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泡沫 UTAKATA  作者: 未月かなた
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カゴの中の鳥

網戸にした窓の外からは、そよぐ風と共に、隣の保育園の園児の声が、キンキンと響くように、リビングに入り込んでいた。

ゴォォォォーッ。

上空を飛ぶ航空機の音が、園児の声どころか、辺り一帯の全ての音を搔き消す。

けれど、愁子にはそれらの騒音と呼べるもの達すら、遠い所で聞こえていた。

はぁーっ。

大園愁子おおそのしゅうこは、リビングの椅子に座り、俯いてじっとテーブルの木目を見つめ、大きく息を吐いた。

不安と言うその存在が、頭の中や心の中に浮かんでは消える。寝ても覚めてもその存在は、愁子の中に生息して居る事が分かっていた。

朝5時の始発に乗るため、愁子の夫の大園は、4時から起床し支度をする。結婚当初は、食事の支度や弁当の準備などしなければいけないと思い、愁子は大園に合わせて起床していたが。

「お前は、合わせて起きる必要はない。見送りも不要だ」

そう、大園に言い渡されてから、早3年が経った。

研究医をしている大園は、朝早くそして、日付が変わる頃に帰宅したり、時には1週間程泊まり込む事もある。

食卓で、一緒に食卓を囲んだ事は、結婚してから一度もなかった。

風呂に入って寝るだけ。

その為だけに帰宅する。

洗濯カゴに入れられた、大園の抜け殻の様な衣服を、愁子は黙って洗濯する。


窓の外からは、園児のはしゃぎ声が、愁子の耳の奥でキンキンと響く。

はぁーっ…。

もう一度、大きくため息を吐いた。

自衛隊の基地が近く、航空機の音が日常的に聞こえる。そして、自宅の隣に建てられた保育園。

大園の両親が構える土地の一角に、両親の自宅、そして大園と愁子が暮らす戸建てがある。

愁子にとっては、最悪な環境だと言う事、それを、結婚する前に大園は、一切話さなかった事を恨んでいた。

「同居はしないと、言っただろ」

結婚してすぐに、愁子は大園に不満をぶちまけたが、大園はそれらを全て跳ね返してきた。

「家の窓は全て騒音防止に、二重になっている。仕方ないだろ。そう言う環境なんだ。無理を言うな」

冷たい表情と、視線を愁子に合わせる事もないまま、そう言葉を言い捨てて、自分の寝室へと行ってしまったのを、愁子は昨日の事のように、鮮明に覚えていた。

互いの両親、特に大園の両親は、後継を心待ちにしていた。大園との性行為は月に1回。愁子の排卵日に合わせて行う、それは儀式と呼ばれる物だと、愁子は思っていた。

筋肉質な身体が覆いかぶさると、腕や胸に生えたフサフサとした体毛と汗で湿ったそれらが、べたりと愁子の身体に密接する。

先に果てるのは、いつも決まって大園だった。

1年間、その行為を我慢してきた愁子だったが、一向に妊娠する事はなかった。

不妊治療をやむを得ず受ける決断をし、発覚した事実は、大園の精子に問題があった事だった。

大園は、産婦人科医に事実を告げられたが、それを一切認めなかった。大園の両親や愁子の両親には、愁子に問題があると、有りもしない事を言い、自分のプライドを守り、愁子の心を踏みにじった。


そして。

愁子は、大園の“ある事”について、薄々気づいていた。



終電で帰宅した大園は、すぐに風呂に入った。

衣服は雑に洗濯カゴに放り込まれ、スーツは、リビングの椅子に適当に掛けてられていた。

ジャケットからは、普段なら研究室の臭いなのだろうか、薬品の臭いが染み付いているのだが、甘く華やかな香りがふわりと漂った。

終電で混み合ったのだろうかと、あまり気にしないようにしたが、スーツのポケットから振動しているスマートフォンに気がつき、愁子はそれを手に取り出した。

藍子あいこ

見知らぬ名前が、ディスプレイに表示されたのを確認すると、愁子は、深呼吸を一つして、電話に出た。

「純ちゃん、藍子だけど。うちのベッドの脇にUSBが落ちてたよ。明日、仕事で使うんじゃないの?」

応答ボタンを押すといきなり、甘ったるく舌ったらずなしゃべり口調が、愁子の耳の奥にべたりと張り付き、不快な音と、不快な人物なのだと言う事を察した。

「すみません。大園の妻です。おかけになられた方は、どちら様ですか?」

3秒程の間があった。相手の女が焦っているのだろうと言う事は、想像が付いていた。

プツッ。

相手の女は、無言のまま電話を切った。


やっぱり…。

愁子は、大きく息を吐いて、肩を落とした。

これまで、冷え切った夫婦生活を、愁子は我慢をして続けていた。いつかは、子供もできて、それなりの家庭になるのではないかと、思っていたのだったが。

結局、子供も出来ず、大園のプライドのせいで、夫や夫の両親からは、欠品扱いされても、嫁いだのだからと愁子は、歯を食いしばって耐えてきた。

「…ふざけんな」

ぼそりと言った言葉と共に、糸のような物が、プツンと音を立てて切れたようだった。

丁度、大園が風呂から上がり、扉を開ける音が聞こえると、愁子はツカツカと浴室に向かい、脱衣所の扉をがりと開けた。

「なんだ?」

腰にタオルを巻き、怪訝そうに愁子の顔を見た大園に、愁子はスマートフォンを顔に押し付け、冷静に、低い声で言った。

「藍子さんと言う方から、先程お電話がありました。ベッドの脇にUSBが落ちていたそうです」

「お前っ! 人の電話に勝手に出たのかっ!!」

「はい。上着のポケットの中で、それが振動していたので。何かと思いましたから。大事な伝言だったみたいだし、良かったですね」

ジロリと大園を睨みつけ、スマートフォンを更にグイッと顔に押し付けその手を離すと、大園は濡れた手で慌ててそれをキャッチした。

そうして、それ以上何も言わないまま、愁子は自分の寝室へと向かった。

部屋の明かりは点けなかった。レースのカーテンから月明かりが伸びて、辺りは見えていた。愁子の部屋の雨戸を閉めない事を、隣に住む大園の母親がいつも、不用心だと咎めていた。けれど、愁子は心静かに眺める夜空の星や、月を眺めるのが、結婚生活の中で少ない楽しみの一つだった。

閉めたドアの前に、ペタンと座り込んだ。心臓の鼓動が、ドクドクと、大きく鳴り響いていた。

頭の中は真っ白だったが、ポタポタと目から涙が零れ落ちていた。涙が出たのは、大園を愛していたからではなかった。これまで辛い環境の中、耐えて来た挙句に、自分の夫は浮気をしていた、嫁いだ3年の年月が、あまりにも虚しくなったからだった。

大園は、弁解しに愁子の部屋に来ることはなかった。そう言う男だろうと、愁子は察していた。これまでの不審な行いを問いただしても、自分の行いが正しいのだと、きっと言って来るだろう。捻じ曲げたような大園の道徳心を、愁子は許す事は出来ないでいた。

涙を止め、ふと顔を上げた愁子は、意を決した表情で部屋の月明かりを見つめていた。







泡沫連載スタート致しました。

今回は、女性主人公のストーリー仕立てになっています。


第1話、お読み頂き有難うございました。

これからどんどんお話が、展開していきます。

どうぞ宜しくお願い致します。

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