道草
あの後、晴海からは一切連絡がなく、愁子も晴海に対して何もアクションを起こさないでいた。
愁子は、昨日の晴海との一件で、帰宅後、二階堂との約束を一度断ったが、二階堂の念押しに折れた。
化粧で誤魔化したが、瞼がまだ、少し腫れていた。鏡でそれを見た後、作り笑顔を思い切りしてみたが、とてもぎこちない表情が不気味に見えた程だった。
二階堂は、愁子のマンションまで車で迎えに来てくれた。レトロなミニクーパーが可愛らしかったが、二階堂とのギャップに愁子は少し驚いた。
「柄じゃないって思ってるでしょう? 良く、言われますよ。RVとか外車乗ってそうって言う、勝手な印象」
笑いながら二階堂は言った。襟の空いたシャツに、黒いジャケット、チノパン。綺麗に磨かれた先の尖った革靴を履き、清潔感のある印象だった。
小さな車のせいか、車内での二階堂のと距離が近く、愁子は少し緊張していた。
「本当に、元気なさそうですねって、指摘しちゃ良くないだろうけど。瞼腫れるほど泣かすなんて、酷い男ですね」
「どうして、わかるんですかっ!?」
「あ、図星だったんですね。失礼しました。野暮な事言って」
気不味い雰囲気が漂ったと思ったが、二階堂は愁子に話しかけ続けた。
「それは、やっぱり泉じゃ、職場じゃ乗れない相談ですね。僕は、上司でもなければ同僚でもないし、部外者だから壁に向かって話してると思って、言ってみてはどうですか?」
「壁…ですか?」
「そうです。黙って、聞いてますから、吐き出してください。胸につかえていると、具合も悪くなりますからね。それに、これから美味い料理食べるんだし」
にこりと白い歯を見せ、目尻にシワを寄せて二階堂は笑みを見せた。その笑顔が、愁子の緊張の糸を解き、心を和やかにさせてくれた。
小さく息を吸い、愁子は二階堂に話をした。
夫との結婚生活、そこで出会った晴海の事。そして、予期せぬ晴海の行動の数々。自分にも落ち度があった事。何より、今でも不安な事は、生理がまだ今月、来ていない事だった。
「調べてみたんですか? ほら、市販であるらしいじゃないですか」
二階堂に問いかけられ、愁子は小さく横に首を振った。
「事実を知るのも、怖いです…。自分の節操のなさが1番の落ち度ですが…」
「落ち度…。愁子さんは、ちゃんと自分のした事を振り返って、理解しているのに、そんなに自分を責めるんですね。確かに、その結果がどうなのかも重要でしょう。愁子さん自身の身体の事もありますし、新たな命が在るのかもしれない。その先の事もあるでしょうし。でも、その事実を知るのは、とても勇気がいるのかもしれませんね」
二階堂は、表情を変えず、運転しながら静かに話していた。
「不安なら、僕でよければお付き合いしますし」
「二階堂さん、どうしてそんな、私なんかに親切にして下さるんですか?」
「はは…。その辺の女性には、こんなに親切にしないですよ。泉を、ダシに使い、愁子さんが落ち込んでいる事を棚に上げてしまったのは、申し訳ないけど。僕は、愁子さんとお近づきになりたい。その、彼のような若さと酒の勢いとかではなくて。ゆっくりでいいので、時間をかけて。って、運転しながら言うセリフではないですかね? 愁子さんには、ちゃんと真摯に向き合いたいと思ってます」
「でも…二階堂さんのような、素敵な方なら、他に良い人が…」
「いいえ、いないですよ。待ってたんですかね。愁子さんと出逢うのを。だから、それまで、ひとりぼっちだったのかもしれませんって。自分で言うのもなんですが、気障な台詞ですね」
あははと笑い、照れたのが耳の赤く色づいたそれで、愁子は察した。
「それに、僕の性分なのかな。どうしても、気になる異性はいつも、横顔ばかりで。他の誰かを想っていて、僕の手に入らないんです」
力なく笑んだ二階堂の横顔を直視できず、愁子は咄嗟に視線を逸らしスカートの膝辺りにそれを落とした。
「だから、愁子さんは、道草気分でいて下さい」
「道草…ですか?」
「そうです。今は、道草でいいです。でも、それが、本当の目的地になるまで、僕は、愁子さんを待ちたいと思うので」
「でも、私…昨日の今日で…」
「焦らずでいいんですよ。ゆっくり、時間をかけて構いませんから」
愁子は口を閉じ、少し沈黙した。二階堂の優しさは、痛いほど心に染みていたが、掌を返すようにその申し出を受け入れるような事は、今の愁子には出来なかった。
避けていた現実を、そしてその先の事を考えるべく事を、いよいよ持ってしない事には、この不安からは逃れられないと言う事を、二階堂と話をしていて、愁子は改めて受け止めていた。
事実を、ちゃんと確かめないと…。
愁子は、膝の上のスカートの生地をぎゅっと握り、意を決する思いを抱いていた。
「不安な事、話したらお腹は空きましたか? そろそろ、着きます」
ふと顔を上げ、あたりを見るといつのまにか、辺りに山が近く見えていた。
「あの、ここってどこですか?」
「高尾山の近くです。八王子ですよ」
「いつの間にか、そんな所まで来ていたんですね」
車が徐行していくと、辺りに人が立っているのが見えた。
「いらっしゃいませ。ご予約のお名前お伺いしてもよろしいでしょうか?」
中年の男性が、運転席の窓から声をかけてきた。
「二階堂です」
「二階堂様ですね。有難うございます。お車を、そちらへお願いいたします」
係の男性に誘導され、車を降りると、今度は、さらに待ち構えていた女性スタッフが、愁子達を案内してくれた。
自然豊かな光景の先に、立派な外壁が見え門を抜けると、様々な木々や整えられた植木達、流れる小川や水車まであり、その空間に愁子は驚いた。
「春には、桜が綺麗です。これからの季節は、蛍もみられます」
案内している女性スタッフが、2人に庭の説明をしながら話してくれていた。
「蛍がいるんですか?」
「愁子さん、ご覧になった事ありますか?」
「いいえ。図鑑やテレビでしか…」
「ぜひ、今度はお夕食の頃、いらして見てください」
「そうですね。それも、いいですね。ね、愁子さん」
愁子は、二階堂と視線が重なり、咄嗟にはいと、答えて笑みを返した。
庭の彼方此方に部屋があり、食事は全室個室で頂けると女性スタッフは説明をしてくれた。そうして、石階段を上り、部屋に入ると和室の中にテーブルと椅子がセッティングされ、庭の景色が眺められるような窓になっていた。
「素敵な所ですね…」
椅子に座り、愁子は辺りを見渡しながら呟くように言った。
「こう言う場所で、ゆっくり食事をするのも、いいでしょう。せっかくなので、楽しみましょう」
向かい合った席で、二階堂は愁子に言った。車中での出来事もあり、愁子は改めて向かい合って二階堂と顔を見合わせ、少し気恥ずかしさで、視線が落ち着かなかった。
静けさの中に、そよぐ風に揺れる木の葉の音や、小川を流れる水の音が聞こえて、気持ちが多少リラックス出来そうだったが、胸の中がまだ、ざわついていた。
二階堂も、向かい合わせた愁子の顔を、ちらりちらりと見ては照れ臭そうにしていて、口数が減っていた。
「ここは、良く来られるのですか?」
沈黙を破ったのは、愁子の方だった。
「いえ。両親と、記念日など特別な時に、一緒に来るくらいでした。だから、僕も、特別な人と来れたらなと、ずっと思ってたんです」
二階堂は、穏やかな笑みを見せた。その笑みすら、今の愁子には、心を締め付け苦しくさせていた。
「私なんて、本当に烏滸がましいかと…。先程、お話しした通りで、踏んだり蹴ったりの有様ですし…。そんな私でも、本当に、二階堂さんは、良いと思うのですか…?」
愁子の言葉に、二階堂は顎先に手を添えて黙っていた。そうして、短い間の後に小さく口を開いた。
「人への好意を、僕は理屈で片付けたくはないです。僕にとっては、目の前にいる愁子さん、そのままがいいんです。それに、出会う前の過去の事は、どうしようもないし。僕にも勿論だけど、過去はあるし。と、言っても、振られ続きの人生でしたけど」
力なく笑った二階堂に、愁子は視線を伏せた。
晴海が罵倒した言葉のそこからは、互いの関係を、恋人と言うカテゴリーに当てはめていたのかもしれない。それでも、愁子にとっては、始まりも終わりもない関係だったのかと、型に執着していた自分がいた。
「愁子さん、意地悪な質問してもいいですか?」
二階堂は、愁子の視線を捉えると、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「何でしょうか…」
「その彼の事、愁子さんは好きでしたか?」
二階堂の質問に、愁子の胸がドキリと大きく鼓動した。
頭の中に浮かんだ、中学生の頃に憧れた、あの先輩のような気持ちとは違う事は、明らかに分かっていた。愁子の中の、恋の概念が何処にも存在しないのではないかと思うと、愁子は言葉に詰まり、黙ったまま暫く口を閉じていた。
すると、料理が運び込まれ、スタッフが料理の説明をし始め、愁子は話すタイミングを失ってしまった。内心、ホッとしたが答えられないそのもやついたそれが、喉に引っかかっているようで、スタッフが部屋を出た後も、愁子は料理に手をつけず、黙っていた。
「ごめんなさい。愁子さんをそこまで困らせてしまったなんて…」
「いえ…。その…。私…。ただ、曖昧な気持ちと言うか、また会えたらいいなとか思う、ふわりとした思いだったかもしれません…。ただ、淋しかっただけなのかも…」
ぽたん…と、テーブルに涙が零れ落ちた。
「本当に、ごめんなさい。愁子さんを泣かせるつもりは、なかったんですが…」
そう言って、二階堂はジャケットのポケットからハンカチを取り出すと、愁子にそっと差し出し、愁子はそれを受け取った。
「すみません…。ありがとうございます…」
「愁子さんが、あまりにも自分を卑下するし、それに…。過去は、しかたないだなんて言う割に、これでも僕なりに、嫉妬はしているようです。本当にごめんなさい。意地悪でした」
頭を下げ謝る二階堂に、愁子は首を横に振り、咄嗟に右手を二階堂の手に乗せていた。
「そんなに、謝らないで下さい。私も、自分の気持ちにちゃんと向き合えてなかったので。ね、せっかくのお料理、楽しみましょうって、二階堂さん、仰ってたわ。頂きましょう」
「あはは。そうですね。なんだか、僕が励まされてしまった」
そう言って、二階堂は愁子が乗せた手の上に、自分の右手を乗せ返した。
料理は、とても繊細で美しく、そして美味しく頂いた。きめ細やかなスタッフの対応と、おもてなしの心配りが、この庭や建物も含めて感じ取られていた。
帰りの道中は、他愛ない話や2人の共通点の相良の話、通りすがる箇所の話題など話が尽きなかった。あっという間に時間が過ぎ、二階堂は愁子のマンションまで車で送ると、
「また、お誘いしてもいいですか?」
と、愁子に尋ね、愁子はそれを快諾していた。
部屋に戻り、干していた洗濯物を取り込んでいると、スマートフォンが着信の振動をしていた。愁子は慌ててそれを手に取り、通話ボタンを押した。
「愁子か?」
着信の相手は、父からだった。
「はい。どうしたの?」
「お前に話がある。これから来なさい」
「えっ? これからって。私、明日仕事…」
「いいから、黙って、すぐに家に帰ってこいっ!!」
通話越しに父の怒鳴り声が、耳にビリビリとした痛みのように刺しこんだ。
「分かりました…」
雲行きは怪しい事は確かだったが、愁子には全くもって心当たりがなかった。腑に落ちない気持ちのまま、部屋のカーテンを閉め、夕暮れに染まる道を歩いて、バス停まで向かった。
お読み頂き、有難うございました。
お話が、そろそろ佳境になっていきます。
まだまだ続きますので、どうぞ宜しくお願いします。