黄泉化
◇
数時間前——。
「間に合ってくれるといいが……」
藤堂勇太はひたすらに焦っていた、制限速度を大幅に破っているのだその証拠だろう。
今の所パトカーや白バイに目を付けられた様子はないが、一応気をつけながら車を走らせている。
だが例え捕まったとしても、すぐにまた制限速度を破るだろう。
それだけ事態はひっ迫していると考える。
自分が辿り着いた所で、何が出来る訳でもない事は重々承知の上だ。
けれど見過ごす事もまた出来ない相談である。
しかしまさか自分のいない間に楓が事を起こすとは、流石に想定外であった。
それも連絡の取れない状況が昨日から続いている、何かあったのだろうかとも思ってしまう。
時刻は正午、向こうはまだ精々九州に辿り着いたかどうかの時間帯。
ならば島で何かあった訳ではない、単純にスマホの充電を切らしている可能性だってある。
だが勇太の結論は違った。
外出時、二人とも同時に充電を切らすなど在り得ない。
何者かが意図的に妨害している、そう考えるのが妥当である。
そしてその検討はついている。
——影だ。
勇太は実家で書物を調べていく内に、その真実へと辿り着いていた。
情報の上書きとそれに基づいた推測、推察。
そこで閃いた一つの仮説。
影の正体も、楓についても、弔イ歌の真実も、失踪した二人にしても。
やはり全ては一つの糸で繋がっていたのだ。
だからこそ勇太は焦る。
楓こそが、最も危険な存在なのだと——。
◇
異形と遭遇した芽唯たち三人は、一瞬だが呆然と立ち竦んでしまっていた。
これは祓う対象ではない、別次元の敵だ。
そう認識せざるを得ないほど、異形は異様なまでの敵意を見せているようだった。
そんな中、芽唯が最初に声を上げる。
「え、ちょっと待ってよ……!今の霊力じゃこんなの相手に出来ないって!夜御坂さん、逃げよう!」
「せや!逃げへんとみんな纏めてお陀仏も出来んくなってまう!」
「は、はい!」
そうして三人は同時に振り返り、この場からの撤退を選択した。
だがどうしたところで結果は変わらなかった。
異形と出くわした時点で、どうしようもなかったのだ。
必死に逃げる三人。
けれど異形はそれよりも速く追ってくる。
背後から伸ばされた異形の手が、ゆっくりと距離を埋めていく。
そのどす黒い指先が、楓の背中を掠めた。
「ぐあっ!」
「夜御坂さん!?」
霊装状態故に霊体である為、本来ならば身体的なダメージなど起こり得ない。
だが楓は明らかに身体の痛みを感じており、その場にうずくまってしまう。
慌てて芽唯も足を止め、渚と共に楓を守るよう前へと出る。
その際に一瞬だけ見えたが、異形に触れられた楓の背中には金槌で打たれたかのような穴が出来ていた。
「渚!夜御坂さんを連れて逃げて!」
「え!?一人でどうする気や!?」
「いいから早く!このままじゃ全滅よ!?」
そう声を荒らげた芽唯に対して楓は痛みに悶えている中、止めるよう必死になって言ってくる。
「……だめです、白百合さん……!一緒に、逃げないと……」
「だってどうしようもないじゃない!」
けれどそんな芽唯たちのやり取りを異形が黙って見ている筈もなく、すぐにまたそのどす黒い手が差し出された。
向こうに意思があるのか、それすらも分かりはしないが。
あからさまなのは、その全開な殺気だけだった。
「早く!逃げて!」
「嫌、嫌です……!」
再びゆっくりと触れようとしてくる異形の手。
それにすぐさま芽唯が応戦する。
「『銀細工』——伸縮✖一閃!」
これまで数多の怨霊を浄化して来た居合の一撃は、けれど虚しくも防がれてしまう。
しかもそれだけではない、芽唯は不思議な感覚をその瞬間に感じ取っていた。
まるで芽唯と異形の間に、時空の歪みでも存在するかのような手ごたえの無さ。
防がれたにしてはどうも接触した時の衝撃が感じられなかったのだ。
何かしらのカラクリがあると判断すべきだろう。
だがこの時の芽唯は焦燥感に駆られていた為、そんな冷静な判断すら出来ていなかった。
そのまま、無闇矢鱈に攻撃を繰り返す。
「『銀細工』——伸縮✖一徹!『銀細工』——伸縮✖束縛ッ!」
伸ばされた刀身で一突きし、次いで今度はそれが鞭となって異形に巻き付く。
が、一見捉えているように見えるこの攻撃でさえ異形には何の効果も表れない。
そしてとうとう異形の手が動き、刀の刀身に触れる。
するとパリィン!!と甲高い音を響かせて、芽唯の刀は粉々に砕けてしまった。
「嘘、そんな……」
万策尽きた芽唯はここまでだと判断し、楓に背を向けたまま言う。
「……ごめん、無理だった。夜御坂さんは、生きて——」
「白百合さんっ!!」
そうして異形の手が、ゆっくりと芽唯に触れる。
◇
楓には全てがスローモーションの如き遅さで目に映っていた。
芽唯が生き抜く事を諦めてしまった現在、楓が芽唯を守るしかない、それなのに。
動きたいのに、守りたいのに。
けれど痛みで身体が動いてはくれなかった。
地面に両手を着き、必死になって立ち上がろうとするも上手く力が伝わって行かない。
焦りで頭の中が真っ白になっていく、そんな時。
楓に代わり、庇うようにして颯爽と誰かが芽唯の前に出た。
「っ!……え?と、藤堂さん?」
呆気に取られたように芽唯がそう呟く。
現れたのは藤堂勇太だ。
楓には光明が差した気がした、勇太が来てくれたのだと。
これまでどんな事があろうとも道を切り開いてくれた勇太が来たならば、もう安心だと。
だが勇太ですらこの状況において、芽唯を庇う事だけで精一杯だったようで。
「……すまない。僕に出来るのは、これだけだ……。頼む、芽唯……。楓を、一刻も早く連れて……逃げてくれ……」
芽唯の前で立つ勇太は、その口元から血を垂れ流してそう言った。
異形の手は、勇太の背中に大きく触れていた。
そのまま崩れ落ちる勇太。
それを呆然と眺めていた楓は、目の前の展開に未だ理解が追い付かない。
「……え?勇太、さん……?」
勇太の背中には大きく穿たれた跡があり、その傷が致命傷を物語っていた。
倒れ伏し、その受けた傷口から流れ出す大量の血液が、楓の元にまで流れて来る。
地面から立ち上がろうと両手を着いていた楓は、自分の手が血に塗れている事に気付く。
震えながら、両手をゆっくりと持ち上げた。
滴るのは、まだ生暖かくて真っ赤な勇太の血潮。
目の前の全てが、今度は真っ赤に染まっていく。
ゆっくりとした動作で顔を両手で覆い、段々と表情を悲痛なものに変えていく。
身体の震えが酷くなる、心臓の動悸が激しくなる。
やがて心の糸が、プツンと切れた。
「あ、あぁあ………ああああああああぁぁぁッ!!!」
結局は勇太の意思も届く事はなかった。
言葉にさえ置き換える事も出来なくなった、そんな慟哭が合図となり。
そうして『それ』は始まった。
楓の髪の色が真っ白に染まって、同時に。
絶望の黒衣と、恨みの焔を纏った。
「・・・・・・」
楓は失意の末、色を失ってしまった。
これは異形と同じ状態に成ってしまった事を意味し、魂鎮メ最大の禁忌と言われた狂気の成れの果て。
それがこの『黄泉化』と呼ばれる、理からの逸脱であった——。