ベツレヘムの星
柔らかい中にも、地球上すべての生命を目覚めさせる力を秘めた温かな光。その光はこの薄暗い部屋の中にまで忍び込み、部屋の中にいる私を外へ外へと駆り出させようとする。私はその勢いに押し流されるかのように外に出た。柔らかい光を全身に浴び、温かな空気にふんわりと包みこまれてしまうと、硬く凝り固まっていた私の心はすっかり解きほぐされ、その中心から静かに幸福感がこみ上げてきた。
「春が来たんだな」
何十年もの間、繰り返し繰り返し私の人生に訪れてくれた春。毎年訪れるこの春の陽気によって、冬の間に凍え切った私の心身が何度も命を吹き返してきたことを思い出す。
せっかくなので、近所へ買い物に出かけることにした。
春の気配を感じながら店に向かって歩き出すと、ふと自分の視界の端っこに何か大切なものが映ったような気がした。それが何なのか全く見当はつかないけれども、「決してこれを無視してはならない」と人に決意をさせるような、重要な使命をもつ何かだと感じた。
その存在に抗えず、思わずその方向へ顔を向けると、私は思わず息を飲んだ。目の前に現われたのは、見事に咲き誇る満開の桜だった。近所の人以外誰も存在を知らないだろう小さな公園に、その桜の木はあった。こんもりとした桃色の枝をいくつも広げるその姿は、まるで公園に浮かぶ桃色の雲のようだった。
足元を見ながら歩いていた通行人も、その木の側を通ると思わず顔を上げてハッとした表情をする。しばし呆けた顔をして桜を眺め、以前より少しだけ幸せそうな表情を浮かべながら再び歩き出す。
その桜の木は、日常を淡々とこなす人々を確実に惹きつけ、その人々の心に新たな彩を添えていた。そしてその鮮やかな彩は、この私にも平等に与えられたのだった。
予定変更。私はその足でコンビニへと向かい、コーヒーと桜餅を買って、即席の「ひとりお花見会」を敢行することにした。本当はお茶菓子を和菓子屋さんで買いたかったけれど、近くにお店がないので仕方がない。買い物を済ませ、「どうかベンチが空いていますように」と祈りながら公園へと急ぐと、そこには草取りをしているおばちゃん以外誰もいなかった。私は心の中でガッツポーズをした。
これからほんの少しの時間、この桜は私だけのものだ。
ベンチから眺める桜の姿も美しいが、ハラハラと落ちてくる花びらや、くるくると地面を回り踊る花びらも愛らしい。そんな桜の姿を堪能しながら桜餅とコーヒーを頂いていると、今度は桜とは違うものが私の目に飛び込んできた。
桜の木の根元に、一輪の小さな白い花が咲いている。ふと横を見ると、すこし離れた場所に同じ花が群れをなして咲いていた。スマートフォンで検索してみると、どうやらそれはハナニラという花らしい。
私が目を奪われたその一輪の白い花は、群れから離れて一人で凛と咲いていた。しかも日本人が愛してやまない満開の桜の木の下に。自分よりも目立ち、人から称賛される「日本の象徴」のすぐそばで、たった一人で堂々と咲いているそのハナニラの存在に私は圧倒されてしまった。群れず、媚びず、自信を持って咲き誇るというのは私の人生の目標でもあるが、ここまで見事にそれを体現しているものがあることに心底感動したのだ。そのハナニラは、桜と自分を比較などしていないだろう。なぜなら、とても生命力にあふれ美しかったからだ。その花が力の限り懸命に咲いているから、その美しさに私の目が留まったのだろう。
ハナニラは「悲しい別れ」という花言葉を持つらしい。このハナニラが、なぜ一人で咲く人生を選んだのかはわからない。しかしきっと、孤独ではないだろう。自らの人生を受け入れ精一杯生きている者は、周りのことを気にする暇などないだろうから。
例え小さくても、目立たなくても、懸命に生きている限り美しく存在することができる。私も、そのハナニラのように孤高に生きたいと思った。
さらに調べてみると、ハナニラには「ベツレヘムの星」という別称があることがわかった。ベツレヘムの星とは、イエス・キリストが誕生したときに空に現われたとされる八芒星のことだ。3人の賢者が空に現われたその星を目指し歩いていくと、星の下には聖母マリアに抱かれたキリストがいたとされている。クリスマスツリーのてっぺんに飾られる星もその八芒星の表れだ。
まさしく、私に深い感動を与えてくれたこの花にぴったりの呼び名だ。満開の桜の木の下で一人輝く真っ白な星。人に感動を与え導く神聖な花。私はこの花に出会うためにこのベンチに導かれたのではないかとすら思った。私はすっかり、この一輪の花に心酔してしまっていた。
後日、近所を散歩をしている途中でふとあのハナニラの存在を思い出した。またあの星に会いにいきたくなった。そのまま公園へと足を運ぶと、あの満開だった桜はすっかり葉桜となっていて、私のベツレヘムの星の姿は消えてなくなっていた。
私の神様に、また来年お目にかかれますように。
儚いその花の命を思い、一人静かに祈った