支倉屋敷
◇
「あれ、みんなどこ行ったんだろう」
気付けば一人になっていた玖々莉は、きょろきょろと辺りを窺う。
いつの間にか自身は建物内に入っており、二人の姿はない。
仕方がないので羽織っていたダウンのポケットから小さめの懐中電灯を取り出し、周りを観察してみる。
ここは屋敷の中の居間であろうか、畳が敷き詰められているが所々が裂かれており、障子もボロボロ。
そのまま順に光を当てて照らし出していく。
破れた襖に、落ちて割れた花瓶。
天井や柱までもが傷だらけで、誰かが暴れた後の痕跡が至る所にあった。
「そういえば、何たら大名が突然暴れ出したって蒼が言ってたっけ」
玖々莉はまあ、たまにはそんな事もあるかぁと思った。
昔の人は気が立ちやすいイメージであり、自分のおじいちゃんも苛立ってはよくテーブルをひっくり返していたっけなぁと思い返しながら、そんな大名がいてもまあ不思議はないなぁと思った。
思いながらも玖々莉は居間から廊下に出る。
点々と取り付けられている障子窓からはいつの間に夜になったのか、月明かりが差し込んでおり、古い屋敷内と相まってどことなく幻想的な雰囲気を思わせた。
懐中電灯と月明かりで一気に辺りが見えやすくなった玖々莉は、そのまま突き当りまで歩みを進める。
上下共に続く階段に差し掛かったので、ようやくここが一階ではない事に気付く。
だが何となくそれ以上に手前にあった一部屋が気になったので、その襖を開いた。
もう何十年何百年と誰も訪れていない筈なのにも係わらず、襖は何の抵抗もなく開いた事に不思議に思う。
その小さな部屋には埃すらも積もっておらず、やっぱり少しだけ不思議に思うも、まあたまにはそんな事もあるかぁと思うだけだった。
「わー、本だらけだ」
小部屋は当時の書庫だったらしく、実際には本ではないが多数の文献が見受けられた。
木製の棚にびっしりと敷き詰められているそれらに、言ったのはいいが興味はこれっぽっちも湧いてこない玖々莉。
けれど文机に開かれたまま置いてあったその一冊だけは何となく気になったので、それを手に取って読んでみる。
「……読めない。字、汚くないかな?私の方がうまく書けそう」
それは崩し字なのだが当然その心得のない玖々莉に読める筈もなく、諦めようとしたその時。
ふと、一か所だけ読める部分があった事に気付く。
玖々莉はまじまじとその一文を見つめる。
「……霊脈ほにゃらら、黄泉ノ国ほにゃらら。これは……表裏一体?うーん、よくわかんない。蒼なら読めるかな?」
そう思い至った玖々莉はその文献を雑に丸めてポケットにしまい、そのまま拝借して部屋を出た。
再び廊下に出て次は何階に進もうか、そう思っていた矢先の出来事であった。
障子窓から見える外の景色が、一気に赤く染まったのは。
この光景には見覚えがある、先の鳴咲神社であの強力な怨霊が出た時だ。
「外から強い力を感じる。……二人とも、大丈夫かな?」
すぐに二人が遭遇しているかもしれないと思い至った玖々莉は、急ぎ外に出る為に一階へと下る階段の方へ駆け出す。
だがしかし、廊下の背後。
自分が来た道の方向から急接近してくる気配を感知し、すぐに振り向いた。
すると怨霊が目の前で刀を振り被っており、ちょうど振り下ろされる間際のタイミングであった。
玖々莉は反射的にバックステップを取り、なんとかそれを回避する。
だが二度、三度と続けざまに怨霊は刃を走らせた。
防戦一方の玖々莉は、ギリギリそれらを躱す事で手一杯となる。
(ちょっとまずいかな。これじゃあ助けに行くどころか、霊装もできない)
間髪入れずに刀を振り続けるものだから、目を閉じる工程を踏ませてもらえない。
しかも怨霊が武器を使うなどイレギュラーであり、その上明らかに前回の神主レベルの邪気を纏っていた。
つまりは、異形である。
まだ玖々莉たちはしっかりと把握はしていないが、鳴咲神社の霊もこの霊も、そして藜獄島で現れた女の霊も共通して異形と表記されるべき存在であった。
いよいよ背後に避けられるだけのスペースがなくなってくる。
だが未だに霊装すら出来ていない玖々莉。
一か八か猛ダッシュで階段を駆け下りるべきか考えながら、相手の刀を避けている、そんな状況で。
階下から、より一層歪んだ気配を感じ取った。
「え……なに?」
階段をゆっくりと上がって来るのは、一体何なのか。
感じた事のない気配、酷く濃い瘴気。
目の前の刀を振るう異形の、更に上を行く強大な力。
いや、最早別格である。
避ける事で手一杯の為、振り向けるような余裕はないけれど。
だがもし振り向ける余裕があったのだとしても、決して振り向きたくはない。
余りの強力な瘴気にあてられたせいで気持ちが悪くなってくる、吐き気までしてきそうだ。
(うそ……なにこれ。こんなの、むり……)
するとピタリと、目の前の怨霊は振るう刀を止めて見せた。
けれども背後の階下からの気配は着実に近づいて来る。
玖々莉の全身が震えだし、眼前の怨霊など視界にも入らなくなった。
寒い、とにかく寒い。
生まれて初めて感じるのは、恐怖心のそれ。
もう除霊の二文字は頭の中に出て来ない。
それどころか怖くて目を閉じられない、霊装なんて到底できない。
仮に出来たところできっと勝てない、こんなもの誰にも祓えない、そんな思考が脳裏を過った。
絶望が脳を支配する。
(……やだ、やだやだやだ……来ないでっ)
玖々莉はその場で座り込み、視線を床に落とした。
恐怖で瞬きが出来ない、呼吸をするのが難しい。
歯をガチガチと鳴らせ、振り向く事なんて到底出来なかった。
背後にはもう、間違いなく。
その何者かは、いる。
(助けて……お願い、たすけ――)
そうして背後の何者かの手が、ゆっくりと玖々莉の頭に触れ。
玖々莉の意識は、そこで途絶えた――。