それから
今にも雨が降り出しそうな空模様で、愁子は、カバンの中に折りたたみ傘を入れてある事を改めて確認した。
堕胎手術は1時間程で済み、術後病室で静養した後、病院を後にした。
軽く腹部に鈍痛が感じられたが、もう、あの船酔いのような不快感や眠気はスッキリと消えていた。しかしその根源が、自分の中からいなくなってしまった小さな命だったと言うことを思うと、愁子は後ろめたさで胸が痛んだ。
マンションへと戻る帰り道をとぼとぼと歩きながら、見覚えのある車が通過するかと思うと、それが路肩に停車した。そうして、運転席から二階堂が現れると、愁子に駆け寄った。
「そろそろ、終わるのかと思って。具合はどうですか?」
「ありがとうございます。術後少し休んでたので、大丈夫です」
二階堂は、病院も付き添うと申し出たが、愁子がそれを頑なに拒んだのだ。
「無理しないように、どうぞ車に乗ってください。雨が降りそうだ」
愁子を助手席に乗せ、路肩に停めた車を発進させると、二階堂は心配そうな顔を見せた。愁子が、空模様のように、今にも泣き出しそうな表情をしていたからだ。
愁子は、自分で決断した結果であっても、行為自体はもう二度とあってはならない程の罪深さと、その命への弔いの念は忘れてはいけないと心に痛い程刻んだ。
「愁子さん…」
「すみません。大丈夫です…」
愁子は奥歯を噛み締め、涙を堪えた。泣いて仕舞えば、自分がした選択を後悔してしまう気がしたからだ。堪えれば堪える程、喉の奥が熱くなり、鼻の奥がツンとする刺激が走る。それでも必死に愁子は耐え、窓の外の景色に意識を移していた。
「あの、どこへ行くのですか?」
自宅マンションを通り過ぎ、車を走らせていた二階堂に愁子は尋ねた。
「お身体には障らないよう、気をつけます。部屋にいたら愁子さんの事だから、きっと塞ぎ込んでしまうのではと思ったから。ドライブしましょう」
二階堂は、チラリと愁子の方を見た。そうして、一瞬愁子と視線を重ねると、口角を上げて穏やかに笑んだ。
「はい…」
「良かった。また、一緒にドライブしていただけるなんて、幸せです」
愁子は二階堂の横顔を見た。目尻にシワを寄せ笑んだその顔と、二階堂のこれまでの優しさが、愁子の心にじんわりと染みていた。
途中、カフェで休憩し、程よく冷房の効いた空調が心地良さを感じさせていた。
愁子の気持ちも落ち着きを見せ、2人で和やかに会話を弾ませた。
「僕、甘いものに目がないんです。愁子さんもどうですか?」
「ふふ。私もです」
テーブルの中央に置いたメニューから視線を上げ、2人は互いに顔を見せ合い笑った。
そうして、笑みが途切れると2人は見つめ合った。互いの持つ空気感が融合し、言葉を通い合わせなくても、求める気持ちが同じてある事を理解したかの様だった。
紅茶に口をつけ、ティーカップを置くと、愁子は小さく息を吸い、二階堂の顔を見た。
「今日、こんな事を言うべきではないかもしれませんが。私、以前二階堂さんが仰ってた道草をおしまいにしようと思います」
「それって…」
二階堂は愁子の言葉に、不安げな顔をした。思う所、別れの予感を察したからだ。
「道草した先に、きっと私が辿り着いたからです」
愁子が頬をピンク色に染め、微かに笑んだそれを見て、二階堂の表情は明るくなった。
「じゃぁ…僕と…」
愁子は、言葉の代わりに恥じらいながら小さく首を縦に振って見せた。そうして、
「こんな私ですけど、よろしくお願いいたします」
と、照れながら二階堂に言った。
二階堂は、テーブルの上の愁子の両手を握り、目尻にシワを寄せてくしゃりと笑んだ。
「嬉しいです。僕の方こそ。大事にします。よかった…こんな嬉しいことはないです…」
ホッとしたような笑みを浮かべ、しっかりと愁子の手を離さずに、二階堂は喜びを愁子と分かち合った。
5年後
5月の連休が過ぎ、フラワーガーデンには春バラがまだ花を咲かせていた。
愁子の右手は二階堂の左手が繋がれ、二階堂の右手には、3人分のお手製の弁当が入ったバスケットが下げられていた。
「ママー、パパーきてっ! このはな、かっこいー!」
「こら、理央、走ると危ないだろ」
愁子は、3年前に二階堂と結婚した。2人の間には、理央と言う男の子が生まれた。再婚を報告する頃には、愁子は父との関係も雪解けし、2人を快く受け入れてくれた。
理央を出産してからは、すっかり甘いおじいちゃんぶりが現れ、理央も実家に行くのを毎回楽しみにしている程だった。
2人の前を走る理央を、心配げに見守りながら、愁子は理央が見つけた花の前に立ち止まった。赤い花びらをつけたその花を、理央はマジマジと眺めていた。
「これ、なんてはな?」
愁子は身を屈め、花を見て理央に話しかけた。
「アネモネって言うのよ」
「ア…モネ…?」
「アネモネ」
もう一度、ゆっくりと愁子は理央に言った。理央は口をもごもごさせて、たどたどしく花の名を口にした。そうして、あっちは白、こっちはピンクと、色のついたそれらを指差してはニコニコしていた。
愁子は理央を他所に、遠い目をすると小さくため息を吐いた。あれは、4年前の事だった。突然、自宅に花が届いた。
それは、1輪のアネモネだった。
贈り主は不明だったが、愁子は、その花言葉の意味あいから、それが誰なのか何となく察していた。
“あの花を贈ったのは、きっと晴海くんだわ…”
「あ! バッタっ!」
理央の声に、はっと我にかえった愁子は、咄嗟に理央を見た。
アネモネに気を取られたかと思うと、近くの花の葉から葉へ飛び移ったバッタを見つけ、理央はバッタを追って駆け出した。
「りおー! あぶないぞー。1人で遠くにいくな」
二階堂の言葉も聞かず、理央はかけて行ってしまい、二階堂は慌ててその後を追った。愁子は、2人の背中を見守りながら、アネモネから離れた。
「ながおかくーん! こっちの苗、運んでくれるー?」
女性スタッフの声が近くの花壇で聞こえ、愁子は胸が大きく鼓動すると、声に反応して思わず振り向いた。
「はーい」
近くの花壇で作業をしていた若い男性スタッフの姿が見え、愁子は苦笑いをして小さく首を横に振った。
「ここに、彼がいるわけないわ…」
小さくポツリと呟いて、愁子は歩き出した。
晴海は、裁判で懲役5年の判決を受けた。
もしそうであったら、刑を終えて今頃出所しているに違いなかったが。
3年前に、突然仁科から愁子の元へ連絡が来た。忘れもしない、結婚式の前日だった。連絡をした事を丁重に詫びられながら、仁科と軽く世間話をした後だった。本題に入る前に、仁科は小さく呼吸を整えた。
「晴海が、死んだ…」
突然の事だったと言う。心臓麻痺を起こしたと。話すべきか迷ったが、念のためにと仁科は言い、愁子に伝えてくれたのだった。愁子にとっては、もう振り返ることもしたくない思い出だったが、胸の中で彼に悔やみを祈った。
「ママー! バッタ、パパがとったよー!」
理央が遠くで手を振り、大きな声が、愁子のところに届き、我に返った。
「すごいねー!」
愁子は駆け出すと、理央がすかさず
「ママー、はしるとあぶないんだよー!」
と、いつも自分が言われているそれを愁子に言うと、愁子と二階堂は互いに笑い合った。
泡沫 UTAKATA おしまい
泡沫 最後までお読み頂き、有難うございました。
当初はもう少し短くおさめる予定だったのですが。最後は、たたみこんだ感がありますが、ご了承ください。
改めて作品に長々お付き合い下さいまして、有難うございました。
至らない文章でしたが、感想など頂けましたら幸いです。
もうすぐ3月。
梅に桃に、時期に桜も咲き出し、景色が華やかになります。
世間も、時期に明るくなってくれる事願いながら。
またいつか、作品を投稿する機会がありましたら。
その時は、覗いてみてください。
未月かなた