事実
実家から帰って来る途中、愁子の胸騒ぎが的中した。
晴海のアパートを訪れたが、すでに部屋は空き部屋になっていた。混乱した思考回路が飽和し、愁子は、玄関にぺたんと座り込みしばらく呆然としていた。
そうして、愁子は少しずつ気を取り直したが、晴海が薬物に手を染めたのは、自分が二階堂と会う事を話したせいで、ヤケにでもなってしまったのではないかと、自分を責め始めた。
「どうしよう…。どうしたらいいの…」
微かな光として見えたのは、campanulaだった。愁子はすぐに店へ向かい、桐崎の元へ駆けつけた。店には客がおらず、スタッフの女性もなく、桐崎1人がそこに居た。
「いらっしゃい…。さっき、晴海の事で、刑事が来たよ」
息を切らし店内に入って来た愁子に、桐崎は淡々と話した。
「晴海くんは…?」
愁子の問いに桐崎は首を横に振って見せた。
「晴海の仕事の上司の仁科さんが、前に話してたんだ。晴海が変な奴らと関係しているって」
「変な奴って?」
「さぁ。多分、そういう関係の奴って事かも」
「あのっ。その、仁科さんって方には、どうすればお会いできますか?」
グラスを吹いていた手を止め、桐崎は愁子の顔をじっと見た。
「愁子さん、悪いことは言わない。もう、アイツに関わるのはやめた方がいい」
「でもっ! 私…」
桐崎は小さく息を吐くと、メモ用紙を取り出し、それに何かを書き始めた。
「これ、仁科さんの連絡先。一応、晴海が絡みで愁子さんが訪ねること伝えておくから」
愁子は、桐崎からメモを受け取りそれをカバンにしまった。
「何か飲んでいく? 作ろうか?」
桐崎は愁子に勧めたが、自分の身体の状況を考え、それを丁重に断り店を出た。
長い1日だったと、愁子は部屋に戻り、どっと疲労感が身体に押し寄せたのを感じていた。ストッキングを脱ぎ、素足で洗面所へ向かおうとした時だった、胸に込み上がる不快感が愁子を襲った。
慌ててトイレへ駆け込むと嘔吐をし、肩で息をしていた。
疲れからなのか、それとも…と、愁子の脳裏に抱えていた不安要素が再び浮かんできた。二階堂と話した事を思い出し、愁子はいよいよもって、自分の身体の変化を、確認しなくてはいけない状況下に立たされていた。
翌日、泥のように眠った後、目が覚めても眠気は続き、船酔いのような胸のムカつきが波のように愁子を襲っていた。
「相良さん…朝早くすみません。あの…本日、お休みを頂きたいのです。少し、具合が悪くて…。はい。ありがとうございます」
相良に電話をかけ終えると、愁子は再びベッドに横になった。
1時間程経って目が覚めると、愁子は気だるい身体のまま、出かけていった。
駅前にあるドラックストアで妊娠検査薬を買い、再び自宅へ戻ってきた。30分程度の外出が、こんなにも疲れる事はこれまでなく、愁子は自分の身体の変化が、怖くなっていた。
それでも、確かめるべき事実と向き合わなくてはならなかった。
しかし、テーブルの上に置いた妊娠検査薬をぼーっと見つめたまま、愁子はその場から動けずにいた。
もし、妊娠していたら、私、どうすればいいのかしら…。
親にも勘当され、晴海は行方不明となった今、愁子はたった1人で子供を産み、育てる自信が今の現状では全く持てず、不安ばかりが募る一方だった。
不安の波に飲まれ、恐怖すら感じた愁子は、意を決して妊娠検査薬を手に取ると、トイレへと向かった。
結果は、陽性だった。
説明書には、病院での診察を受ける事も勧めていた事が、書かれていた。
誰にも相談できないまま、1人で不安を抱えるより、診察を受けに行く事が、唯一の救いのように愁子は思えた。そうして、ちかくの産婦人科を探し連絡をすると、午後の予約を取る事ができた。
結果には不安が募るばかりだが、先が見えたそれだけで、今の愁子の胸の中が少し晴れてきていた。
気怠さと、眠気は続いていたが、昨日桐崎からもらった仁科の連絡先の書いたメモを取り出すと、愁子はそこに連絡をした。
「はい、仁科です」
低い声をした仁科が通話に出ると、愁子は名乗り、経緯を話した。
「今朝、刑事さん達が来ていったよ。あいつ、土曜に突然連絡してきて、仕事辞めるって言ってきた。今、一番忙しい時なのに、勝手な事いいやがって!」
仁科は行き場のない怒りを、通話越しにぶつけた。
「あのっ…。お忙しいかと思いますが、お会いしてお話し伺えませんか?」
「あぁ、構わないよ。夕方になるけれど。晴海と同じ所に住んでいるなら、駅前のファミレスでもいいですか?」
「はい。ありがとうございます」
通話を終えると、愁子は安心してきたせいか、再びベッドで横になって眠った。
意識の遠くで、電話の着信音が聞こえ、愁子は目が覚めた。
「もしもし、愁子さん? 二階堂です」
むくりと身体を起こし、愁子は耳元に当てたスマートフォン越しに、二階堂の声を聞いた。
「泉から聞きました。体調悪くて休んでいるって。昨日出かけたのが、身体に障ったのではと、心配で」
二階堂の声が耳の中で溶け、愁子の心が絆されていた。
「すみません、ご心配くださって…。いえ、昨日はとても楽しかったです」
「良かった。それはそれだけど。でも、具合って…もしかして」
「……」
愁子の脳裏に、さっき使った妊娠検査薬の陽性の印が過った。相談を聞いてくれた二階堂には、事実を話そうと決心し、愁子は重い口を開いた。
「昨日、吐いてしまって。怖かったですけど、先程検査薬で確認しました…」
「で、どうだったんですか?」
「妊娠、してました…。この後、病院へ行ってみるつもりです」
「愁子さんは………どうするつもりなんですか?」
「分からない…でも、怖いっ。両親には、勘当されてしまいました…。晴海くんが、恐ろしい事になってて…その人の子を産むのかと思うと怖くて…。ちゃんと育てられるのだろうかって…」
狼狽える愁子に、二階堂は戸惑いながらも通話越しで、それを宥めていた。
「愁子さん、落ち着きましょう。病院は1人で大丈夫ですか? 僕も、都合つけて駆けつけましょうか?」
「いえ…。二階堂さん、お仕事中でしょう。ご迷惑かけたくありません。それに、これは、私の問題なので、自分で何とかします…」
「そうですか…。では、もし、ご迷惑でなければ、今夜、愁子さんの所へお伺いしてもいいですか? 誰かがそばにいるだけで、気が休まる事もできるかもしれません」
「……」
愁子が答えに詰まっていると、二階堂は、
「会いたくなければ、追い返して下さい。体調もあるかと思うので」
「そんな! 都合のいいようには扱えません」
「1人で考え込むのも時にはいいかもしれないけれど、時と場合によっては、誰かがいる事がベストな場合もあります」
「……分かりました」
「よかった。じゃぁ、仕事が終わったらまた、連絡します。愁子さん、くれぐれもお身体気をつけて出かけて下さいね」
通話を終え、二階堂の優しさが心に沁みていたのが分かった。両膝を抱え、愁子はそこに顔を埋めた。晴海との事があったが、愁子の気持ちが、少しずつ二階堂に揺れ動いていた。二階堂の顔を思い浮かべ、愁子の胸がドキドキと高鳴っていた。
産婦人科の待合室では、お腹の大きな妊婦夫婦が愁子の前に座っていた。本当ならば、ここに晴海と来ていたのだろうかと愁子は思ったが、その考えをすぐさまかき消した。
「三枝さーん。奥の処置室へどうぞ」
看護師に呼ばれ、愁子は処置室へ入っていった。中で待っていた看護師が、下着を脱ぎ診察台に座るよう指示をした。言われるがままに愁子はそこに座ったが、とても居心地の悪いものだった。
奥から中年の男性医師が現れると、椅子に腰かけ愁子の座っていた椅子を少し傾けた。
「力抜いて、楽にして下さいね」
膣の中に内視鏡が入り、モニターにそれが映された。更にその後、腹部にひんやりとした液体が塗られ、エコーで子宮の辺りを医師は見ていた。
「三枝さん、これ、分かりますか? この、小さな丸いの。これが、赤ちゃんです。4週目に入っているくらいですね。来年の3月12日ごろ産まれます」
テキパキと診察をしていく医師に、愁子はついて行けず、エコー画像の丸い物すらどこにどれがと、必死で探していた。検査が終わり、隣の診察室へ移動し、愁子は医師の話を聞いた。
「今日は、ご主人はお仕事かな?」
「いえ…。私、まだ、結婚してません」
「では、その彼とは相談されましたか?」
「……」
愁子は、横に首を振ると医師は何かを察したようで、少し考え込んでいた。
「三枝さん。産むも堕ろすもあなたと相手の方次第だ。でも、産む選択をした所で、子供が幸せに育っていくのかを考えて欲しい。産んでも、子供が不幸になるのが目に見えるなら、それは考え直す事を私は言いたい。もし、堕胎を望む場合は、時間はあまりないけど、少しお考えになって、また来てください」
病院を後にし、仁科との待ち合わせまで、愁子は先にファミレスで待つ事にした。待っている間中、ずっと、医師の言葉が頭から離れずにいた。
不幸になるのが目に見える…だなんて…。
どうすべきか迷っていた愁子に、思い切り釘を刺すような言葉だった。
晴海との関係が穏やかに続いていたら、愁子は産む選択を多少なりとも考えたかも知れない。しかし、晴海の状況は最も悪いもので、愁子の中では、もう、晴海との関係は修復が不可能なものになっていた。
幼い頃、両親のように結婚し子供と暮らす生活を夢描いたが、たった1人で子供を育てる自信はなく、晴海との子供を産み、心から愛せるか自信がなかった。
カバンの中から、産婦人科で念のため貰った堕胎手術の用紙を取り出し、そこに視線を落とした。受付で説明を受けた、相手の署名欄を見つめ、愁子は大きく溜め息を吐いた。
仁科は、背が高くエキゾチックな顔立ちをした40代くらいの男だった。頭にタオルを巻き、ニッカポッカ姿がいかにも現場から来たと、分かりやすかった。
「晴海、時々、あんたの事話してた。年上の上品な人と付き合っているって。自分の柄ではないけれど、嬉しそうに」
「そうでしたか…。でも、一体、何処へ行ってしまったんでしょう…」
「アイツ、もともと孤児院出なんだ。親に捨てられて。俺の所に来る前に、働いていた所で傷害を起こして、少年院入ってた。そこで、変な奴と繋がったみたいで。付き合いを止めたんだが…。時々、仕事休んでたし」
愁子は、初めて晴海に会った時の事を思い出していた。その時は、自分の素性を変えて話していたのは、悪意ではない事を、愁子は微かに願っていた。
「お仕事、休んでたんですか?」
「アイツ、時々、ポロリと話してた。気が大きくなってるみたいな感じで、何か錯覚してると思うんだけど。“俺は他にもデカイ仕事をしている”って。薬物だけじゃない。アイツは、他の仲間と詐欺紛いの事をして、高齢者から金をぶんどってた。何となく、話を聞くに、アイツは主犯格ではなくて、受け子的なヤツみたいで。きっと、その金を薬に当ててたんじゃねぇかと…」
「晴海くんが…そんな事まで…」
「俺は、前から、晴海を怪しんでた。俺も、アイツを見ている以上責任もあったし。けど、どうにも仕方なく、俺が警察にタレ込んだ」
仁科は肩を落とし、テーブルに両肘をつくと両手で頭を抱えた。
「晴海くんが、前に言ってました。仁科さんの事を、とても尊敬されてました」
愁子は、仁科を宥めるように言葉を添えた。
仁科の肩が震え、小さくすすり泣く音が聞こえた。
「…ったく、馬鹿野郎だよな。あんな事しちまって、人生棒に振りやがって。素はいいヤツだった。仕事の飲み込みも早くてさ…」
手塩にかけていた分、裏切られた思いが、目の前にいる愁子にでさえも痛々しく伝わっていた。愁子の中で、父親が仁科と重なってしまっていた。
厳しく躾けられてはいたが、それが父なりの愛情表現であった。結婚するまでは、とても雁字搦めで不自由だと、愁子は思っていた。けど、父は成長した娘に、期待をしていたのかもしれない。しかしその期待が尽く裏切られた父を思うと、取り返しのつかない事をしてしまったと、自己嫌悪の渦に大きく飲み込まれるのだった。
「あんた…もう、アイツには関わらない方がいい。きっと、そのうち捕まるに違いないだろうし…」
仁科は、頭に巻いていたタオルで涙を拭い、愁子にきっぱり言った。
「でも…私、決着をつけなくてはいけないんです…だから、最後にもう一度会いたい…」
愁子の懸命な表情に、仁科は折れた。
「警察から連絡があったら、あんたに連絡するよ」
「ありがとうございます…」
仁科と別れ、部屋までの道のりを、愁子は歩いて帰ることにした。歩きながら、自分の身体の事をどうするか、考えていたのだった。
授かった命を大事にして、たった1人で産み育てる事が、愁子にとって現実的ではない事は十分に分かっていた。それに、医師の言葉がどうにも引っかかり、頭から離れなかった。
不幸になるために生まれてくるの? でも、それがどうなのかは、決めるのは生まれてくるその子次第じゃないかしら…。
愁子は足を止め、遠くを見つめた。
もう既に、自分がどうするかを決めている事を、見据えていたのだった。だから、どうしても、晴海には最後にもう一度、会う必要があった。
お読み頂き、有難うございました。
2月に入り、今年の節分は2日だと、なんとなくうる覚えしてましたが。改めて考えてみたら毎年3日が節分。どうしてなのかと、検索サイトで調べてしまいました。
お話は、まだ続きます。次回もどうぞ宜しくお願いします。