離婚の結末
今回のお話は、就活後、面接日までの間のお話です。
父に車を借り、愁子は大園家から届いた離婚届を出す事、自分の荷物を持ち出すため、再び大園の家の方へと向かっていた。
電車を乗り継ごうかと考えていたが、私物を少しでも自分で運ぼうと考えたからだ。車の運転は、仕事をしていた時に、社用車でお使いしていた事もあり、それなりに運転はできていた。
しかし、社用車は小回りの効く、軽自動車だったのだが、父の車はクラウンで、教習所以来のセダンの車の運転に、愁子は胸をどぎまぎさせ、緊張でいっぱいだった。
246号線が混雑し、車線を変える事なくゆっくりと運転していられた事に、愁子はほっとしていた。
車内は陽射しが気温を高め、ブラウスの上にカーディガンを着ていたが、愁子は軽く両袖を捲り、少し窓を開けて外気を入れ込んでいた。付けっ放しのラジオは、下手にいじらず、噺家さんが語るお話を、ダラダラと流すように聞いていた。
何も考えず、ただ運転にだけ集中し、カーナビの案内の指示に従い、ようやく市役所に辿り着いたが、肩が張り、神経を使った疲労感があった。
離婚届の受理は、呆気なかった。
これまで費やした労力が、潔く終結されたと思えばいいのだろうか。
市役所を出ると、愁子の胸の奥に、爽快とも言えない、何処か寂しさもある風がスースーと通っているようだった。けれど、離婚した事への後悔は微塵もなかった。
愁子は、顔を上げ、白い雲が流れる空を見ながら、深呼吸をした。
ここで離婚した思いに浸っている場合ではなく、この後待ち構えている沢山の事務手続きが待ち構えていると思うと、妙な疲労感が愁子の脳裏を掠めたが、離婚してもまだ、身辺整理は終わってはいないのだと、身を引き締めた。
「家に行こう。引っ越し屋さんが、来るまでにまとめておかないと…」
気持ちを切り替え、車に乗り込み愁子は、大園と暮らしていた家に向かった。
締め切っている家の中は、空気が淀んでいた。2階に上がり愁子は部屋の窓を開けて光と風を入れ込んだ。改めて部屋を見渡し、ベッドサイドに座ると、実家の部屋とはまた違った落ち着きがある事を、愁子は実感していた。
しかし、離婚届を提出し、この部屋が自分の居場所では、もうないのだと思うと、急に胸の中がザワザワとし始めた。気持ちを切り替えるためにもと、愁子は早速、自宅から持ち寄った段ボールを組み立て、本や雑貨などの細かい物、下着類などの衣服を先にまとめて、それに詰め込んだ。
そうして、ダンボール2箱を車に積んだ。
クローゼットにかけられた衣類や、衣装ケースに詰められた季節ものは、そのまま業者に運んでもらうつもりでいた。
廊下で立ち止まると、扉の締められたリビングの方を見た。愁子は、そこにはもう足を踏み入れないと決め、背を向けた。
荷造りを終え、引っ越し業者を待っている間、愁子は伽藍と空いたクローゼットをぼんやりと見つめながら、この3年間の暮らしを思い返した。
見合いで始まり、親に勧められたままに結婚したけど、大園への感情は、年月が経つにつれ薄れていくばかりだったと思った。
子供がいればと、愁子なりに考え直す事も多々あったが、子供がいた所で、大園が家族サービスをするような家庭的な男ではない事は、見通していたから、愁子にとって、結果的に子供がいなかった方が、身軽な離婚に至ったのだと、それを良しと思う事にした。
大園は、愁子の誕生日、結婚記念日そう言ったイベントに、全くもって無頓着だった。結婚1年目は、愁子もそれなりに期待をし、流石に早く帰宅して、食事をするか、外でディナーを楽しめるのかと思っていた。
しかし、当日は普段と変わらず出かけ、遅くに帰宅した。記念日を祝う言葉すら出てこなかった事に、愁子の期待は、風船のように萎んでしまった。
大園の事を、愛していたら、浮気を許せず大園だけではなく相手に対しても執念を抱き、そこに力を注ぎ込んでいたのかもしれない。
けれど、大園は愁子を家庭を持つための道具として、親の言いなりのまま、結婚した。この結婚生活に、感情はなかったはずだ。
きっと、藍子とか言う女の前では、自分の知らない大園の一面を示したのに違いないと、愁子は思った。
しかし愁子は、怒りも、悔しさも、悲しみも、大園の浮気には、もう何も感じなかった。
私は大園を、愛していなかったのかもしれない…。
そう受け止めた愁子の脳裏に、晴海の面影がちらついた。
好きとかの、恋愛感情までは至らず、ただ身体を重ねた相手ではあったが、一緒に過ごした短い時間の1つ1つは、楽しい事もあった。
ペットボトル…また、きっと溜まってるのかしら…。
不意に、晴海のキッチンを埋め尽くしていたペットボトル達を思い出し、愁子は小さく苦笑いをしつつ、何処かほっこりする気持ちを感じていた。
しかし、晴海の愁子に対する感情と、重ねた行為の記憶が過ぎると、胸の奥を微かに締め付けるような、複雑な感覚も浮上していた。
大園の家で、他の男の事を考えるなんてと、離婚したとは言え、どこか後ろめたさのある自分自身が、愁子は嫌だった。
ピンポーン…。
インターホンが鳴り、愁子は咄嗟に気持ちを切り替えた。
引っ越し業者が荷物を受け取りに来ると、
「こちらの家具は?」
と、ベッドやドレッサーを指さして尋ねた。
「いいんです。衣服と靴を箱に詰めるのをお願いしたいのと、この衣装ケースを運んで下さい」
「分かりました」
一軒家の引っ越しにしては、少なすぎる荷物は、ショートサイズの2トントラックに、たっぷりの余裕を残して詰め込まれた。
「では、お預かりして、本日転居先の横浜のご住所へ、お運びします」
若い男性スタッフは、丁寧に説明をして愁子に伝票を渡すと、トラックに乗り込み、走り出していった。
愁子は、2階の窓と雨戸を閉め、ドアの前に立つと、もう一度部屋を見渡し、小さく息を吐いて電気を消した。
階段を降りる足音が、大きく響く。階段の窓からは、細く光が差し込んでいて、埃が宙を舞うそれがチラチラと見えていた。
玄関で靴を履き、くるりと廊下を見つめると、愁子は胸の中で、
お世話になりました。
と、呟いて家を出た。
そうして、家の鍵を返す為に、大園の実家へ向かう。同じ敷地内とは言え、入り口は別々にしてある為、ぐるりと垣根を周り大園の実家の門まで愁子は歩いた。
インターホンの前で小さく息を吐き、身を引き締めた。ドアフォン越しに出向いた声は、義母だった。
「愁子です。鍵をお返しに参りました」
「お待ちください」
機械的に発した義母の声に、愁子はもう1つ息を吐いた。
家の戸を開け、出向いたのは義母ではなく、義父だった。糊の効いたシャツと、茶色のベストを着て、髪は綺麗に整えられた義父は、愁子の顔を見て戸惑いながらも、微かに笑みを見せていた。
「先日は、書類を送ってくださり、有難うございました。今日、届けを出してきました」
深々と頭を下げ、愁子は言った。
「そうでしたか…。今日は、失礼だけどここでいいですか? 家内の希望でね…」
申し訳なさそうに、義父は小声でそう、愁子に伝えた。
「十分です。鍵を、お返しに伺っただけなので。こちらです」
家の鍵を差し出し、義父は愁子からそれを受け取った。
「荷物も、まとめて引き上げられたのですね」
「はい。私物だけまとめました。お義父さん。これまで、大変お世話になりました」
愁子はもう一度、深く頭を下げた。
「受け入れ難い…。今の私達は、そう言う状況下ではありますが。時間は要しますが、受け入れ難い事をいずれ認めて、受け止められる日が来る事でしょう。愁子さん、二度と同じ過ちは犯さないように…」
義父は、声を振り絞るように言った。その言葉が愁子の胸に突き刺さると、自分が取り返しのつかない事をしたのだと、改めて痛感させられたのだった。
私は、この人達まで傷つけてしまったんだ…。
そう、痛感しながら愁子は大園の実家を後にした。垣根を曲がり切ると、遠くでキンキンと細く響く声が聞こえていた。それは、隣の保育園の園児ではなく、義母が取り乱している声だった。
「塩を撒いたくらいじゃ、気が済まないわ!! あの子が…純也が可愛そうに…」
「喜久栄、やめないか! みっともない!!」
泣き喚く義母を必死で止める、義父の2人の声がとても痛々しく、愁子はその声と、感情から逃れるかのように、小走りで立ち去った。
ごめんなさい…。
義母に届くことはないが、愁子は胸の中で言葉を投げかけた。
車に乗り込み、カバンの中から、スマートフォンを取り出すと、大園へ離婚届が受理された事、自分の荷物を全て持ち出した事、自宅の鍵を大園の父へ渡した事を、事務的な文面で綴り、メッセージを送信した。
緊張の糸が解けたのか、愁子の目からぽろぽろと涙が溢れ、スマートフォンの画面に落ちた。
自分が望んだ行が、自分の両親や大園の家族にも迷惑をかけ、辛い想いをさせてしまった事に、愁子は、自己嫌悪の大波に飲み込まれていた。
お読み頂き、有難うございました。
乗り慣れない車を運転するのは、慣れるまでぎこちなく、感覚が鈍いです。
社用車とかに乗ると、ギアの位置が違ってて、自然に手を伸ばした位置に何もなく、スカッと空振りしたり。
足元にサイドブレーキがあったり。
お話は、まだまだ続きます。次回もどうぞよろしくお願いいたします。