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泡沫 UTAKATA  作者: 未月かなた
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ある日の非日常


大園は普段の様に、4時に起き、始発に間に合うように出かけて行った。

起床から、家を出て鍵を締めるまでの大園の生活音の一部始終が、愁子の耳には聞こえていた。出かけ際、愁子に詫びの一言もないのは、想定内だと愁子は思っていた。


愁子は、あまり眠れないまま、朝を迎えた。ボーッとする頭のまま、1階の雨戸を開けると、目眩い程の光が入り込んで来た。網戸にして部屋の空気を入れると、愁子はそこで大きく伸び、深呼吸をした。

清々しい朝なのに、愁子の胸の中は、暗雲が埋め尽くしていた。


食欲は全く無かった。水をコップ1杯飲み、愁子は掃除と洗濯に取りかかった。

2階にある大園の寝室は、殺風景だった。クローゼットにはスーツやシャツが几帳面に並んでいて、ベットの上の掛け布団は、必ず4つに折りたたまれていた。1階には書斎があり、そこは壁一面に本で埋め尽くされ、日が当たらないせいか、陰湿な雰囲気だといつも愁子は思っていた。


一通り掃除が終わり、愁子は一息付き、リビングに戻った。見慣れた景色なのだが、今日の愁子には、それが余所余所しく見え、居心地がとても悪く感じていた。

椅子に座り、頬杖をつくと大きな溜息が漏れた。何もせずにいると、もくもくと立つ煙の様に、昨夜の出来事が、頭を埋め尽くそうとしていた。

愁子は、それをかき消すかのように、席を立つと、洗濯物を干す事にした。

朝、8時までに洗濯物が出ていないと、義理の母にだらしないと注意される。それは、間接的に義母から大園に伝わり、そうして愁子の耳へと、大園の嫌味も加わり届くのだった。


愁子の両親は、この結婚に大喜びをしていたが、大園の方は、晩婚の息子の元に嫁ぐ事は喜ばしいと、表面では言っているものの、可愛い一人息子の嫁となると、義母は打って変わって、嫁いだ途端に愁子をいびるばかりだった。

家の近くには、スーパーがあり、買い物には不自由しないが、両手いっぱいの袋を下げて帰宅した愁子を見かけた義母は、大家族でもないのに、そんなに買う必要は無いと小言を大園に伝え、それ以来、愁子は買い物には出ずに、宅配で食材を届けてもらうようにしていた。

隣の敷地から、義母は愁子を監視しているかのようで、愁子にとっては、とても暮らしづらいものだった。


愁子は、窓際にある置き時計に目を向けた。7時45分のデジタル表記を確認し、急いで洗濯機の元へ向かった。

ドラム式の洗濯機の扉を開け、最初に掴んだのは大園のワイシャツだった。なるべく意識しないようにとは思っても、フツフツと怒りが湧いて来てしまう。

勢いよく洗濯物をカゴに入れ、愁子は庭に出て、それらを干す事に集中しようとした。

隣の保育園には、園児が登園し始め、キンキンと響く高い声が聞こえが、更に愁子の苛立ちを煽っていた。

不意に、昨日、大園の上着から香った匂いが何かに、愁子は気づいた。

洗濯を干し終え、大園の寝室のクローゼットの中から、昨日着ていた上着を出し、クンクンと匂いを嗅ぐと、ほんのりと甘く、華やかな香りが残っていた。

「やっぱり…。そうだわ」

それを、元も場所に仕舞って自分の部屋に向かうと、化粧台の引き出しの奥にあった香水の瓶を手に取った。

「ヘリオトロープ。あの人、昨日の女にも贈ったのね」

結婚して初めての誕生日に、大園がくれたのは1本の香水だった。

「母も気に入っていて、俺も、好きな匂いだから」

そう言って手渡され、匂い自体は嫌いではなかったが、大園の思い入れが愁子は嫌で、一度もそれを付けた事はなかった。

愁子は、その瓶を持ったまま、リビングの空き瓶の入ったゴミ箱の前に立つと、込み上げていた怒りとともに、力を込めて投げ入れると、ガチャンと、中に入っていた瓶同士が音をたて、部屋中に響き渡った。


お昼になっても、食欲は湧かず、愁子は白湯をカップに注ぎ、それをゆっくりと飲んだ。

午後15時には、洗濯物を取り込む。これも、義理の母の掟の一つだった。

洗濯を畳み、大園の物は、部屋のベッドの上へ置くのが決まりだった。

陽が沈みかけ、愁子は17時までに雨戸を閉める。これも、義理の母の掟であり、顔は見えなくても、毎日彼女の監視があるも同然と、愁子は察していた。けれど、自分の部屋だけは閉めずにいた。これが、愁子の細やかな抵抗だった。


愁子は、クローゼットの上の棚に重ねてあった箱に手を伸ばし、それを取った。母親から、誕生日にもらったスカーフが入っていた空き箱だった。薄いピンク色の紙に小さな花模様が散りばめられている箱だったので、愁子は気に入って取っておいた。

その箱の薄い蓋を開け、中に入っていた“それ”を取り出した。

二つ折りの薄い素材の紙を開くと、既に必要箇所を書き込み、押印をした離婚届をじっと見つめた。

「ほんとうに、これを使う日が来るなんて」

離婚届は、結婚して2年目の頃に、市役所からもらって来ていた。きっかけは、不妊治療の事だった。

自分に落ち度があるにもかかわらず、大園が愁子を欠品扱いし、仕方ないから連れそうと、義理の両親の前で見栄を張ったのだ。

愁子は、悔しさで怒りが湧いたが、途端に結婚に対する想いが、一気に冷めた。

証人の欄は、正式に出す事が決まれば、弁護士にでも相談しようと思っていた。


クローゼットから、小さな旅行用のカバンを取り出すと、2、3日分の着替えとブラシ、買い置きしておいた歯ブラシも念のため入れ、化粧品や、ジュエリーボックスに入れてあった、腕時計を身につけた。

ショルダーバックと財布、スマートフォン、ハンカチとポケットティッシュが入っているのを確認すると、クローゼットから薄手のコートを取り出した。5月とは言え、朝晩はまだ少し肌寒かったからだ。

自分の部屋から、義理の両親の家の雨戸が閉まったのを確認すると、愁子は部屋中の戸締りを確認して、家の鍵を手に取り、ヒールの低いパンプスを履いて家を出た。

陽が沈んで辺りが薄暗く、道の街頭が点灯していた。

いつ振りだろう。こんな時間に、外に出るのは。非日常の事に、愁子は胸をドキドキさせていた。


“お世話になりました”

離婚届の上に、一言書いたメモと、結婚指輪をリビングのテーブルに置いて。



行く当てもなく出てしまったが、ひとまず駅に向かおうと考えた愁子は、帰宅する人の流れに逆らいながら、歩いていた。赤提灯の下がった焼き鳥屋からは、香ばしいタレを付けた焼き鳥の匂いが漂う。そこに、吸い寄せられるかのように、通りすがりのスーツ姿のサラリーマンが入って行った。

行く当てはないけれど、とにかくここから離れようと思った愁子は、電車に乗り込んだ。退勤時間でもあるせいか、電車は混んでいてつり革を確保できた事に、ほっとしていた。









お読みいただき、ありがとうございました。

ようやく涼しくなってきました。

過ごしやすくなるのは、嬉しいかぎりです。


大園の元を離れた愁子の、今後の展開は。

次回もどうぞよろしくお願いいたします。


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