ズルいと言う妹はいませんが、「いいなー」が口ぐせの弟はいます
ズルイ妹が流行ってたので書いてみたいなーと思ったのですが……。無理でした。
「いいなー姉さん」
帰って来た私に向かって弟のアレックスがそんなことを言う。
その視線がお土産に持たされたお菓子に向かっているのはいつものこと。
「食べるでしょ?」
「いいの? ありがと!」
目を輝かせて言うものだから私もメイドも口元が緩んでしまう。
末っ子で甘え上手の弟にはなんだかんだみんな甘い。
もちろん私も。
アレックス付きの侍従が入れたお茶を口にしながら今日の出来事を話す。
私がお邪魔していた侯爵家での話や、アレックスの勉強がどこまで進んだのかなど。
日頃他の家族と会わない屋敷で私たち2人は仲のいい方だと思う。
話が終わるころには持って帰ったお菓子はすっかりアレックスのお腹に収まっていたのだった。
◇◇◇
「というわけで私にはズルイ妹がいる人の気持ちはわからなかったわ」
前回のお茶会で話題になった、最近流行っていると聞く姉妹模様の話をすると年の近い友人の中でも特に親しいフィオリアとメルディスには呆れた顔をされた。
「前提からして妹と弟じゃ違うでしょう。
しかもいいなって言われる内容がお土産のお菓子って、可愛いだけだわ」
ウチの妹を見せてあげたいと言うフィオリアだけどその顔は柔らかく笑んでいる。
十個以上離れた妹がわがままな時期に入って大変だと言っていたけれど、まだ他愛ない可愛いものなのはフィオリアから聞いたことがあった。
「巷で流行りの小説みたいな姉妹格差や両親との確執なんてドロドロした要素が全くないじゃない。
ただの仲良し姉弟ね、素敵。
でもそれはジャンルが違うわ」
昨日も会ったメルディスは一瞬だけ浮かべた複雑な思いを微笑みで隠して羨ましいと笑った。
ジャンル……。
「そうね、ウチはそこまでドロドロしてはないわね。
両親は淡泊な関係だし兄は家に帰って来ないし、アレックスは勉強漬けで一緒にいる時間は少ないけれど、会えば会話をするし時間があるときは息抜きにお茶をするわ」
お父様もお母様もお互いの仕事で忙しくて、普段は手紙や執事を挟んだ交流しかしていない。
領地と王都の社交界と距離も離れているし無理もないのだけれど。
お兄様は王太子の側近として城から離れられず、家で会うよりも城やどこかのパーティで見かける方が多いくらい。
それも大抵は殿下の側に控えていて会話も交わさない。
弟のアレックスとは同じ屋敷に住んでいるので顔を合わせる機会は他の人よりは多いけれど、日中は勉強していてあまり部屋から出ない。
私はこうしてお茶会に呼ばれたり、……花嫁修業で婚約者の屋敷で過ごすことが多い。
時間が合えばお茶をすることがあり、夕食も共にするアレックスと一番仲が良くなるのは当然のことだった。
「大体あれって妹がズルイって姉の婚約者まで奪っていく話でしょう?
弟じゃどうやっても違う話になってしまうじゃない」
「ジャンル違いね」
「意味、わかって言ってるのかしら?」
メルディスの言葉を真似して言っただけなのに何故か咎めるような視線を向けられた。
どうしてかしら?
茶会の終わりに「また明日ね」と声を掛けて去って行くメルディスを見送る。
「いいわねえ、未来の義妹が仲の良い子で」
「そうね、メルディスがお嫁に行ったら淋しくなると思うわ」
メルディスがいるから花嫁修業の辛さも嫁いだ後の不安も少し軽減してる。
いなかったらきっと、憂鬱で仕方なかったと思う。
◇◇◇
溜息の音に胸の奥がぐっと押し潰されるような苦しさを感じた。
「コルドー伯爵ではなくコルドー子爵よ。
お兄様が伯爵で弟さんの方が子爵。
名前もよく似ているから間違いやすいけれど失礼なことだからちゃんと覚えてね」
「はい……、申し訳ありません」
「早く覚えて一緒に夜会に出ましょうね」
にこりと微笑むその方はいずれ義母になる。
けれどその瞳の奥や発する空気は決して親しみを感じさせなかった。
講義を終え部屋を出て行く夫人を見送り詰めていた息を吐くと扉が大きな音を立て開いた。
入れ替わりで入ってきた婚約者に驚きながらも挨拶を述べる。
「お邪魔しております。
ご挨拶が遅れまして失礼を……」
「ああ、構わない。
母上の教えを受ける方が優先だろう。
先ほども聞いたが、どうも我が家系を覚えるのが遅れているとか」
「……ええ、覚えが悪くて申し訳ないですわ」
せっかく顔を出してくれたのに謝罪ばかりで申し訳ない。
時間ばかりかかり中々覚えられないことに焦りも感じている。
「気にするな。
嫁ぐ前にしっかりと覚えれば問題ない」
素っ気ない言い方にこみ上げる思いを押し殺す。
ご迷惑をおかけしますと答えてから前にもお願いした事をもう一度口にしてみる。
「あの、差し出がましいお願いだとは思うのですが、私も一緒に夜会にお連れ願えないでしょうか?」
6つ年上の婚約者は夜会にもよく顔を出している。
その席で何人かの親戚の方に引き合わせてもらえないかと何度かお願いしていた。
「まだ名前を覚えていない親戚もいるのに無理に決まっているだろう」
嫌そうに顔を歪めて答える婚約者にそれでもどうかと再度願う。
「ですが近しい方だけでも先にご挨拶をさせていただければきっと覚えられると思うのです」
文字だけを読んで暗記するより実際に挨拶を交わした方が記憶に刻まれやすい。
主要な方だけでもそうさせて欲しいと頼んでいるのだが、いつも答えは否だった。
「どうしても夜会が無理なのでしたら展覧会や劇場でもいいのでどうか」
「くどい! お前のような物覚えの悪い女を連れて歩けるか!
引き合わせたところで恥をかくだけだろ!
この話は終わりだ、二度と同じことを言わせるな!」
「……申し訳ありません」
苛立った足取りで出て行く婚約者に頭を下げる。
足音が聞こえなくなった瞬間、抑えきれない溜息が漏れる。
様子を見に来たメルディスに慰めてもらっても、中々浮上できなかった。
◇◇◇
「お帰り姉さん。
ずいぶんと疲れてる姉さんにとびきりのお茶を入れてあげて」
浮上しきれず沈んだ気持ちで帰った私を勉強を終えていたアレックスが出迎えた。
やさしい暖かさのお茶に強張っていた気持ちが解けていく。
カップが空になるとさっきより少し熱めのお茶が注がれる。
アレックスの従者は本当にお茶を淹れるのが上手い。
華やかな香りに口元を緩めた。
最初の一杯を飲み干すまで黙っていたアレックスが私にお菓子を勧め、いつもの時間が始まる。
そのお菓子は私がいただいて帰った物だけど。
「姉さんはいいなー。
婚約者は侯爵家の嫡男。
将来は侯爵夫人で安泰じゃないか」
アレックスのいいなーが珍しくお菓子ではないところに使われた。
今日もメルディスの優しさが詰まったお菓子はテーブルに出されてアレックスのお腹に収められていっている。
「そうかしら」
普通にしていたら安泰なのは確かだけれど、未来の夫とも義母とも上手くやっていけるか不安だわ。
そんな私の心を知らずかアレックスは自身の将来を憂いているようだ。
「だって僕はまだ婚約の話もないし、将来どうなるか全く見えなくて不安になるよ。
兄さんも滅多に家に帰ってこない。
僕、婿に行けばいいのか文官になって身を立てればいいのかもわからないんだよ?」
周りはそろそろ婚約の話が持ち上がってきているのにと口を尖らせるアレックス。
確かにアレックスの言うとおり。順当にお兄様が継ぐのならアレックスは身の振り方を考えなければならないし、お兄様はいい加減結婚しないと。
「そうよね。
お父様たちはどういうおつもりなのかしら?
お兄様が継ぐにしても城のお仕事で忙しくしてて領地の引き継ぎのお話なんてしてなさそうよね。
結婚も男性の方がゆっくりでも大丈夫とはいえ、遅いわ」
私より8つも上のお兄様はとっくに結婚もして子供がいてもおかしくない。
そもそもお兄様に婚約者がいたことがあったかしら。
今さらながら自分の家の跡継ぎ問題が心配になってしまった。
「今頃気づくなんて姉さんらしいね。
まあ、嫁いでしまったら姉さんに関係ない話なんだけど」
突き放すような言葉に眉を下げる。
弟の苦悩に気づきもしなかった私も悪いけれど、そんな言い方をされたら淋しい。
「そんなこと言わないでちょうだい。
嫁いだとしても実家や家族の心配をするのは当然のことよ」
あの侯爵夫人や夫となる人がそれを許してくれるのか……。
ちらりと頭をよぎった考えは無視した。
◇◇◇
「姉さん、緊張してる?」
「そうでもないわ。
今日はエリカ叔母様が主催のパーティで見知った顔ばかりだし。
それに、あなたがいるもの」
エスコートがアレックスなので気負うこともない。
純粋に楽しみだった。
「それ、僕じゃない相手に言った方がいいんじゃない?」
「あなた以外にこんなことを言う相手はいないわ」
婚約者は私を夜会に連れて行くのを嫌がるし、父と兄はそもそも夜会にあまり出ない。
アレックスは私の言葉に肩を竦めて話を終わらせると叔母様に挨拶に向かう。
「まあ! 2人ともいらっしゃい。
少し見ないうちに2人ともすっかり素敵な紳士と淑女になったわね」
「お招きありがとうございます。
未熟な身ですが、叔母上にそう言っていただけると励みになります」
「お久しぶりです、叔母様。
アレックスは毎日頑張っていますもの。
だから私もこうして安心してエスコートを任せられますわ」
身長も私に並ぶくらいになったし挨拶も堂々として頼もしいわ。
「まあ、ふふふ。
相変わらず仲の良いこと。
あなたも花嫁修業で気を張っているのではなくて?
今日はゆっくり楽しんでいらっしゃい」
「ありがとうございます」
2人で礼をして移動する。途中父の仕事の関係者や叔母様の親族(母の親族でもある)に挨拶をしながら飲み物を取れる場所まで来た。
こうしてパーティに参加するのは苦ではない。
それにしても……。
「どうして覚えられないのかしら」
「なにがさ」
独り言のつもりだったけれどエスコートをしている弟には聞こえていた。
素直に答えるのを迷ったけど辺りを見回して人がいないのを確認して口を開いた。
弟に自分が不出来だと晒すのは情けないけれど、日々勉強を頑張っている弟になら呆れられても仕方ないかと思う。
「婚約者の親戚が覚えられないの。
いずれ自分の親戚にもなるのに失礼だし情けないわ」
「待って、姉さん別に人を覚えるの苦手じゃないよね。
今日だって挨拶した人はちゃんとわかってたでしょう。
それなのに婚約者の親戚は覚えられないって?」
「うちよりももっともっと親戚が多いのよ。
辞典のような本とずっと見つめ合ってるのに全然覚えられる気がしないわ」
実際何か月もずっと見ているのに全く頭に入らない。
覚えたと思ってもこの前のように兄と弟を間違えて答えてしまうくらいだ。
「辞典? 家系図じゃなくて?」
「そう、まさに辞典よ。
小さい文字で名前が順に並んでいてその方の来歴から好んだ食事の内容までびっしりと。
おもてなしのためには覚えないといけないのはわかるから頑張って読んでいるのだけれど、どうしてもすんなりとは覚えられないのよね」
重要な方から順に教えてほしいとお願いしてもダメでほとほと困っている。
本当に私、嫁ぐ前に覚えられるのかしら。
「……なるほど」
アレックスが神妙に頷く。
こんな弱音を吐いてしまって呆れられるかと思ったけれどアレックスは私を馬鹿にするようなことはなかった。
「姉さんが疲れてた理由がわかった。
努力が中々実を結ばないのは辛いよね」
優しい労りを表してくれるアレックス。
ただ、次に言われた事実が少し胸に重たく感じた。
「やっぱり、姉さんにあの侯爵家は釣り合わなかったんじゃないかな」
「……そうね」
私よりも辞典を暗記できるような才女が相応しいのではないかと、自分でもそう思った。
◇◇◇
「え? 今なんて言ったの?」
唐突すぎてちょっと弟の言葉が理解できなかった。
「だから僕がこの家を継ぐことになったって言ったんだよ」
聞き返した私に冷静な声で同じ言葉を繰り返す弟。
なんでそんなに落ち着いているのかしら。
「どうして? お兄様は?」
弟のアレックスが継ぐということは、長兄がその座を譲るということだ。
「兄さんはこのまま王太子殿下の側近を続けるって。
そうしたら領地は継げないから僕が継ぐよって話を父さんにしてきた」
いつの間にそんなことを。
「父さんも僕たちの間で話が付いたのならそれでいいって。
僕が成人するまでは正式に発表はしないけれど、そのつもりでこれから領地のことを学ばせてくれるってさ。
ちゃんと話をしに行ってよかったよ」
突然の話でとても驚いたけれど、弟の未来が定まったことに安心する。
お父様もアレックスの普段の頑張りを聞いていたから認めてくださったのねきっと。
「良かったわ。
おめでとう、アレックス。
あなたなら立派な当主になれるわ」
「ありがとう、姉さん」
微笑むアレックスはこの家を背負う覚悟のせいか、とても力強い顔をしていた。
そんな弟が誇らしくて私も笑みが浮かぶ。
その笑みが次の言葉で引き攣った。
「で、それに伴って姉さんの婚約も解消になったから」
「…………え?」
後を継ぐと言ったときよりも満面の笑みを見せる弟になんと言っていいかわからず困って首を傾げる。
二の句が告げない私に対して、アレックスは何故かしら、やりきったような笑みを浮かべている。
「どうして?」
なんとか絞り出した問いにアレックスは不思議そうな顔をする。
「どうしてって、前言ってたじゃないか。
親戚の名前が覚えられなくて大変だって」
「ええ、確かに言ったけれど」
それと婚約解消とがどう結び付くのかしら。あまりに不出来だから侯爵家に嫁がせるのも不安になったとか?
弟にそんなことを言われたら流石にショックだわ。
「必要なときに開くべき辞典を頭から覚えさせるような、非効率的な教え方しかできない家にわざわざ嫁ぐ理由ないでしょ。
しかもそのやり方では覚えられないから必要なところから実際にお会いして覚えたいって言った姉さんの願いを却下したんだって?
正直そんな教え方じゃいつまでたっても覚えられないと思うし、わざと結婚を引き延ばすつもりなんじゃないかと疑ったよ?」
アレックスの見解にさっきとは別の意味で固まった。
まさか、結婚を引き延ばした挙句に覚えが悪いからと婚約を解消される可能性があったのでは。
思いついてしまった可能性にぞっとする。
「姉さんの元婚約者は結婚なんてまだまだ先で良いと思ってたみたいだし。
なんかいろんな夜会で女性と親密になってたって話も聞いたよ」
「そっ、そうなの?」
だから私を連れて夜会に出るのを嫌がっていたのかと納得した。
「それを聞いたら婚約解消して良かったと思ってしまったわ」
「そうそう、あんな不誠実な男に嫁ぐことないって。
姉さんがないがしろにされてたのは腹が立つけど、おかげであんまり姉さんの婚約が周知されてなかったからね。
解消しやすかったよ」
「そう、ね」
確かに夜会などで婚約者として挨拶をしていたら解消した後も少し面倒だったかもしれない。
そう考えれば婚約者にエスコートされる機会がなかったのはむしろ良かったわね。
「でも、私の婚約は政略だったでしょう?
その辺りは大丈夫だったの?」
「そこも大丈夫だよ。
姉さんが嫁ぐ代わりにメルディスがこの家に嫁いで来てくれることになったから」
「まあ! 本当に!?」
うれしくて思わず大きな声が出た。
「うれしいわ。
変わらずメルディスが妹になるのね」
あの家に嫁ぐにあたってメルディスと義姉妹になれるのだけはうれしかった。
アレックスと結婚してこの家に嫁いでくるなら以前よりも遠慮なく義妹として親しくできるのでとてもうれしい。
私がどこかに嫁いでも実家とは手紙のやり取りくらいはできるし、嫁の交友にうるさい家でなければ変わらず友人として義妹として仲良くできる。
婚約していたときよりずっと幸せな気持ちだわ。
にこにこしているとアレックスの後ろに控えた従者と目が合い微笑まれた。
緩んだ顔を見られたのが恥ずかしくて頬を押さえる。
咳払いをしたアレックスが、これからの話を続けるよと促す。
「それで姉さんの次の婚約者のことなんだけどね」
「まあ、もう当てがあるの?」
手配が早くて気持ちが追いつかない。
次のお相手はどんな方になるのかしら。
ちくりと痛む胸を押さえて言葉を待っていると後ろに控えていた彼がすっとアレックスの横に並んだ。
「僕のおすすめは彼」
「……………………」
全く予想をしていなかった展開に思考が止まる。
動きも止まった私の前に更に一歩踏み出した彼が胸に手を当て一礼する。
「驚かせて申し訳ありません。
突然の婚約解消に次の婚約と、大変戸惑っておられることでしょう。
ですが私はお嬢様の婚約者候補に挙がったことを喜んでおります」
いつも穏やかに控えている彼の真剣な声音に息を飲む。
「どうか、私が想いを伝えることをお赦しください」
「……!」
顔を上げた彼の微笑みにぶわっと顔が赤くなったのがわかる。
「いや、僕の前でやらないで。
後にしてくれる」
呆れたような不機嫌そうな声でアレックスが彼を遮る。
私はというと弟の前で告白紛いの台詞を言われた動揺に返事もできずにいた。
「そうですね。
アレックス様の前ではお嬢様も姉君の顔を外せないでしょうから」
「何する気なの……。
言っとくけど結婚まではめったなことしないでよね。
君はいいけど姉さんの恥になるんだから」
「心得ております」
主従のやり取りを赤くなった顔のまま見守っていると、アレックスが立ち上がった。
「姉さん。
これは無理強いじゃないから、好きに答えて良いよ。
彼と一緒になってくれるなら僕の側近の妻として領地に住むことになると思う。
メルディスも一緒だからきっと楽しい生活になるよ。
どうしても彼が嫌なら別に婚約者を探すけど……」
『きっといらないでしょう?』
すれ違いざまに私の耳に囁いた弟は意地悪な笑みを浮かべて部屋を出ていった。
◇◇◇
なんで、どうして、いつから。
驚きすぎて言葉が出てこない。
残された部屋でうろたえてる私とそんな私を優し気に見つめる彼。
頬の熱は全く引く様子をみせない。
「お嬢様」
「は、はいっ!」
大げさに反応してしまう私を笑うことなく彼は穏やかな笑みを浮かべ続けている。
「主人の姉君に懸想するなどあってはいけないこと。
ましてあなたは婚約者がいる身と気持ちを抑えておりましたが、アレックス様が後継者となることが決まり、あなたの婚約も解消となりました。
想いを告げる僥倖に恵まれたことを喜ぶ罪深い男ですが、どうか私の手を取っていただけませんか?」
そう言って差し出された手を、私を希う真摯な瞳を見つめる。
この手で淹れられたお茶を何度も飲んだ。
アレックスの命令だからだけではなく、私が疲れているときは少し甘さを足したミルクティーや、落ち込んだ気分のときは華やいだ香りのお茶を淹れてくれた。
その気づかいに、優しさに、私はずっと癒されていた。
いつしか彼のことを特別に想うほどに。
「アレックスが羨ましかったわ。
あなたの優しさを一番近くで受け取ることができて」
姉として素晴らしい従者に恵まれた弟を喜ぶ気持ちはもちろんあったけれど。
冷たい言葉を吐かれて帰ってきたときなど、温かい気持ちの込められた一杯を淹れてくれる彼のもてなしをいつも受けている弟を羨ましく感じていた。
「さっき次の婚約が、と言われたとき、少し胸が痛かったの。
婚約を解消されて、この家にいる時間が増えることを喜んでいたから」
重荷だった婚約の解消がうれしかっただけじゃなく、家にいる時間が増えることでアレックスや彼との時間が増えることが楽しみだった。
差し出された手に触れる。
「アレックスがあなたをおすすめだなんて言うから思考停止してしまったわ」
「お嬢様……」
「婚約解消から全部都合のいい夢なんじゃないかって。
だって……」
彼の手を両手で包み込む。現実だと確かめたくて。
「婚約してるときは気づかなかった。いいえ、きっと知らないふりをしてたわ。
あなたに惹かれてるって」
彼が目を見開く。
「まさかこの場で良いお返事をいただけるとは。
信じられない……。
断られると思っていました」
「想いを告げただけで満足だったの?」
それは悲しいことだけど、彼の立場なら仕方ないと思っていると彼が首を振った。
「いいえ、断られたら説得するつもりでしたよ。
メルディス様やアレックス様と一緒に領地で暮らすことはきっとあなたの慰めとなると思いましたし、アレックス様の助けになると思えば私との結婚も受け入れやすいのではないかと色々な説得を試みるつもりでした」
「まあ!」
簡単には諦めるつもりなんてなかったと聞かされて心臓が跳ねる。
「通常ならば告げることさえ許されない想いです。
せっかく伝えることを許されたのに、一度断られただけで諦めることなどできません」
情熱的に語られて頬の熱が上がる。
いつも穏やかな顔をしていた彼の一面。
それが向けられているのが自分だということがたまらなくうれしい。
「お嬢様への想いを否定せず、側に置いてくださったアレックス様には感謝しています」
「そうだわ、アレックスに伝えに行かないと」
私の想いも知っていたみたいだから結果も察しているかもしれないけれど。
早く知らせなきゃと部屋を出ようとした私を彼の手が引き止める。
どうしたの、という問いは形にならなかった。
「もう少しだけ、二人でいさせてください。
メアリー」
そんな幸せそうな表情で微笑まれて、愛し気に名前を呼ばれたら、ダメだなんて言えるわけがない。
繋いだ手を持ち上げられキスを落とされる。
『めったなことはしないでよね!』と頭の中のアレックスが叫んだけれど。
「手へのキスはめったなことの範疇には入りませんからね」
そう囁く彼の微笑みに反論が見つからず、私は顔をさらに赤く染めるだけだった。
人物紹介とその後のざっくりした未来
主人公[メアリー]
頭が悪いわけではないが辞書を丸暗記できるような天才でもない。
薄々嫌がらせだとは気づいていたけど文句を言えるほど強気にはなれなかった。
婚約が解消されて弟の側近の妻となって領地で暮らす。
世間的には格落ちだが、穏やかで優しく情熱的な夫と愛らしい子どもたち、頼もしい弟とかわいい義妹、利発な甥姪に囲まれてとっても幸せ。
弟[アレックス]
末っ子らしく甘え上手で要領が良い。
勉強も得意。
結婚前から嫁いびりをされてる姉と、自分の未来の側近のために婚約解消を頑張った。
家を継ぎたいと思ってたわけでもないが、これがベストだと考えている。
メルディスのことは可愛いと思ってる。
あとお菓子くれていい子。
領主になってからは側近や姉、妻とともに力を合わせて領地を発展させていく。
姉夫婦も自分たちも早々に子どもができたため屋敷がとても賑やか。
子だくさんの領主一族として慕われつつ親しまれている。
アレックスの従者
生まれは子爵家の3男。
後を継げる立場ではないため上位の主人公の家に奉公に出た。
主人公のことを密かに慕っていた。
自分の想いを知ってなお側に置いてくれたアレックスに深く感謝している。
アレックスが後を継がなかった場合も従者として仕えるつもりだった。
思いがけず主が家を継ぐため、従者→側近と格上げされた。
『側近なら姉さんを嫁がせてもおかしくないしね』と言ったアレックスに身命を賭して仕え続ける。
想いを伝えられる幸せに日々感謝し、主人公と子供たちに溢れる愛を惜しみなく捧げる。
最初は嫌な顔をしていたアレックスも慣れて(感化されて)領主一家の周囲は愛に溢れているともっぱらの噂。
元婚約者
主人公との婚約解消後、侯爵家の令嬢と婚約した。
侯爵令嬢は同じ家格だし元々の性格もあってかなり強気。
嫁いびりになんて負けないでガンガンやり返す。
元々の婚約者より自分に釣り合っている良い相手と婚約できたと思っている。
家の中はギスギスしてるけどきっと幸せ。
癒やしもないけど幸せ。と思うしかない。
侯爵令嬢
性格はキツイけど筋の通ったタイプ。
前の婚約者は嫁いびりに耐えられなかったらしいと聞いた。私なら大丈夫。
理不尽なことは未来の義母にも言い返す。
政略だろうが実家は対等。私が気に入らないならお義母様だけ領地に引っ込んでくださっても良いのよ。
結婚した後も夫が外に癒やしを求めないよう上手く扱いながら社交界に君臨する。
元婚約者の妹[メルディス]
自分の家があまり兄妹仲が良くなかったため、仲の良いメアリー姉弟が羨ましかった。
兄との婚約が解消されてもメアリーが義姉になってうれしい。
アレックスのことはよく話に聞いていたので親しみを持っている。
長兄
仕事が忙しくて全然家に帰れない上、下2人とは年が離れているためわりと疎遠。
王太子の側近として日々無茶ぶりに応えている。
アレックスよりもハイスペックではあるが、領地を継ぎつつ側近を続けるのは無理があると思ってた。
弟が継ぐと言ってくれて一安心。
結婚どころか過去に婚約者もいないため王太子の独身時代は一部の婦人に密かに黄色い声を上げられていた。