただろう。

 

 本当に――――――あれから、何年?





 夜会から少し経った頃、あの日から私の元へはいくつも招待状が届くようになった。


「リリィはすっかり人気者だね」


 山積みになった招待状を見て、お兄様が頭を撫でてくれる。

 でも、私はあまり嬉しくない。

 夜会の招待状を私に送れば、お兄様も一緒に来てくれるからだって分かっているからだ。

 正直、忙しいお兄様を連れ回すような真似はしたくない。あまり私に付き合わせてばかりでは申し訳ないし、かと言って他に頼めるような知り合いもいないし。


「また悩み事?」

「別に……」


 そう言えば、クラウスがいたんだった。

 彼ならきっと頼めば付き合ってくれるだろう。

 でも確か、どこかの令嬢と婚約の話が出ているのではなかったっけ。お兄様がそう言っていた。

 レナータ様も婚約話が進んでいて、少し忙しくなるそうだ。私もいずれ誰かと結婚しなければならない。

 もしかすると、もうお父様は候補を探しているのかも。伯爵家の利益になるような結婚が、今の私に出来るだろうか。

 

「ねえお兄様。私がもし、結婚するとしたら――――」


 顔を上げて、隣に座るお兄様を見る。


「リリィは僕と結婚するんだ」

「え」

「他の誰にも渡さない。リリィと僕は、一生ずっと一緒にいるんだよ」


 なんだか、お兄様の顔が怖い。急にどうしちゃったんだろう。


「お兄様、待って、私たち家族なのにそんなのおかしいよ」

「おかしいだって? 兄が妹を愛することの、何がおかしいんだい?」


 お兄様って、こんな声だったかな。低くて冷たくて、ゾッとする。そんなはず、ないのに。

 

「ねぇ、リリィ。恋人同士のキス、しようね」


 お兄様の手が私の顎を掴む。立ち上がろうとしても、足に力が入らなくて逃げられない。

 それどころか、そのまま押し倒されてソファに横たわり、お兄様が覆いかぶさってくる。


「ほら、口開けて」


 お兄様の綺麗な唇が近づいてきて、私の口にぴたりとくっつく。

 ぬるりとした感触がして、私の口の中にお兄様の舌が侵入してくる。


「……まって、っ……おにいさま、ぁ」

「いつもしてるだろ。寝る前に、毎日」


 抵抗したくても、両手はお兄様にがっちりと押さえつけられていて動かせない。

 やっと離れたと思ったら、もう一度唇が強く押し付けられる。

 

「っ、やぁ……やめて、おにいさまぁ」


 お兄様はひたすらに私の唇を貪る。唾液まで味わうかのようにじゅるじゅると音を立てて吸われる。

 毎晩するおやすみのキスはこんなことしなかった。

 お兄様が私の唇にやさしくちゅぅってしてくれて、ぐちゅぐちゅってなって、頭の中までぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅって。

 ――――あれ、いつも通りだ。

 

「リリィ、やっと落ち着いたみたいだね」


 どうしてこんなに怖がっていたんだろう。

 お兄様はいつものように私を可愛がってくれただけなのに。


「お兄様、もう一回して……」


 返事の代わりに優しいキスが降ってくる。ちゅっと音を立てて、何度も、何度もキスをする。


「リリィ、準備が整ったらすぐに結婚しよう。それまでは、ここでいい子にして待っていてくれるかな」

「うん。私、大好きなお兄様と一緒になれるなんて本当に嬉しい……!」


 お兄様がやさしく微笑む。目の前はお兄様でいっぱいで、こんなに近くで見られていたことが、今更恥ずかしくなり視線を逸らす。

 目に入った先にあった鏡には、密着する私たちが映っていて余計に恥ずかしくなった。

 背も高くて、身体も大きなお兄様。私のことなんて覆い隠してしまえそうなぐらい。


「余所見なんて、いけない子だね」

 

 耳元でお兄様が囁いた。強制的に視線を戻されて、そこから先は同じことの繰り返しだった。

 




 あれから私はお兄様の言いつけ通り、この部屋の中でずっと待っている。朝も夜も眠って、お兄様が帰ってきたらおかえりのキスをして、それからまた眠るだけの繰り返し。

 結婚するのだから、もっとやらなければいけないことがあったはず。

 お父様とお母様の顔も、もう何日も見ていない。

 このままでいいのかな。

 そう思う一方で、私の身体は何故だかとても重たくていつも眠気に襲わている。


「……あら? また、お手紙……」


 ふと目を覚ました頃、机の上に見覚えのない手紙があるのに気づく。

 招待状の類は必要ないため全て処分したから、これは新しいものだ。

 こういう時、私以外の屋敷の人々はいつも通り働いているのを実感する。私はただ寝ているだけなのに。

 正しいことなのだから気にする必要はないはずなのに、どうして後ろめたいのだろう。


「誰かしら」


 手紙を取って差出人の名を読む。

 クラウス…………誰だったか…………ああ、そうだ、私の幼なじみだ。

 彼が手紙をくれるなんて、何時ぶりだろう。

 なんだか、香水のような少し変わった香りがする。花のような、不思議な匂いだ。

 けれど、それを嗅いでいると段々頭が冴えてくるような気がした。

 ぼーっとしていた視界が晴れていくようで、手紙をくずかごに捨てようとしていたことに気づく。

 そんなことをしてはいけない、なんてことを。急いで封を開けて文面を読んだ。

 

『リリアンヌへ。君に手紙を書くのは久しぶりだな。先日はありがとう。君の事が心配だから、手紙を送らせてもらったよ。リリアンヌ、改めて聞こう。君の兄は誰だ?』


「……え?」


『すまないが、君の兄について調べさせてもらった。エレメイン伯爵家が養子を迎えたという事実は無く、それどころかある一定を境に君の兄という存在が現れ始めた。俺が留学に行ってから一年後だ。■■■■■・エレメインという名の男が、君の双子の兄となっている。公的な文書にも周囲の人々の記憶にも、まるで、▉▉からそうであったかのように。だが俺は君の█なんてしらない。■■■■■などという人物も―――――――――』


 目の前が真っ暗になっていく。

 クラウスは何を言っている?

 そんなはずは無い。お兄様はずっと昔から私の傍にいた。


『リリアンヌ。どうか落ち着いて読んで欲しい。■■■■■は実在する人間なのだろうか? リリアンヌ、君の家にいるのは████で██だから██く▃▉▃▃███▉█。█▌▋▍▇▅█▋██』



「なにこれ」


 読めない。文字が黒く潰れて、何も読めない。

 手紙が私の手からするりと滑り落ちる。

 割れるように頭が痛い。意識はハッキリしているのに、ずきずきと痛みに襲われて上手く立てない。


「やだ、いやだ、やめて…………」


 ふらふらとベッドに戻ろうとして、足がもつれて転んだ。

 顔を上げれば、みっともない姿の私が鏡に映っている。


「違う」


 ゆっくりと立ち上がって、鏡に向かって歩く。

 この十年間、私は一体何をしていたのだろう。

 毎日毎日顔を合わせて馬鹿みたいに言うことを聞いてきた相手は、一体誰なのだ。


「お兄様って、誰」


 双子の兄なんていなかった。私はずっと一人娘として育てられてきた。

 クラウスとは二人で遊んでいた。周りの誰からも兄の話なんてされたこともなかった。

 いつから、いつからあの人は私の隣にいた?

 どうして誰も気づかない?お父様もお母様も、レナータ様も、みんなみんなおかしい。

 私に兄なんて、存在しない。


「リリィ、目が覚めたんだね」


 耳元で、聞こえるはずのない声がした。


「どう、して……」


 鏡の向こうに、得体の知れない何かがいる。

 この部屋には私しかいない。にも関わらず、鏡に映っているのは私と、黒くて大きな人間らしき形をした化け物だった。


「お兄様の言うことを聞けないのかな」


 そうだ、私は目が覚めたのだ。ずっとこの化け物に騙されていた。早く、逃げなければ。

 

「いやぁっ!」


 逃げ出そうとして再び転んでしまった。

 ずっと眠っていたせいで力が入らず、足が動かせない。

 這ってでも鏡から離れなければ。震える手足を必死に動かそうとする。

 

「化け物なんて酷いな。僕は君の大好きなお兄様なのに」


 まるで思考を読んだかのように、化け物は笑っている。

 振り向けば、鏡の向こうから黒い手足が何本も生えてきて、私に迫ってきた。

 

「違う、違う……! 私にお兄様なんていない! 最初から、ずっと、そんな人いなかった!」

「リリィ」

「やめて! 離して、触らないで! 嫌、嫌! いやぁぁぁ!」


 両足が掴まれて、ズルズルと引き摺られていく。

 

「暴れないで。リリィを傷つけたくない」

「聞きたくない! 黙って! あなたなんか知らない! 化け物!」

「リリィ、落ち着くんだ」

「やめて、触らないで! 誰か、誰か助けて……!」


 これほど叫んでも誰の声も聞こえない。誰でもいい、早く助けて欲しい。


「あの男のせいか。留学で余計なものを学んできたらしい。先にあれを片付けておくべきだったか。いいや、違うな。侯爵令嬢と関わった時点でもう失敗したんだ」

「黙って! やめて! クラウスとレナータ様に手を出さないで!」

「そんなことしないよ。そもそも、今更消したところでもう遅いからね」


 一層強い力で引っ張られる。

 見ると、私の身体は鏡面に吸い込まれるかのようにのめり込んでいた。


「ひぃっ……!」


 絨毯を掴もうとしても、指先は震えるだけで何も握れない。


「やだっ、いやぁぁぁっ!」


 目の前の景色が遠くなっていく。

 足元からだんだん感覚がなくなってきて、今自分がどうなっているのかさえ分からない。

 怖い。私は死んだのだろうか。外の世界はどうなっているのだろう。

 誰かが気づいて助けに来てくれるなんて、そんな希望さえ遠のいていく。

 暗くて寒くて、もう何も分からない。

 限界を感じて目を閉じた、その時だ。


「リリィ、もう大丈夫だよ」


 聞き慣れた声。見慣れた姿。いつも通りの私の部屋。

 私はソファに横たわっていて、お兄様が心配そうに私の顔を覗き込んでいた。


「怖い夢でも見ていたのかな。大丈夫、お兄様がそばに居るからね」

「お兄様……!」


 思わず飛び上がって抱きつく。


「おやおや、今日は甘えんぼうだね」

「だって、お兄様がいなくなる夢を見て」


 そうじゃない。お兄様がいなくなるんじゃなくて、元々いなかったことに気づいたのだ。


「あれ」


 おかしい。お兄様は存在するはずなのに、存在しない。

 お兄様って、どんな名前だったっけ。

 ふと、視線を感じて鏡を見る。

 そこにいるのは、私と――――――。


「お兄様はいなくなったりしないよ。これからも、ずっと、ずぅっとリリィのそばにいるからね」


 お兄様が私にキスをする。

 優しいキスだけれど、あまりに長くて呼吸が上手くできず、だんだん頭がぼーっとしてくる。

 

「そう――――――そうだよね。お兄様」


 大好きなお兄様が私を助けてくれたんだ、もう安心だ。

 いいえ違う、その人は私のお兄様じゃない。人でもない。連れていかれちゃだめ。

 ううん違う。大好きなお兄様と一緒になれるんだ。ずっとそうなりたいって私もお兄様も思ってた。そうでしょ。そうじゃない。どっちだっけ。


「愛してるよ、リリィ」


 がしゃん。音を立てて鏡面が割れる。


「あ……」


 向こう側の景色が歪んで、私も、お兄様も映さなくなった。

 でも、もういいや。お兄様がいれば、それでいい。


 

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