ささくれ
大園との家を後にし、愁子は電車を乗り継いだ。横浜の北の方に向かいながら、地下鉄に乗り換えると、地下鉄なのに地上に現れ、見慣れた景色に安堵した。
駅前のデパートには、観覧車が健在だった。子供の頃、まだ父の両親が元気な頃、足を運んだ時に一緒に乗ったのを思い出した。
駅前のバスロータリーで待機していた、市営バスに乗り込んだ。見慣れた街並みを横目で眺めつつ、父が離婚を承諾するのか不安が募っていた。
大園は、親孝行の為に結婚し、自分の非を隠していた。愁子にしてみれば、これまで親の言いなりで人生を歩んできた為、今回の離婚が、愁子にとって親に対する大きな意思表示であり、それが反撃になるであろう事も脳裏に過っていた。
膝の上に乗せた左の親指先が、微かにスカート生地に引っかかる痛みに、愁子はそこに視線を落とした。親指の爪の縁に、小さく裂けたささくれが突起し、衣服に触れるたび引っかかっていた。爪の先同士で摘んで引き千切ろうかとも思ったが、引っ張り過ぎて皮膚が裂け、出血するのが想定の範囲だなと思い、愁子は気になりながらもそれに手をかける事に、諦めた。
まだ、離婚が成立していない。父達が許してくれるのだろうか、義父がちゃんと離婚届を送ってくれるのだろうかなど、愁子の心の中にも、ささくれのように引っかかることばかりで、胸の中が霧がかったように、もやもやとしていた。
家の近くのバス停で降りると、バス通りから1本路地を入り、住宅地の角にある2階建の家が愁子の実家だった。子供の頃は淡く綺麗な青い色の壁だったが、年月が経ち、薄く色が落ち、汚れでどことなくブルーグレーのようにも見えた。
近所の家は、高齢化が進みその子供達は他に家を建てたりマンションを買い、家を継ぐ事もなく、空き家になっている家もぽつぽつとあった。いつも学校帰りに声をかけてくれた、角のおばあさんの家も、その1つだった。雨戸が締め切られていたが、庭は当時大学生だった息子でも来て、管理しているのだろうかと手入れされた庭を見て愁子は思った。
石彫された三枝の表札は、少し色褪せた気がした。自宅の門を開け、自分の家なのに、インターフォンを鳴らす。滑稽な行動に、愁子は戸惑った。
「はい?」
玄関で母の声が聞こえ、
「私。愁子」
と、答えると、直ぐに鍵が空き中からドアが開かれた。
「おかえり」
「ただいま」
セミロングの長さにパーマをかけていた母は、髪を短くショートにし、首元に若草色のスカーフを巻いていた。
「お父さんは?」
「リビングにいるわよ」
靴を揃えながら、愁子は母に尋ねた。実家の玄関は、いつもすっきりとしていて、履物はつっかけすら下駄箱へ仕舞われていた。愁子は、いつもの習慣で下駄箱へ仕舞おうと扉を開けたが、年月が経ち、自分の靴を置いておいたスペースは、つっかけが新たに腰を据えていたのだった。仕方なしに玄関に置いたままの、まるで客のように残された愁子のパンプスを背にして、愁子はリビングへ向かった。
家の廊下を歩くと、自宅の匂いが微かに分かった。あぁ、自分の家はこんな匂いだったんだと。そう言えば、先日泊まらせてもらった、晴海の部屋は微かに男の人のような、匂いがしたし、大園の家は、漢方のような匂いが微かにしていた。
リビングに入ると、父が座って新聞を読んでいた。手持ち無沙汰だったのではと、愁子は直ぐに気がついていた。父の習慣は、毎朝、新聞を読み、仕事へ出かけていた。もう、定年になっていても、その習慣は変わっておらず、朝起きたら母の入れてくれたお茶を飲みながら、黙々と新聞を読むのだ。だから、夕方にもなる頃に新聞を読むなど、決してない事は分かっていた。
突然の娘の帰省に、両親は何かしら察しているだろうと、身構えていた。
「突っ立ってないで、先に、荷物部屋に置いて、手を洗ってらっしゃい。お茶、入れるから」
「はい」
愁子は、母に言われるがまま、2階の自分の部屋へ向かった。階段の一段がこんなに高かったかなと、慣れていたはずなのに、ぎこちない足取りで、ゆっくりと登った。
夕陽が差し込む廊下を通り、自分の部屋のドアを開けた。いまだに、結婚するまでの当時のまま、学習デスクとベッドが残っていて、本棚にある小学生の頃に買ってもらった図鑑や中学生の頃に読んでいた少女小説、大学の教科書なんかもそっくりそのままだった。
掃除をしてくれた母が、窓を網戸にし空気を入れ替えてくれていた。部屋に入り込む風がレースのカーテンを揺らしていた。布団も電話の後、準備してくれたのであろう、ふっくらとした布団が、きれいに畳まれてベッドの上に置かれていた。
荷物を机の上に置き、部屋の窓から辺りを見渡した。夕陽で染まった辺りの変わらない景色を眺め、懐かしさで胸が一杯になりかけた。そよぐ風に揺れたカーテンが、愁子の左指のささくれにひっかかった。
「痛っ…」
ささくれに引っかかったまま、風に揺れているカーテンに引っ張られたそれが、激痛を放った。中途半端にささくれが引っ張られ、皮膚から引き千切られそうになっていた。血が滲み、じんじんと痛みが響いた。
窓をしめて部屋を出ると、洗面所で手を洗い血を流した。微かに水が傷に沁みたが、中途半端に突起しているささくれの存在が、とても気になって仕方がなかった。
「お母さん、爪切りある?」
「あるわよ。救急箱の中」
母が戸棚の扉を指差し、愁子はそこに向かって歩いた。
「なんだ、帰ってきてそうそう、爪を切るなんて」
重い口を開いた父に、愁子は扉の前でしゃがむとくるりと、向きを返して父を見た。
「爪じゃないです。ささくれ。さっきカーテンに引っかかって、血が出ちゃったから」
「あらほんと。血が出てるわ。絆創膏もあるから、ささくれ切って貼りなさい」
母に言われ、愁子は救急箱を開けた。薬臭い匂いがふわりと鼻につき、そこから大きな爪切りを見つけた。辺りを探したが、大きな爪切りしかないようで、愁子はそれを右手で握ると、ぱちんと、ささくれを切り落とした。それだけで、ホッとしたが、絆創膏を巻いて傷口を覆うと、ようやく落ち着いた気持ちになった。
気を取り直し、父と向かい合うようにしてダイニングテーブルの椅子に座ると、母が、父と愁子に緑茶を入れて出した。有田焼のシンプルな湯のみで、大園の家のように茶托などは添えず、湯のみのまま出てきた事に、愁子はどこかほっとしていた。
父は、愁子が話し出すまで黙ったままだった。湯のみから立つ湯気を見つめ、愁子は自分の気持ちを整えようとしていた。
母も席に座ると、不安げな表情で愁子を見ていた。
ゆっくり視線を湯のみから上げると、愁子は目の前の両親の顔を見合わせた。相変わらず仏頂面をした父に、眉毛が八の字にさがった母を見て、愁子は小さく息を吸い、口を開いた。
「今日は、お父さんとお母さんに、ご報告があって来ました。私、純也さんと離婚します」
愁子の言葉に、父は眉間に皺を寄せた。母は驚いて、両手を口元に当てた。
「そんな…。どうしてなの?」
愁子は、困惑した母から視線を逸らし、テーブルを見つめた。そうして、2人に夫婦関係の事、大園の浮気の事、息苦しい敷地内同居生活を、話した。
父は、ただただ黙ったまま、終始愁子の話を聞いていた。母は、今にも泣きそうな表情を見せていたが、父と同様、最後まで愁子の話を聞いていた。
「離婚届を、大園さんが送ってくださるのは、どうしてかしら? 別に、愁子に渡せばいいものの…」
母の戸惑いに、横で父が重い口を開いた。
「親としての責任だろう。うちだって、1人娘だ。大事に育ててきたが、彼方も1人息子の親として、そうしたかったんだろう。愁子…」
父に呼ばれ、愁子は背筋を伸ばした。
「はい」
曇りがかった父の表情を、見ていて胸が苦しくなった。それでも、視線をそらす事なく、愁子は父を見ていた。
「離婚事は、分かった。例えそれなりの苦労があったとしても、幸せな暮らしをしていたとばかり思っていたが、大園さん達を選んだこちらにも責任はある。大事な娘が、傷モノになってしまうなんて…」
父は、涙とこみ上がる感情をぐっと堪え、俯いた。その横で母が、既に涙を零し、すすり泣いていた。
2人の哀しむ姿を目の当たりにした愁子は、大園の言う親不孝と言う言葉が、脳裏を過ぎっていた。
自分の意志でした行いが、こんなにも両親を哀しませるとは、思いも知らなかった。愁子は、胸の奥をぎゅうっと、握られるような苦しさを堪えながら、声を振り絞った。
「……ごめんなさい」
しんみりとした空気の中、暫く誰も口を開かなかった。外は、日が落ちて、リビングの窓越しに映る背景が、暗くなっていた。
「愁子…」
沈黙を破ったのは、父だった。愁子は、名前を呼ばれ顔を上げた。父は、変わらず曇った表情をしていたが、どこか威厳を取り戻した雰囲気にも思えた。
「お前、少し家を離れて見なさい」
「お父さん! そんな。愁子だって、こんな状態じゃ可哀想よ。家におかせてあげましょう?」
父の言葉に、母が縋り付くように言った。愁子は、父の言葉が、予期せぬものだった為、面食らっていた。
「母さん、愁子はもう、いい大人だ。社会人として仕事もして来た。これからは、自分の力でやっていきなさい」
「そんな…お父さん。厳しすぎます。離婚すると言うのに。これから、家を離れて、1人で生きていくだなんて…」
母が心配する一心で、必死に父を説得していたが、父は首を横に振るばかりだった。
「母さん、愁子の身にもなりなさい。出戻りした娘が、親の脛をかじり暮らしているだなんて。世間的には肩身が狭い」
愁子は、ここに来るまで、実家に戻る暮らしを何とも思わずにいたが、父にそう言われ、出戻り娘のレッテルを貼られる事を、自分ではなく、父がそれを許さないのだと言う事を、察していた。
「仕事を見つけ、住むところも決め、落ち着いたら顔を出しなさい。それまでは、ここに戻るな…」
真っ直ぐ、父を見て話を聞いていた愁子の目から、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。
父の言う所は、遠回しだがある意味勘当だった。怒鳴り散らされるより、冷静に勘当の宣告をされた事の方が、愁子にとっては酷な事だった。
「……はい」
愁子は、震える声で返事をした。
「お父さんっ!! 愁子が可哀想だわ」
わーわーと泣く母の横で、父が再び口を開いた。
「それと」
父の続く言葉に、愁子は身を引き締めたまま耳を傾けていた。
「人の道を逸れるような事は、絶対するな。道理と言うものは、守りなさい」
父の厳しい口調に、愁子は涙を流しながら、頷くと、
「わかりました…」
と、声を振り絞り言った。
「時期に、大園さんからは書類が届くだろう。それまでは、家にいなさい。書類は、お前がきちんと提出しなさい」
「はい…」
返事をすると、愁子は席を立ち自分の部屋へと向かった。階段を上りながら、母の泣く声は続いていた。
部屋に入り、扉を閉めると、愁子は声を殺して泣いた。喉の奥が熱くなり、呼吸がしづらくなっていた。嗚咽を堪えながら、ぼろぼろと涙は零れ落ちる。
愁子の頭の中は、真っ暗になっていた。塞ぎ込んだ気持ちを隠すように、両膝を抱えて顔を伏せた。
お読み頂き有り難うございました。
お天気が良く、空が綺麗な青空の日があって。
仕事をしていて、一瞬羨ましくなったのですが、清々しい気持ちだったので、
良しとしました。
お話はまだ続きます。
不定期の投稿、ご了承ください。
次回もどうぞよろしくお願い致します。