サジタリウス未来商会と「感情を交換するスイッチ」
雨上がりの公園で、一人の男性がベンチに腰を下ろしていた。
その男の名は吉永誠也、33歳。
少し前に恋人と別れ、仕事でもミスが続き、今や生きる意味を見失いかけていた。
「俺って何やってんだろうな……」
ポケットに手を突っ込みながら、ぼんやりと視線を宙に泳がせていると、公園の隅に奇妙な小屋が目に留まった。
その小屋は、古びた木材で作られた小さな建物で、窓からは暖かい光が漏れている。
入口には看板が掲げられ、手書きでこう書かれていた。
「サジタリウス未来商会」
「未来商会……?」
誠也は興味に駆られ、足を向けた。
中に入ると、そこには白髪交じりの髪と長い顎ひげをたくわえた初老の男が座っていた。
その男は、誠也が入ってくると穏やかに微笑んだ。
「ようこそ、吉永誠也さん。どうぞお掛けください」
「俺の名前を知ってるのか?」
「もちろん。そして、あなたが抱えている虚しさもね」
誠也は驚きつつも、男――ドクトル・サジタリウスの前に腰を下ろした。
「俺の虚しさって……何なんだろうな。最近、何をやっても心が動かないんだ」
サジタリウスは頷き、懐から小さなスイッチのような装置を取り出した。
それは、片手で握れるサイズのシンプルなデバイスで、赤と青のボタンが一つずつ付いていた。
「これは『感情を交換するスイッチ』です」
「感情を交換?」
「ええ。このスイッチを使うことで、あなたが他人の感情を一時的に体験することができます。その人が喜びや悲しみ、怒りや驚きといった感情をどう感じているのか、自分の心で直接味わうことができるのです」
誠也は首を傾げた。
「他人の感情を体験して……それに何の意味があるんだ?」
「あなたが今抱えている虚しさ。それは、自分の感情を見失っているからかもしれません。誰かの感情を体験することで、自分が本当に大切にしたいものを見つけられるかもしれませんよ」
誠也は興味を持ち、スイッチを購入した。
「で、これはどう使えばいいんだ?」
「思い浮かべた人の感情を交換したいと思った時に、赤いボタンを押してください。その感情を取り戻したい時には青いボタンを押します。ただし、相手の感情を知ることが、必ずしも楽しい体験になるとは限りません。それを忘れないでください」
サジタリウスの言葉を胸に、誠也は家路についた。
自宅に戻った誠也は、最初の相手に職場の上司を選んだ。
「この人、いつも怒ってばかりいるけど、何を感じてるんだろう?」
スイッチの赤いボタンを押すと、突然心の中に激しい感情が押し寄せてきた。
「何で俺ばっかりこんなにプレッシャーを受けなきゃならないんだ……!」
上司のストレスや孤独感が一気に流れ込んできた。
誠也はたまらずスイッチの青いボタンを押し、感情を元に戻した。
「上司も大変なんだな……」
次に、最近別れた恋人の感情を体験してみた。
赤いボタンを押した瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような切なさに襲われた。
「別れたくなかった。でも、どうしても一緒にいられなかった……」
誠也は恋人の中にあった葛藤と悲しみを知り、言葉を失った。
「俺だけが傷ついてるわけじゃなかったんだ……」
その後も、誠也はスイッチを使って様々な人の感情を体験した。
親の不安、友人の嫉妬、通りすがりの他人の驚きや喜び――
そのどれもが、思いもよらない深さを持っていた。
「人の感情って、こんなにも複雑なんだな……」
数日後、誠也は再びサジタリウスの店を訪れた。
「ドクトル・サジタリウス、スイッチを使って色んな感情を体験しました。でも、正直、他人の感情を知るのはしんどいですね」
サジタリウスは静かに頷いた。
「他人の感情を知ることは簡単なことではありません。ですが、それを知ることで、あなた自身の感情にも気づけたのではありませんか?」
誠也は少し考え込み、言葉を続けた。
「確かに、自分がいかに他人のことを表面的にしか見ていなかったか分かりました。だからこそ、もっと相手に優しくなれる気がします」
「それが、このスイッチの本当の価値です」
その日以来、誠也は周囲の人々に対して、より深く思いやりを持つようになった。
職場では上司や同僚に感謝の言葉を伝えるようになり、友人との関係も以前より親密になった。
ある日、久しぶりに会った友人がこう言った。
「誠也、なんか雰囲気変わったよな。前より柔らかくなったっていうか……」
誠也は少し笑って答えた。
「他人の感情を知るのは大変だけど、それが人間らしさなんだなって気づいたよ」
サジタリウスは雨上がりの静かな夜、新たな客を迎える準備をしながら、どこか満足げに微笑んでいた。
【完】