ふらり
1度電車を乗り換え、神奈川から東京方面に向かっていた。
とある駅で愁子は降り、帰宅する人の波に流れながら改札を抜け、駅前をふらふらと歩いた。
スーパーの隣からは、パン屋が並び、チェーン店のカフェや、ファストフード店や書店が建ち並んでいた。
駅前のバスロータリーを抜け、横断歩道の前で、辺りを見渡すと、駅前の角にビジネスホテルの看板を見つけた。
「少し散策してから、今夜は、あそこに泊まろうかな」
愁子は駅から離れ、街道沿いを歩いた。歩道は綺麗に整備され、街路樹が等間隔で植えられていた。
小さな美容室やクリーニング店、パン屋やコンビニなどが立ち並んでいたが、明かりが見える建物は、歯医者と整形外科、薬局のようだった。
この先は、もう店は無さそうかと思い、次の信号で引き返す事を考えながら、愁子はその手前で小さな店を見つけた。
campanulaと看板に書かれた文字と、風鈴草がシルエットになって記されていた。店名の下には、Barと書かれているのを確認すると、ちらりと愁子は店を覗いてみた。
オレンジ色のライトが、ほんのりと照っていた。店の手前の壁には、アップライトピアノが置かれ、さらにその奥には、カウンターが見え、客が数名見えた。
この先は何も無さそうだし、思い切って入ってみる事にした愁子は、店の扉に手を掛けた。
ドアベルが、細い金属音をたて響いた。
「いらっしゃいませ。どうぞ」
バーテンダーの男性が、愁子にカウンターから声をかけた。30代後半くらいだろうか。短髪の黒髪は、綺麗に分けられセットされていた。
愁子は、ピアノの近くのテーブル席に目を留めると、
「よければ、カウンターおかけ下さい」
バーテンダーの男性がもう一度、愁子に声をかけ、右手で席を指していた。
カウンターには、客が2人。1人は、サラリーマンの50代くらいの男性。もう1人は、20代くらいだろうか。Tシャツに黒のパンツ、スニーカーを履いた、カジュアルな服装の男性だった。2人は別々に、カウンターの両端に座り、アルコールを飲んでいた。
「荷物は、足元のカゴをお使い下さい」
「はい」
バーテンダーと客の2人の視線が向けられ、愁子は緊張をしていた。バーテンダーに案内された、カウンターの真ん中のスツールに、ぎこちなく腰掛けた。
「どうぞ。メニューは、こちらと、壁の黒板にあります」
メニューをバーテンダーから受け取ると、様々なベースのカクテルやお酒が記載されていた。
“お酒を飲むのも、いつ振りかしら? 思えば、まだ独身の頃に、職場の飲み会で多少口にした程度だわ”
ずらりと並んだメニューから、愁子はジントニックを選んだ。何も口にしないで飲むのは、不安だと思い、黒板のフードメニューを見ていると、
「マスターお手製の、チーズの燻製とドライトマトがオススメですよ」
と、右端で飲んでいたサラリーマンの男性が、教えてくれた。ノーネクタイ、グレーのスーツ姿の男性は、日焼けした肌に骨ぼったいエラの張った顔の輪郭をしていた。
「ありがとうございます。じゃぁ、ジントニックと、ドライトマトを、お願いします」
愁子がマスターに言うと、柔らかい表情を見せてマスターは愁子から、メニューを受け取ると、手際よく準備をし始めた。
店内に弱々しく流れているBGMが、愁子の耳に届いた。どこかで聞き覚えのあるような、多分、映画のサントラか何かだろうと思っていた。
マスターの細く長い指が、メジャーカップを挟み、しなやかな流れでコリンズグラスにジンが注がれる。ジントニックが出来る、一連の流れを、愁子はただ黙って見ていた。
そう言えば、バーに入るのは初めてだと気づき、何か作法でもあるのではと頭を混乱させ、変な汗がにじみ出た。
「ジントニックです。どうぞ」
コースターの上に、お行儀よく置かれたコリンズグラス。シュワシュワと弾けるトニックウォーターが、乾いた喉に欲しているのが分かった。
「折角だから、乾杯しましょう」
右端に座ったサラリーマンに声をかけられ、そうして、左端の若者に彼が視線を移すと、同意したように小さく頷き、愁子は、流れるままにグラスを手に取った。
「乾杯」
グラスを持ち上げ、両サイドの彼らの顔を見合わせ、愁子はゴクリと一口飲んだ。ジンの香りが広がり、トニックウォーターが喉に刺激を与えながらスーッと通っていった。
「おいし…」
小さく漏れた声に、マスターは、ほっと顔を綻ばせた。
「今、フードの方準備しますね」
「お願いします」
心なしか、気持ちが落ち着いた愁子は、目の前にずらりと並ばれている、様々なアルコール の入った瓶を眺めた。
「あの、1番上の左端のお酒はね、ハーブの香りがするんだよ」
右端に座っていた男性が、愁子の視線に気づきそう教えた。
「ハーブですか?」
「そう。アブサンという酒なんだけど。あれをロックで飲むのが、美味いんです」
目尻にシワを寄せ、柔らかい表情を見せて、男は言った。
「そう言えば、たまに吉川さん、飲んでますよね? 俺は、あの酒、消毒液みたいで、飲めないです」
左端に座っていた若者が苦笑いして、吉川と言う男に言った。お互い、店の常連なのだろうと、愁子は思った。
「消毒液か。ははっ。晴海は、試したことがあるんだね?」
「仁科さんが飲んでたのを、少し貰ったことがあるんです。おねーさん、あの酒はゲキマズですよ」
黒い短髪の髪に、短めの髭があったが若者のそれは、どこか清潔感があるようにも思えた。くしゃりと、笑んだその顔は、幼げな雰囲気があった。
「そうですか…。消毒液みたいなら、私も苦手かもしれません」
釣られて苦笑いを見せた愁子は、晴海と視線が重なった。二重瞼で黒く大きな瞳に、愁子は吸い寄せられそうな程の目力を感じた。そうして、胸の奥で大きく鼓動が響いた。
“久し振りに、大園以外の異性を前にして、私ったら緊張してるわ…”
とっさに視線を逸らし、気恥ずかしい思いを誤魔化すように、愁子はジントニックに口をつけた。晴海は、愁子の様子をみて、クスリと微かに笑んだ。
「おねーさんは、ここ、初めて? 名前、なんて言うの?」
晴海が愁子に笑んだまま、話しかけた。幼げな雰囲気は、どこか人懐こい子犬のような雰囲気でもあり、晴海から出るそれが、可愛らしさだと、愁子は察した。
「そう言う時は、自分から名乗った方が、紳士的だと思うけどな。はい。お待たせしました。ドライトマトです」
マスターが、助太刀するかのように間に入り、晴海に言った。
「俺? 俺は、晴海。永丘晴海。で、おねーさんは?」
「私は…大…。さ、三枝愁子です」
愁子は、離婚届を置いてきた事を思い出し、とっさに旧姓を名乗った。
「三枝愁子さん。よろしくね」
晴海にフルネームを呼ばれ、旧姓の自分がとても懐かしくもありつつ、新鮮でもあった複雑な気分だった。ほんの少し、緊張の糸が解れた愁子は、ドライトマトを一口食べた。ねっとりとした食感と、甘さが舌にまとわり付き、濃厚なトマトの味が口の中に広がった。
「美味しい」
「お口に合って良かったです」
マスターが顔を綻ばせ、愁子に言った。
「ここは、常連さんが多いのですか?」
愁子は、マスターに話をかけた。間が持たないと、思ったからだ。
「そうですね。大半は。後は、週末ここで生演奏のイベントがあるので、それを目当てに来るお客さんとかもいます」
「生演奏?」
「そう。そこの、アップライトピアノや、持ち込みでサックスとか。音大生が主にしているんですけどね。クラッシックとか畏まってなくて、JーPOPとか、映画のサントラとか、中には自作した物を披露する人もいます」
愁子は、スツールをくるりと180度回転させると、壁際に置かれたアップライトピアノを見て、存在感があるなと愁子は思っていた。
「生演奏聴きながらお酒飲むなんて、なんだか優雅ですね」
「都合が良ければ、是非どうぞ」
マスターに言われ、愁子は小さく頷いた。きっと、一見で来ないのは分かっているだろうに、それでもマスターは、声をかけてくれたけど、愁子は生返事をした事に、心のどこかで後ろめたくなっていた。
コリンズグラスの中で、シュワシュワと炭酸の泡が浮き上がるのを見つめながら、愁子は不意に自分がして来た事への動揺に、のみ込まれそうになっていた。
腕時計に視線を移すと、針は19時を指していた。まだ、大園は帰宅していないだろう。帰りはきっと、日付が変わった頃だろう。事態を知ったら、大園はどう思うのだろうか。どの様な状況になっても、自分の意志は固まっていた。
自分のした事に胸騒ぎを感じ、無意識に胸に手を当てた愁子に、晴海が声をかけた。
「何か、心配事でもあるの? さっきから浮かない顔してるけど?」
晴海と視線が重なり、愁子ははっと我に返った。
「無いと言ったら、嘘になります。でも、仕方ないので」
力なく笑んだ愁子を見て、晴海は、
「ふーん」
と、言葉を返し、グラスに入っていたウイスキーを飲み干した。
「桐崎さん、山崎下さい」
「ストレート?」
「はい」
晴海に言われ、桐崎は酒瓶の並ぶ棚から、山崎と言うウイスキーのボトルを手に取った。
「晴海、最近、仁科くんと来ないけど、元気にしてるの?」
ロックグラスに注がれたウイスキーを晴海に差し出し、桐崎は尋ねた。
「元気ですよ。しばらく地方の仕事が入ってるんで、来られないんです」
「そうなんだ? あれか? こないだの台風の被災地とか?」
「あー、そうです! 受注が多くて、てんてこ舞いですよ」
「大変だな。土木業界も」
「あはは。まぁ。しょうがないですよ」
ケラケラと笑いながら、晴海は言った。仕事の話になると気が大きくなるのは、大園だけでは無く、男には良くある事なのだろうかと、愁子は晴海を見て察した。
時間が経つにつれ、客足も少しずつ増えて来た。カウンターは徐々に席が埋まりつつあり、愁子はひと席ずつ左に詰めながら、最後は晴海の隣に座っていた。
愁子は、2杯目にジンライムをオーダーし、ライムの爽やかな香りに混ざったジンを、ゆっくりと飲んでいた。
口数の少ない愁子を見兼ねてか、晴海は自分の話を、愁子にしてくれていた。
母子家庭で育った事。下の弟や妹達の分まで生活費を仕送りしている事。高校を出て土木関係の仕事に就いている事。仁科と言う職場の上司がとても親切で、可愛がってもらっている事。そして、その仁科に晴海は憧れを抱いている事。
目を輝かせ、楽しげに話す晴海見て、愁子も穏やかな気持ちでそれを聞いていた。
「愁子さんはさ、この辺に住んでるの?」
「いいえ…」
急に話を振られた愁子は、とっさに表情を曇らせた。
「ふーん…。今度は、愁子さんが話したい事を、何か聞かせて」
左手で頬杖をつき、晴海は愁子に言った。一瞬、晴海と視線を重ねたが、何を話せば良いのかと、どぎまぎと焦る気持ちで視線が泳いだ。
「急に言われても…。えっと…」
右手の人差し指を唇に当て、考え込んだ愁子を見て、晴海はにこりとした表情で、それを見ていた。
「私なんかの話を聞いても、楽しくはないのかもって、なに話せばいいんだろうって、考えてしまいます」
愁子が正直に晴海に言うと、晴海はケラケラと笑った。
「“私なんか”じゃなくて、俺は、愁子さんの話す、話が聞きたいだけだよ。話が何もかも、楽しい訳じゃないと思うし、相手の興味関心だって、違うわけだし。そんなに、考え込まないでいいと思うけどな」
晴海にそう言われ、愁子は少し考え直すと、自分の身の上話をする事にした。
全て親が決めて生きてきた事。結婚した夫とは、冷えた夫婦関係だった事。夫の浮気が発覚した事。離婚覚悟で家を出た事。
「なかなか、ヘビーな話だね。そっか。それでその荷物なんだ。愁子さんは、自分の意思で今、こうしてここにいるんだね。じゃ、祝、カイホーだね」
晴海はロックグラスを手に取り、目の前に持ち上げた。
「解放?」
「親とか、結婚とか、そう言う事から」
「なるほど…。そうですね」
愁子は、自分がした事に、後ろ髪を引かれる思いはないと、自覚していた。晴海のその言葉を受け止めた愁子は、晴海とグラスを軽く合わせ、祝杯をあげたのだった。
お読みいただき、ありがとうございました。
お話に出てきた、お酒。アブサンは、愁子のようにバーで、カウンターで飲んでいた時に、お客さんの1人から少し頂いて飲んだ覚えがありました。消毒液みたい…これは、作者の飲んだ感想です。
永丘晴海と出会った愁子の今後の展開を、どうぞ宜しくお願い致します。