隠しきれない戸惑い
「忘れ物ない? 履歴書、ちゃんと持ったの?」
玄関先で母は愁子に、尋ねた。
「持ったよ。行ってきます」
「頑張ってね」
母は笑顔で手を振り、愁子を励まし見送った。
リクルートスーツを着るべきだったか迷った挙句、ブラウスにフレアスカートといった、どちらかと言えば普段の服装ではあったが、愁子は心持ち、緊張していた。
地下鉄を乗り継ぐと、小田急線のS駅で降りた。駅中には飲食店が数多く並び、駅前は整備されて、綺麗な街だった。駅構内は、そこそこ人の出入りがあり混み合っていた。行き交う人の合間を縫いつつ、愁子は歩いた。
駅を出てしばらく歩くと、店やビルが立ち並びつつ、住宅街も入り混ざる光景だった。愁子は、辺りを見渡し、面接先のビルを探した。
「この道の先かしら?」
通りから1本入った道を歩くと、ビルを見つけた。少し新しめの雑居ビルの名前を、印刷した求人票と照らし合わせ、確認する。
「ここの、3階ね」
愁子は求人票をカバンにしまい、ビルに入ると、エレベーターを見つけ乗り込んだ。こじんまりとしたスペースに、埃くさい臭いが充満していた。
3階のフロアーには、2つテナントが入るスペースがあったが、1つは空きになっていた。扉に小さく“AGLAIA”と、ラベルライターが貼られていた。
愁子は、ドア横にあったインターフォンを鳴らし、応答を待った。直ぐに、
「はい」
と、男性の声が聞こえ、愁子はドアフォン越しに受け答えた。
「三枝と申します。本日、11時に面接のお約束で参りました」
すると、ガチャリとドアが開き、中からノーネクタイのスーツ姿でスラリとした細身の、20代くらいの若い男性が現れた。
「どうぞ」
愁子を、頭の先から足の先まで視線をなぞるように見ると、無表情のままそう言った。
「失礼いたします」
求人には、女性向け美容コスメ商品の販売の事務と書いてあったが、事務所の中は、デスクが3つとソファー。他に扉があり部屋だろうか何なのかは分からないが、目の前の光景はとても殺風景だった。
「そのソファーにかけて下さい」
「はい」
男が指したソファーに腰掛け、愁子はカバンの中から履歴書を取り出しテーブルの上に置いて、両手を膝の上に乗せ、面接官を待った。
「どうぞ」
応対した男が、愁子にお茶を出した。それは、紙コップに注がれ、薄っすらと湯気が立っていた。
「ありがとうございます」
愁子が礼を言うと同時に、男がそのまま席に腰掛け、愁子と向かい合った。
え?
愁子は目を丸くし、瞬きをパチパチとさせて男を見た。
「事務希望だよね? 最近、事務の子が突然辞めちゃって、困ってたんだよね。履歴書、見せて下さい」
男は愁子に向けて、右手を差し出した。軽々しさのある態度に、愁子は戸惑いを隠しきれなかった。
「あっ…はい」
言われるがまま、愁子は男に履歴書を差し出したが、半信半疑でチラリと男を見た。色白の肌に、細く長い指が綺麗だなと、愁子は目を止めていた。
「へー。不動産で仕事してたんですね? 最近の土地事情って、どうなのかな? ここ、駅近で立地はいいんだけど。それなりに高いからさ」
男は、顎先に手を添え、愁子の履歴書にしっかり目を通したまま、雑談混じりの話をし始め、愁子はさらに戸惑い、口ごもってしまっていた。
「あー。失礼。面接だね。いつからこれますか?」
男は、視線を上げて愁子を見た。
「えっと…。採用って事で良いのでしょうか?」
「はい。ぜひ、お願いします。ウチは小さな会社ですが、主にネットで、女性向けの美容品を販売していて、そこそこ売れてるんですよ」
「あの…大変失礼ですが。あなたは…」
愁子は、おずおずと男に尋ねた。黒く短めの髪、面長に黒縁のメガネを掛けた、25、6歳くらいなのだろうかと、改めて愁子は思った。
「俺は、この会社の副社長。相良です。社長は、俺の姉。姉は、海外でコスメのバイヤーしているから、国内の方は、俺がほとんど任されているんです」
「そうでしたか。失礼いたしました。ここには、相良さんと、他には…?」
見た限りでは、デスクは3つ並んでいたが、書類の山が1台のデスクを占領し、機能しているとは思えなかった。
「俺だけですが」
「えっ?」
驚きを隠しきれず、愁子はすっとんきょうな声を上げた。愁子の様子が相良のツボにハマったようで、相良はケラケラと笑い出した。
「ははは…あー。失礼しました。あー…でも、やっぱ、おかしかった。三枝さん、メチャ露骨に驚いてるから」
「すみません…」
申し訳無さげに、愁子は頭を下げたが、相良はまだ後を引いているようで、肩を震わせて笑いを堪えていた。
「あはは。大丈夫ですよ。ちゃんと、給料は出ますから。あー。おかしぃ。ここは、請求業務だけだからね。あとは、マーケティング部。そっちは、海外にいる姉や現地のスタッフがしているんです」
笑いが引いたが、相良は笑顔を絶やさず話していた。
相良の補足の説明を聞くと、商品は社長のいる韓国から発送され、倉庫もそこに構えていると教えてくれた。
「このまま、雇用契約とかしても大丈夫ですか?」
相良は、デスクからノートパソコンを取り、再び愁子の前に座った。
「あ。はい…。よろしくお願いします」
一瞬、躊躇する思いが過ぎったが、愁子は、相良自身は、悪い人ではなさそうだと、第一印象で勝手に思っていた。
「えっと、いつから来れます?」
カタカタとキーボードを叩きながら、相良は愁子に尋ねた。
「いつでも大丈夫です」
「ほんと!? じゃぁ、明日からとかでもいい? 請求処理が溜まってて。もう時期締めだから焦ってたんだー」
相良は、安心したようにそう言ったが、愁子はその背景にある仕事が、どのくらいの山なのかを想像し、胸をどぎまぎさせていた。それに、デスクの上の書類の山や、殺風景ながらも、どこか雑然としている事務所の環境を、どうにか整理出来たらなと愁子はやるべき事をあれこれと、ざっと見渡して考えてしまっていた。
「じゃぁ、これが契約書。印鑑はさすがに持ってないよね?」
「あります。これから私用でいろいろ使うので」
「すっご! じゃぁ、書類一読して、質問あれば聞いて。それでよければ、サインと印鑑押して下さい」
愁子はボールペンを走らせ、住所や氏名を書き込んだ。そうして、ふと気付いた事に、愁子は相良が書類を確認し終えた後で、口を開いた。
「あの…。この辺りで住むとすれば、どの辺りが、いいでしょう?」
「え? 横浜から通うんじゃなくて?」
相良は契約書に記載された、愁子の住所に視線を落とし首を小さく傾げた。
「今は、実家なんですが。これから、1人暮らしするので…」
「そうなんだ。うーん…ここも住みやすいけど、急行止まるし少し高いかな? 間前後の駅なら急行止まらないけど、安いんじゃないかな?」
相良の答えに、愁子は2つ離れた駅に、晴海が住んでいる事を思い出し、小さく胸を高鳴らせた。
「ありがとうございます」
「引っ越す時は、また言ってね。いろいろ変更手続きするから」
「はい」
「じゃぁ、中を案内するから」
相良は席を立ち、愁子は後に続いた。窓を背にしたデスクが、相良の席で、大きなディスクトップが2台並び、革張りの椅子が席にあった。そうして、少し空いたところに1台デスク上にはノートパソコンと、文房具がプラスチックの鉛筆立てに雑然と差し込まれていた。
「ここが、三枝さんの席。自由に使っていいよ。物品とかはストックしてなから、無くなりそうになったら適当に経費で買っておいて。その奥の扉がトイレで、その隣が給湯室」
「あの…。お掃除とかは、どうすれば」
「さすが、三枝さん。そういう所まで気がつくなんて。掃除機は、あれが勝手にしてくれるよ。ゴミだけ回収して」
相良が奥の方を指差すと、自動掃除ロボットの姿が見えた。
「トイレとかは、中に道具があるから、勤務時間のどこかで掃除して。ゴミは事業ゴミだから毎週2回、下のゴミ捨て場に置くと取りに来てくれる。大してでないけどね」
「出社した時は、鍵とかは…」
「そうだね。教えよう」
事務所のドアを出ると、入り口にキーロックボタンが付いていた。更に、セキュリティーロックが、事務所内にある事、固定電話はなく、携帯一台が会社用となっている事、ざっと事務所の事を教えてもらいながら、愁子はメモを取っていた。
「三枝さんは、とてもしっかりしてそうだね。じゃぁ、明日、9時に出社してください」
「分かりました。ありがとうございます」
事務所のドアの前で深く頭を下げた。相良は目を細め、笑みを見せて愁子を見送った。
愁子は、雑居ビルを出て歩き出した。そうして、少し傾斜のある坂道だった事に、来た時気づかなかったが、足取りは軽く、登り坂も楽に歩いていた。
すると、カバンの中でスマートフォンの振動を感じ、愁子はそれを取り出した。画面に表示されていたのは、見知らぬ番号だった。恐る恐る愁子は、通話ボタンを押した。
「はい…」
「あ、相良です」
相良が名乗ると、愁子は立ち止まって話に耳を傾けた。
「相良さん。先程は、ありがとうございました。…なにか?」
愁子が尋ねると、相良の快活な声がスピーカー越しに響いた。
「ちょっと、戻って来てもらえるかな? さっき、引越しの話してたよね? その件で」
「はい…」
愁子は話を聞きながら、小さく首を傾げたが、相良に言われたまま、再び事務所へ戻って行った。
事務所の扉をノックすると、相良がにこやかに出迎えた。
「三枝さん、部屋探す予定なんだよね?」
「はい」
愁子をデスクの席に案内し、座らせるとその横に立って相良は話し始めた。
「姉が…あ、社長が昔使っていた部屋があるんだけど。さっき、社長に話したら、そこ使っていいって。ここから近いし、どうする?」
相良の提案に、愁子は戸惑いを隠しきれないでいた。仕事を即採用され、部屋まで提案してくるなんて、何か裏でもあるのではないかと、半信半疑な気持ちが胸の中に漂っていた。
浮かない表情をしている愁子を見て、相良がパチンと手を叩き、
「そうだ、今から見に行こう。どんな部屋か見ればいいと思う」
そう言うなり、愁子を外へ連れ出した。
再び、来た道を戻り、足早に歩く相良の後を愁子はついて歩いた。
いい人そうなんだけど…本当に大丈夫なのかしら。
不安の霧が、歩きながらどんどん濃くなっていくばかりだった。
お読み頂き、有難うございました。
新たな登場人物。相良は、今後も出てきます。
12月にも入り、寒さが増してきました。食卓には、鍋や湯豆腐などの暖かい物が良く出てくるようになりました。
お話はまだまだ続きます。次回もどうぞよろしくお願いいたします。