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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

読み切り短編

『或る影の話』prequel of 幻影†哀歌

作者: 本宮愁

嫌いになんてなれたはずがない。

いずれ貴方が治めるこの世界が穢れていたはずがない。


たとえすべて嘘なのだとしても。

それでも、僕は。


どうか気づいて

そばにいさせて


美しいものだけを知る人よ――貴方の影はここにいる。




◆ 光陰 highlight


 この世界は、つまりひとつの舞台なのだと思う。代わる代わるに立つ演者は無数、その全貌は神のみぞ知る。


 無限に繰り返される日々は、いつか美しい言葉で結ばれる、光にあふれた御伽噺の一幕にすぎない。結末を迎えるその場に僕がいるかどうかは瑣末なことで、重要なのは中心に彼がいることだ。


 とすれば相応しい始まりはこうだろうか――。


“むかしむかし、時というものが区切られ管理されるようになるよりもずっと、むかしのこと。見渡すかぎりの雲海の上には、仲睦まじい二人の兄弟が暮らしておりました”



「シール」



 ぼんやりと宙を眺めていた僕の前に、人の形をした光が差した。


 姿を確かめずともわかる。そこにいるのは、光沢のある白一色の衣を纏い、透けるような金髪を風に揺らして立つ、この天のように鮮やかな青い瞳をした青年だ。


 彼の背には巨大な翼があった。大きく、気高く、潔癖な、まるで光そのもののような純粋な力の象徴が、僕の目にはいつも眩く見えていた。



「なにをしていたのだ、シール」

「いえ――」



 くだらぬ物語りを、と短く答えて、本来この場に現れるはずのない人に向き直る。



「廟議はよろしいのですか、兄様」



 天王に仕える管理官の一人、次代の筆頭候補ともされる兄が、ふらふらと出歩いている時間帯ではない。だからこそ今、僕に忍び寄ろうとしていた者たちは大慌てで気配を消している。



「抜けてきた」

「それは……」

「幼い弟が一人で泣いている頃合いだと断ってな」

「まるで僕が赤子のような言い草ですね」

「お前は赤子の頃から変わらず、声を上げようとしないだろう。長く目を離してはいられまい」

「こうして兄様がいてくださるのに一体なにを嘆くことが……」



 最後まで言い終わらないうちに、兄の指先が僕の横髪を掬い上げる。血を分けた兄とは似ても似つかない闇色の髪。その下の頬には、まだほのかに熱を持つ腫れがあった。


 衣服に隠れた部分には、さらに無数の痣がある。口にしたことこそないが、その由来を兄は承知しているだろう。



「心無いものも変わらないな」

「気のせいですよ、そんなもの」



 僕の兄は光だった。

 僕だけでなく皆にとって、かけがえのない光だった。



「この美しい天には存在するはずのないものでしょう」



 ――貴方が生かした、この僕のように。


 天の定めた法は厳格だ。けれど、執行された例はほとんどない。裁く対象がないゆえに、僕らの力は、ほとんどが決して振るわれることなく眠っている。


 同じ天上の民に力を向けることは大罪でもあった。とりわけ血の繋がりのあるものを殺めることは最上の罪にあたり――僕は生まれ落ちた瞬間にその罪を背負った。


 僕は天の異物。

 母を呪い殺して生まれた咎の子。


 存在しないはずの僕だけが、存在しないはずの悪意にさらされる。その度に、この美しい人は、僕に優しい瞳を向けながら、悲しげにそれを陰らせる。


 手のひらに頬を寄せれば、天色の瞳に僕の闇色がそっくりそのまま映り込んでいる様が見えた。この瞬間がたまらない。恍惚とした気分になれる。


 兄は僕を慈しんでくれたけれど、目を覆いたくなるほど眩い輝きを汚す一点の闇、それこそが僕という存在であることは否定しがたく、そして甘美な事実だった。


 僕は兄の穢れであることに、歪んだ誇りを持っていた。



「ねえ兄様、約束を覚えてらっしゃいますか……?」



 兄の背に両腕をまわして、わざとらしく甘えた声色を使う。光を纏う翼へと繋がる肩甲骨をそっと指でなぞりながら。


 もちろんその間、僕は射殺さんばかりの悪意を四方八方から感じていた。ああこれだから低俗な有象無象は――そんなものを兄の前に広げるんじゃない。



「もしも兄様が飽きて僕を捨ててしまいたくなったのなら、そのときは僕を壊してくださいね」



 僕を巻きつかせた兄が、ぴくりと震える。

 反論を封じるように爪を立てて、僕は続けた。



「そんなことがあったなら、たとえ兄様が望まなくても、かならず僕は壊れてしまうでしょう。ならばせめて僕は、貴方の望みによって終わりたいと願うのです」



 見上げた先で、美しい顔が彫像のように固まっていた。


 兄には表情がない。今に始まったことではなく以前から、兄だけでなく天上に生きるものはすべて完全な美しさをもって凍った顔をしている。この僕を除いて。



「約束ですよ、兄様――」



 僕は殊更にゆっくりと唇を動かして、非対称な笑みを形作る。

 静かに嘆息した兄は、否とも応とも答えなかった。




◆ 咎 criminal


 思えば兄は、僕を愛していたわけではないのかもしれない。


 母体を殺め、父にも見放された赤子を哀れに思って、見捨てられなかっただけなのかもしれない。

 異質な存在を生かしてしまったことに責任を感じて、監視下に置いていただけなのかもしれない。


 それでも。



「にいさま、みながぼくのことをトガとよびます。トガとはいったいなんですか?」

「……咎とは罪、犯してはならない禁忌のことだ」

「では、ぼくがつみをおかしたというのですか? それともぼくじしんがつみなのですか」

「いいや、愛しい弟よ。お前がそのようなものであるはずがない。恵まれた才は天の祝福。その闇色は天がお前に与えた目印に違いない」



 遠い遠い日のやり取りを思い返して、ほくそ笑む。


 それでも兄はくりかえし囁いてくれた。

 ――お前は望まれた存在だ、天が特別の加護を与えた愛し子なのだ、と。


 まさか信じたわけじゃない。天の愛し子と呼ばれるのは兄その人で、僕は天上のすべてに嫌われた忌み子。兄がいくら僕を庇っても、その事実は変わらない。わかっていたから、はじめから天の愛など望みもしなかった。


 別に構わないのだ。兄にとって僕がどんな存在でも、本心では僕を疎んでいたとしても、僕は兄を愛していた。だから構わない。たとえ嘘でも兄が愛してくれるのなら、それで僕は十分だった。



「リナリオ様! と――……弟君が」

「ひどい顔色だな。なにがあった? あれが一体どうしたというのだ」

「あまりに、……あまりに、惨くて、私の口からは申し上げられません。弟君――シールの存在は異質に過ぎます。どうかこれ以上庇い立てなさいませんよう」



 ここに来る前の兄の姿も、身震いする女の請願も、闇に半身を溶かした今の僕にはハッキリ見えていた。なるほどそういう経緯で兄が呼び出されたのか、つまらないことをしてくれると、つい先ごろ僕の捕縛を言い渡した男を鼻で笑った。


 気色ばむ男を制して、兄が前に出てくる。



「弟よ、お前は一体なにをしたのだ? それの部下が血相を変えて飛んできたが」

「いいえ、なにも。兄様」



 振り向きざまに闇が蠢く。闇に包まれながら僕自身の身体を再構成する。兄の視界に映るのだから、彼の愛する弟の姿に戻らなければ。


 正直なところ、どんな形が本物だったのか自分でもよくわからなくなりかけていたのだけれど、すくなくとも兄が望む僕が僕の望む僕だから、それでいい。それがいい。


 僕を拘束していた男達は、皆一様に怯えたように身を引いた。



「なんと悍ましい」



 僕の背にも翼があった。

 兄の光翼に勝るとも劣らない範囲に広がる、紫黒の闇が。


 穢らわしいと目を逸らされることがほとんどだけれど、なかには欲する者もいた。


 どんなに異様な性質でも力は力、それも天王にさえ匹敵する大きな力の塊だ。自分ならば上手く扱えると奢る者は出てくる。そんな塵を兄の目に触れさせたくはなかったのだけれど。



「脆弱な塵が勝手に巻き込まれたんだよ、僕はなにもしていない」

「貴様……!」

「だって、そうでしょう? 僕は特別な存在。与えられた才をどう使うも僕の自由だ」

「わかっているのか!? お前はその悍ましい力を垂れ流し、天上の民を一人壊したのだぞ」



 力は狂気を孕んでいる。

 蓄えるばかりでも独りでに膨れ上がって、収集がつかなくなる。


 僕のそれは特にひどい。

 本来の形も性質もはっきりとしない、あらゆる法則を無視して存在する混沌。


 それを支配というべきか変質というべきか、深く可能性を追求したことはないけれど、品行方正な兄の聖術とは似つかない性質の悪さを備えた力だった。



「壊す、ね……」



 これでも、あるがままの美しい世界を望む兄のために封じてきたのだ。



「誓って、僕はなにもしていませんよ。あんな美しくもない見世物、兄様の目を汚すだけですから」



 おそらくは僕自身すら完全には扱えない代物を、相応の器もない者が考えなしに刺激しようとするのだから、それは原型をとどめない変質を起こしても仕方のないことだと思う。


 なにもしなかったからこうなった。

 僕が力を使わなかったから。



「兄様、わかってくださるでしょう?」



 ほんのしばらく兄は目を閉ざして黙考し、静かに答えた。



「――此度の件は咎めぬ」



 お考え直しくださいリナリオ様、と悲鳴のような声で羽虫が吠える。



「しかし、次はない。天の定めた法に例外はないのだ、弟よ」



 そのとき、兄の瞳は確かに僕へ向いていたのに、いつもの陰が見えず、それだけが僕にとって不満だった。




◆ 堕天 fallen


 床に描かれた複雑な紋様の中心に荒々しく引き倒されて、抜け落ちた闇色の羽根が周囲に散る。普段ならば不気味がって簡単に離れるのに、覚悟を決めた執行人はビクリともしない。


 でもそんなことはどうでもよかった。

 僕の目の前には、愛してやまない光が差し込んでいたから。


 人の形をした光――兄の表情は読めない。



「ちがう、僕じゃない……僕はやってない! ねえ、兄様、兄様!」 

「二度目はない、それが天の法なのだ」

「どうして――なぜ、信じてはくださらないのですか。僕はなにも」



 拘束された身を捩り、三文芝居を演じながら、実のところ僕は半分わかっていた。


 この空間には闇が満ちていたから。兄を模した翼を形作ってなお有り余る僕の力、古代の儀式紋様によって強制的に引き出されたそれが、部屋中を覆っていたから。


 今この瞬間、闇と繋がった僕は知りたいことをすべて知ることができた。大人しく拘束されていたのも、つまらない儀式に付き合っていたのも、それが他ならぬ兄の指示だとわかっていたからだ。



「リナリオ様、時間です」

「わかった。皆、儀を始めよう」

「兄、さ……ま……?」



 だから僕が本当の意味で絶望したのは、次の言葉を聞いた瞬間だった。



「哀れな弟よ、今からお前は片翼をもがれ【永の闇】に幽閉されるのだ」



 永の闇。

 そう称される場所がどこにあるか、僕はよく知っていた。


 大地の穢れを厭い、はるか昔から天上に住まう民となった僕らにとって、死よりも重い罰となりえる唯一の牢獄、その在処は――。



「大地の、底……? そんな、それじゃ……!」



 そんな場所に堕ちてしまえば、二度と天には戻れない。二度と兄には会えない。兄から引き離されてしまう。あの美しい純白を、青眼を、僕の闇は二度と侵せない。



「第一級の罪を犯した者の行く末は時忘れの牢獄と、そう天は定めている。肉親を手に掛けることは最上の罪だと、お前はよく知っていたはずだな」



 そうだよ、だから僕が父様を殺すわけがない、……とは、思ってくれないんですね。



「は、……はは……」



 乾いた笑いだけが漏れる。


 僕は、貴方に愛されたかった。

 嘘でもいいから、愛されていたかった。


 永の闇。それは僕がいるはずだった場所。生まれて死ぬまでのすべての時間、あるいは永遠を過ごすはずだった場所。


 かつて貴方の言葉が、気まぐれが、僕に違う世界を与えた。生も死もなく囚われるはずだった僕に、貴方が見せたこの世界、貴方がくれた舞台を――終わらせるのですか、兄様。



「つまりこれが、お伽話の結末、か」



 咎を負い、あるべき場所へ帰れと――そう、貴方が言うのなら、僕に否はないけれど。


 父の部屋で、本当はなにがあったのか、僕はわかっていた。簡単な話だ、大いなる光には大いなる影が備わる。光が枯れた先にあるのもまた、深い闇だ。


 天上の民は終わりを恐れない。でも父は耐えられなかった。母の最期を見てしまったから。僕という闇を知ってしまったから。父は、闇を恐れ、終わりを恐れ、僕を恐れ、兄を恐れ、とうとう自らの力に呑まれてしまった。


 それは美しくない答えだから、兄には決して教えない。


 天王は忌み子によって討たれた。そして忌み子は神の愛し子たる息子によって裁かれ、悲哀を乗り越えた愛し子は偉大な王となる。それでいい。それが美しい物語だ。



「兄様……最後に、僕の願いを聞いてはくださらないのですか」



 これから貴方が治める世界に相応しくない穢れはすべて僕がもって逝くから、だから、せめて。


 貴方自身の手で終わらせて。



「兄様、どうか約束を――」



 けれど兄は温度のない瞳を僕に向け、淡々と宣告した。



「地に堕ち、その罪を悔いよ――"咎"」



 同時に、背に焼けるような痛みが走った。



「……ぁ、ぁあああああ!」



 僕は、ただ、意識を失う瞬間まで、己の瞳に焼き付けるように、その光を見つめつづけていた――。




◆ 神話 mythology


 むかしむかし、時というものが区切られ管理されるようになるよりもずっと、むかしのこと。見渡すかぎりの雲海の上には、仲睦まじい二人の兄弟が暮らしておりました。


 兄弟は、天上の民と呼ばれた一族を治める父の才を受け継ぎ生まれ、まもなく兄は父の後継として正式に選出されました。


 母は既に亡く、父は忌み色を負った弟を疎んじておりました。兄は弟の孤独を気に病み、弟は慈悲深い兄を慕って、ほとんどの時を寄り添って過ごしました。



 ――後に天上の民最悪の日と語り継がれる、あの時までは。



 誰もが予期せぬ天王の崩御。

 その嫌疑は、父に匹敵するほどの力を持つ兄弟にかかりました。


 しかしその大部分は、多くの民から疎まれていた弟に向けられていました。


 弟への当たりは強くとも、優しく公正であった父を慕っていた兄は、新たな天王として弟の幽閉を決断しました。



 それは遠い遠い昔の物語。遥か高みに暮らした一族の、永い歴史の一部分。


 永遠に近い寿命を持つ彼らの伝承は、時に神話と名付けられ、今尚語り継がれています――。




◆ 大地の底 underground


 痛い。暗い。なにも、見えない。片翼をもがれた背中の焼けるような痛みだけが、この場所に現実感を与える。


 やたら身体が重いと思ったら、四肢には鎖が巻き付いていた。玩具みたいなものだけれど、わざわざ壊す気にもなれない。


 持ち上げていた上半身を倒すと、静寂の世界にガシャリ、と硬質な金属音が反響した。



 闇、闇、闇――。どこまでも続く漆黒の海は、気力を根刮ぎ奪って行く。


 これでも、空の愛し子と呼ばれる天上の民として生きてきた。この場所が正確に何処に存在するのかはわからないけれど、光も空もない、一面の闇色が支配する空間に気が狂いそうになる。


 自他の境界がわからなくなる。一体どこまでが僕で、どこまでが――際限なく広がる、この闇のすべてが僕であって、僕ではないのか?


 ……嗚呼。



「これが、第一級の断罪」



 永の闇。二度とは出られぬ時忘れの牢獄。この場所では、例え永劫の時が流れようと朽ちることさえ叶わない。



「ハハ……、なに、これ。ほんと……ばかみたいだ……」



 信じていたのに、どうして。そんな甘苦い想いはもう、残ってはいない。跡形もなく消失したその場所には、ただただ凪いだ無が広がるだけ。


 玩具みたいだ。こんな枷、こんな空間、きっと壊せるに違いない。それだけの力が僕には与えられていた。僕にはその権利があった。それなのに。



 仮にこの空間を、枷を、破壊したとして。その先に一体なにがあるというのだろう。



 意味なんてない。そう、すべてに、始めから意味なんてなかった。


 神に等しい力を持った異端児は、神に等しい存在に疎まれた。ただ、それだけの話だ。この背に負った闇色は、なるほど目印であっただろう。


 兄の言う天とやらが僕に落としたこの紫黒は、この者を疎んじよという勧告――その為の色であったに違いない。



「くだらない、なぁ」



 嫌になる。なにがって――、なんだろう。わからない。わからないけどただ、嫌悪感だけがぐるぐると巡る。


 嫌で嫌で嫌で。憎悪も復讐心もない。ただただ、もううんざりだと、なにもかも終わりにしたいと、思った。行き場のない破壊衝動。猛々しくも漠然としたその矛先は、己の紫黒に向けられる。


 残された片翼を覆う羽根を、乱雑に握り締めるようにして剥ぎ取っていく。身体の周りに無数の闇に溶け込んだ羽毛が積もり、熱が篭った。



 ――熱い。アツイ。なのに、寒い。



「もう、やだ……」



 虚ろに呟いては、機械的に手を動かし続ける。毟っても毟っても、一族の力の根源たる翼は間を置かずに元の姿を取り戻していく。


 残されるのは、熱を伴った痛みと、静寂に侵された虚無感だけ。




◆ 祈願者 prayer


 荒れ果てた大地に、血の雨が注いだ。戦火はその地からすべての生命を奪い去っていった。すべてが終わったとき、もはやその地は人のものでも、ましてや他の生き物のものでもなかった。


 延々と続く荒野。生き延びた者どもは問うた。何故、と。何故このような結末を迎えてしまったのか。始まりはとても――とても、些細なことだった。あまりにも些細で、誰もが見過ごしてしまった。そうして崩壊は、始まった。


 草も生えない割れた大地に両膝をついて、天をふり仰ぐ。幻の雨粒に打たれるように目を閉ざし、黙したまま、どれだけその姿勢でいただろう。



「何を、している?」



 一連托生の相方の声が、私を呼び戻した。



「いいや、何も」

「しかし、今――」

「祈っていたんだ」



 ただ天を仰ぐだけの作法もなにもない乱暴な祈りだ。

 しかし私たちの信じた神は、最早この土地にはいまい。



「祈り? この期に及んでか」

「そう。でも、意味なんかないよ。祈りは届かない。だから何もしていないのと変わらないんだ」



 相方は答えなかった。遠く、ここまでの道程を見つめて、眩しげに目を細める。私たちは今、まさに意味のない悪足掻きをしている最中だった。



「……もうすぐ終わるな」

「そうだね」



 夜毎、死の足音が迫る。私たちの命はきっと長くないだろう。

 この陽が沈めばもう次の朝は迎えられない。そんな予感がした。



「祈り、か。お前は何に祈った?」

「意味なんてないって言ったじゃないか。でも、そうだね。強いて言うなら――」



 私の目線をたどり、無愛想な相方も、ふと口元を緩めた。


 岩陰に敷かれた布の中心で、穏やかな寝顔をして丸くなる小さな命。天にも神にも見放された極限の環境で、ここまで私たちが歩んでこられた理由。私たちに残された、なけなしの意味。



「この、腐敗した国で尚も生きることをやめない、幼き君に」



 やがて二つの名も無き魂は消え、彼らの血は大地を染めた最初の緋となった。


 最後の希望を抱き、ただひたすらに駆けた兵士達。気高き血を守らんと、闇に呑まれゆく地から逃れ続けた。消して長くはなかったその旅路の果てに、しかし幼子の姿は共にない。彼らは最期にこう、告げたという――。



“我らを見捨てし神よりも、かの君を守りしモノを信じ、この祈りを捧ぐ”



 やがて一人の少年がかの地を踏む時、新たなる歴史は始まりを告げる。



「何を望む? 幼き王」

「力を。この地の平穏を、民を、護る力。それだけを」

「ならば僕の力を捧げよう。君が望むならば、――ファントム」



 幼い瞳に悲壮な決意を滲ませた少年の傍らで、人ならざる者は微笑んだ。




◆ 亡霊 phantom


 その声を、ずっと前から知っていた気がする。



「なんて脆弱な……こんなものが光……? 人の子の考えはまったく理解できない」



 夢うつつの中で、独り言のような声を何度も聞いた。


 真っ暗な空間で、くりかえし置き去りにされる以前の日々を夢見ていた。現実ではないことを知りながら、ぬるま湯のように浸り続けた。


 そこへ時折、差し込まれる声があった。



「まだ生きてるのか。きみも僕も存外しぶとい」



 呆れるように。



「どうせきみのことなんて誰も覚えちゃいないよ、亡霊ファントム



 皮肉るように。



「いてもいなくても変わらない亡霊、なんて似合いの名だろう」



 揶揄うように。



「面倒をみてやると言った覚えはないのに、どうしようもない力の使い道ばかり覚える」



 戸惑うように。



「こんなこと、兄様に知れたら何を言われるだろう」



 そのたびに私は、私を取り囲む世界が現実ではないことを思い出し、夢から覚めて暗闇に投げ出された。さまよい疲れて眠る頃に、また、浅い夢を見た。



「おやすみ、小さなファントム……きみのせいで、いつまでも僕は輪郭を失えずにいるんだ」



 ときに夢を切り裂いて、ときに見渡す限りの闇の中で、どこから聞こえてくるのかもわからない囁き声の主を、私はまだ知らない。




◆ 邂逅 vesper


 ずいぶん長い間、夢と現の狭間で、永遠に続く暗闇を彷徨っていたような気がする。


 ある日、一点の光明を見つけたのは、ただの偶然。あるいは、神の気まぐれ。一心に闇を駆けながら、これは現実だ、と始めて確信した。この空間の外に出られるかもしれない!


 興奮冷めやらぬ中で、ふと疑問が湧いた。物心ついて以来ずっと聞こえてきた声の主が、これを知らないということがあるだろうか。


 だから、私は足を止めて、何の気なしに問いかけた。

 名前も顔も知らない、もう一人の闇の住人へ。



「なあ、出口があるなら、どうしてここから出ない?」



 一瞬の静寂。



「おい聞こえて――」



 光に背を向けた途端、ざわりと空間が歪み、密度を増した闇が少年の姿をとって、私の目の前に現れた。


 私の目にはその存在のぼんやりとした輪郭しか見えなかったけれど、彼がこの空間の主であることを瞬間的に察した。


 なぜかはわからない。理屈ではなく、わかった。圧倒されるほどの存在感は、私にとって親しみ深いものでもあった。私を包み続けたこの闇だ。闇こそが彼で、彼こそが闇。



「この世界は、僕にとって無意味だから」



 その声を私は、知っていた。



「――おはよう、ファントム。見つけたらなら早くお行き。きみはここにいるべきじゃない」



 影絵のような少年が笑う。

 光を指差す、その腕には鎖のようなものが巻きついていた。



「ここは人の子にはさぞ退屈だろう。短い命を散らすことすらできない。死なずにいるには最適だけれど、生きるには不自由な場所だ」



 光が近づき、広がる。


 それは穴だった。人一人がようやく通れるほどの、闇に縁取られた穴だった。穴を残して、闇で織られた繭のような、私を育みつづけた夢の揺り籠が収縮していく。


 彼の言葉に従って進めば、おそらく二度と戻れない。

 これまでの居場所を失う恐怖心に、私は怯んだ。



「おまえ、何者なんだ? 私を生かしたのはおまえか? 一体何のために」

「その問いにきみ自身は答えられるの?」



 立ちすくむ私をせせら笑うように、影は言葉を重ねる。



「きみは何者で、一体何のために生かされているのか――べつに意味なんてなくても人は生きられる。だけどきみが欲するのなら、ヒントをあげようか、小さなファントム」



 饒舌に、芝居掛かった口調と仕草で少年は語る。



「きみは幻の子だ。なにせずっとこの僕に神隠しされていたのだから、いまさら世に出たところで居場所はないよね。だけどもしかしたら、きみを知らず、きみにも知られずに、きみを待ってる人々はいるかもしれない」

「なんだよ……それ」



 わけのわからない『ヒント』に、乾いた笑いが漏れた。


 答えを教える気があるのかないのかどっちなんだよ。何もかも知り尽くしたような口ぶりで、はっきりしないことしか言わないなんて、ふざけてるのか。



「さあね。あいにくと僕には興味がない。……ただ、『この子を頼む』って泣きついてきた彼らのことは、嫌いじゃなかったな」

「かれら、って……」



 私の視線を受けて、少年は言葉を継いだ。



「かつて、きみを抱えてきた者たちだ。きみは、最後の希望なんだって。きみの生命を繋ぐためだけに、彼らはすべてを投げ打ったよ。――希望を託すけれど、迎えには行かない。まったく見上げた勝手な忠誠心だよね」



 長い鎖を引き摺るようにして、少年が私との距離を詰める。


 その鎖は物質ではないのか、あるいは少年が実体ではないのか、予期したような金属音は鳴らず、不気味なほどに滑らかで、静かな動きだった。


 まるで拘束具としての意味をなしていないような、手足の枷。彼は、なぜそんなものを身につけているのだろう。まるで他人事のように、なぜこんなことを語っているのだろう。



「どうする? また夢を見せてあげてもいい。今度こそ醒めることのない夢を。退屈まぎれにはなるだろう。だけどきみは望まないね。僕の繭を自らの意思で破ったのだから」

「まゆ……?」

「きみが生かせと泣き喚くから用意した、特別製の揺り籠だよ」



 黒々とした闇に塗りつぶされて表情のわからないそいつが、私には笑ったように見えた。



「ただ死なさずにいるだけなら、簡単だったんだ。過去も未来もないこの場所で、生を強請ったのはきみ自身だ――僕には答えられない。だからきっと答えはきみが持っている」




◆ 契約 commandment


 一面に広がる焼け野原の中心に、二つの小柄な影が落ちる。死んだ土壌に植物は育たず、荒れ果てるばかりの大地。しかし尚もちらほらと立ち並ぶ民家は、虫の息ながらかの地――旧帝国領がひそかに生きながらえたことを示していた。


 内部崩壊を起こした帝国は、何年もかけ、数多の血を流しながらゆっくりと滅亡へと向かっていった。絶えぬ争いに半数以上の者が命を落とし、また多くの者が難民となりかの地を逃れた。


 戦火がおさまっても尚、食物の育たぬ荒れた土地で数えきれないものが餓死し、かつて栄華を誇った大国も、隣国からの侵攻に成す術もなく屈するより他なかった。広大な国土はより荒れ果て、満足な統治も得られないままに民は取り残された。しかし尚も留まり続けた者たちが、いた。



「なるほど……そうか」



 そこには、営みがあった。

 人々は待っていた。ただ一つの希望を、ひたすらに待ち続けた。



「そういう、ことか」



 私を知らず、私にも知られずに、私を待っていた人々が、いた。


 私が本物であるかどうかなんて、彼らにとって瑣末なことだ。彼らはただ待っていた。なにもせず……いや、なに一つ変えずに、待ちつづけていた。この夜が明ける日を。ふたたび陽が昇る時を。



幻影の子(ファントム)。答えは見つかった?」



 闇に身をやつしたまま、この土地まで送り届けてくれた少年に向き直る。共に多くを見た彼の姿は、なぜか私以外の目には映っていないようだった。



「私は――取り戻す。すべてを、正してみせる」

「そう」



 僕の案内はここまでだ、とでも言いたげに身を引いた少年の腕を、とっさに掴んだ。厚い闇に覆われた先には自分自身と同じ血肉があると、なぜだか疑わずに手を伸ばしていた。


 だからそのとき、ひどく痩せ細り、骨張った華奢な腕の感触を得たことに、私はなんの戸惑いも抱かなかった。



「一緒に来い。居場所がないならくれてやる。幻無き国を。だから、意味がないなんて言うな」



 かつて、私を生かしたもの。いまの私を創ったもの。

 まるで自嘲するかのように、私の孤独を皮肉って、ファントム、と、柔らかな声で呼びかけてきた、彼を。


 私はどうしても連れ出したいと思った。

 そして私の選択を、誰よりも近くで見届けてほしい、と。



「なにもしなくたって構わない。ただ見ていてくれ」



 一瞬の沈黙の後に、フッと小さな笑い声を漏らして、彼は初めて私の前に姿を見せた。



「……いいよ」



 闇の中から現れた少年の顔には、装飾もなにもない簡素な銀の仮面と、芸術品のような微笑が張り付いていた。



「そこまで言うのなら、きみの結末を見届けてもいい。この有り余る力で以て、唯一にして絶対の加護を授けよう。きみの作る、醒めることのない幻のために――」



 正直なところ、私は心のどこかで彼のことを禍々しい存在ではないかと思っていた。


 あんな場所に繋がれ、独り彷徨うことを強いられた魂は、どんな罪を犯したのだろうかと疑っていた。闇に覆われたその正体は、どれほど醜いものなのかと。


 しかし、そのとき私が目にしたのは。



「時忘れの牢獄すらも欺いたこの僕に、いまさら起こせない奇跡はない」



 あまりにも高貴な、闇だった。

 空高く広げられた片翼の神々しい美しさに見惚れた。


 あの闇の中で四肢に巻きついていたはずの鎖は、どこへ消えたのだろう。壊したのか、隠したのか。彼が自由を望んで断ち切ったのならいい、と願いながら、おそらくそうではないとわかっていた。


 彼は望んで囚われていた。

 この土地に生きる民と同じように、絶望と紙一重の希望を抱いて、ただ、待ち続けていた。


 そう、直感した。



「幕開けは派手にいくかい?」

「いや……私は」

「きみに似合いの舞台をあつらえよう。僕を愉しませようというのなら、それくらいは必要でしょう」



 彼を人がどう謗ろうと、その本質が魔でも妖でも構わない。



「なにを望む? 幼き王」

「力を。この地の平穏を、民を、護る力。それだけを」

「きみが望むならば、――ファントム」



 その日、私は神を手に入れた。




◆ 仮面 disguise


 かの王の傍らには彼が居る。細工も何も無い簡素な銀の仮面を嵌めた、性別・年齢不詳の少年。



「何故おまえは顔を隠す?」

「王の目に触れるような造作ではありません故」


「では何故、声をも偽るのだ」

「さて。貴方に偽るなどと恐れ多いこと、誰が致しましょう」



 それは、幾度となく繰り返したやり取り。


 その小振りな唇の紡ぐ声は常に凛と澄み渡り、ともすれば機械的とさえ称され兼ねない程。いかなる場面に於ても決して揺れないそれは、芝居がかった口調と相俟っていっそ作為的でさえあった。


 どこか浮世離れした風情を漂わせる少年を、若き王――ファントムは甚く気に入っているようであった。側室も正室も持つ王が、しかし唯一己の傍らを許す者――少年は一体、何者なのか。彼等の関係はあまりにも謎に満ちていて、様々な憶測を呼んだ。


 或る者はそれを主従と云った。また或る者は友愛と称した。更に他の者は、彼等を繋ぐのは紛れもない恋慕である、とも。


 けれどもその全てを、少年は仮面に覆われた瞳で嘲るように一瞥するのみであった。ファントムもまた否定も肯定もせず、無言で少年を膝に抱いた。


 あたかも恋人のようなその様に、少年は王の愛人であるという噂は数限り無く生まれた。しかしそれすらも彼等は気に留めることなく、少年は一言「有り得るものか」と告げて笑った。


 二人の関係を表すのに相応しい言葉は見当たらず、それでも少年は王の傍らにいた。隣に立つでもなく、ひざまずくでもなく。殆どの時間を、王の足元――玉座から伸びる影の中で過ごした。


 ある時、不意に王の側近が告げた。「お前はまるで陛下の影のようだ」と。その言葉に始めて少年は反応を示し、口の端を持ち上げて妖艶に笑ってみせたと言う。




◆ 昔噺 theatrical


「退屈な芝居を、よく飽きもせず続けられるな」



 足元に侍る小さな影へ、ぽつりと声を落とす。



「暇つぶし程度の余興にはなるよ。あの僕らを見る目といったら」



 仮面の奥で目を細め、くすくすと笑う少年。歳を重ねても出会った頃から少しも変わらないその姿は、彼が人ならざるものである証だった。


 しかし彼に本当の姿などというものがあるのだろうか。好き勝手に見目を変え、気まぐれに立場を取り替えては、城のものを揶揄っている。聞き慣れた声の響きと銀の仮面という目印がなければ、私にも見分けられる自信はない。



「それにきみ、人を壊すと怒るだろう? 遠巻きにしてくれるくらいがちょうどいい。どういうわけだかきみは全く平気なようだけど。繭の影響かな」



 彼の本心はわからない。

 すべて本音で、すべて嘘なのではないかと思う。


 日によって彼は全くの別人のように振る舞ってみせ、かと思えば初めて出会った頃のままの掴み所のない少年に戻りもする。


 私にとっては懐かしい記憶も昨日今日の出来事のように語り、また私には預かり知らぬ遠い地の出来事を、つい今しがた見てきたかのように語ってみせる。あるいはこれから起こる未来の出来事さえ、あえて語らずとも彼は知っているのかもしれない。


 彼の精神は、私と同じ時間軸にないのだ。



「シール」

「なんだい? 我が王(ファントム)



 私が彼と過ごした十年で知ったのは、渋る彼から半ば強引に聞き出した、本当か嘘かもわからない名前だけだ。



「おまえは饒舌なわりに、自らを語ろうとはしない」

「めずらしいことを言うね」

「私にはないが、おまえにはあるんだろう。私に出会うより前に、おまえを形作ってきた時間が」

「ああ……そういう意味では、残念ながら僕というものの輪郭は遠い昔に融けてしまったんだ。ここにあるのは骨も身もない抜け殻、自立して動いているのが奇妙なくらいの代物さ」



 へらり、と笑みを貼り付けた彼が、本当はどんな表情をしているのかわからない。



「そんなに気になる? 面白いものでもないのに。まあいいよ、ちょうど暇を持て余していたところだし――」



 特別隠すほどのことでもないと、彼は簡単に身の上を明かした。

 私はその内容と、彼の態度との落差に愕然とした。



「つまり冤罪で終身刑にされていた、と?」

「天王は惨たらしい死に様を晒した。僕から言える事実はそれだけだ」

「でも、やってないんだろう」

「さあね……忘れたよ、もう」



 大きく欠伸をして、どうでもいいことのように過去を語る彼には、まるで当事者としての意識が欠けているようだった。



「きみたちの感覚じゃあ気が遠くなるほど昔の話なんだ。僕が天上で見届けたのは兄の即位まで――いや、まだだったかな、とにかく追放令を天王としての権力で下されたのは確かだった。どうでもいいけど。僕の身分が咎人であることは変わらないし、いまや事実として潔白ではないからね」



 あまりにも簡単に口にする彼に、私は複雑な思いを抱いた。


 死にかけた大地を蘇らせるため、私を王座に座らせるため、他国の干渉を跳ね除けるため……彼は多くの黒翼を散らしてきた。この国のあらゆる生命が、彼の言うところの毒物に多かれ少なかれ侵され、変質し、生かされている。


 彼に罪があるとしたら、それは。



「私の、ためか」

「いいや、きみの理想のためだ」



 彼は笑って私の手を取った。



「きみは特別なんかじゃないよ、ファントム。僕はただ、きみが作る国を見てみたかった。夢を現実に引き下ろそうとするきみの無謀な挑戦に興味があった。それだけだ」



 ほんとうに、そうだろうか。

 一抹の不安から意識をそらして、私は人ならざる盟友に微笑み返した。



「ああ……感謝している、友よ」



 たとえ彼の目的が他にあったとしても、心からそう思っていた。




◆ 箱庭 miniature garden


 美しく整えられた花の無い庭園を、一人の少年が歩いていた。あどけない顔には不釣り合いな、妖しさを湛えた紫黒の双眸は酷く静かに凪いでいる。黙々と足を運ぶ少年は、何かを探しているようであった。



「おい、そこの者。その場所が陛下だけに立ち入りを許された特別な庭だと知らないのか? 早く去れ」

「いいえ、此処は僕のもの。彼だけを許した"僕の世界"――箱庭、なんですよ」



 少年の姿を見咎めた兵士に、ニコリと笑って彼は答えた。無邪気なようで、どこか計算された完璧さを感じさせる笑み。

 そこに含まれた意味を悟った時、若き兵士は言葉を失った。



「……賢い人だ。僕を此処で見たこと、王には言わないで下さいね」



 貴方の為に、そう告げる少年に間を空けずして頷き、兵士は慌てて踵を返した。

 その背中を見送りながら、少年は顔の上半分を覆う銀の仮面を取り出し、身につける。そして外套のフードを被ると、唯一覗く紅い唇を歪めて囁いた。



「ファントム、きみは平和の為の力を願い、僕はそれに応えた。だから、降り懸かる火の粉は全て僕が払う」



 きみは、知らなくていい。


 王城の箱庭は、僕らの約束の地。幾度季節が巡ろうとも、この場所だけは変わらない。そして木々はやがて彼の民を護る【石】を生み落とすだろう。


 箱庭の片隅の小さな空間に辿り着いた少年は、足元を埋め尽くす濃紫の原石を見下ろす。無数のそれらは全て同じ石である。

 そっと掬い上げた一つに、少年は口づけた。



「見つけた。どうか、力を貸して――」



 それからしばしの間、"王の庭"で夜色の髪を揺らしてそよ風と戯れる少年を見た、という噂が城下を流れる。

 しかし間もなく隣国の侵攻が始まると、戦乱の中でかの少年の噂を知る者は失われていった。




◆ 請願 implore


「まさか誇り高き天王が穢れた人間に力添えするなんて思いもしなかった。どうやら兄様は本気でこの国を――僕の咎を断罪しようとしているらしい」



 わざわざ人払いまで要求した彼が、めずらしく真面目な顔をして切り出した内容に、なんとも言えずおかしな笑い声が漏れた。



「神の裁きか」



 隣国の影に扇動者がいることは察していたが、これまた大層な後ろ盾を得たものだと素直に驚く。



「後悔している?」

「いいや、まったく」



 本心から答えれば、彼は満足げに口の端を上げた。

 普段は隠している翼――初めて見た頃に比べれば随分と小ぶりになった、闇の靄に覆われた片翼を旗印のように掲げて見せながら、芝居がかった口上を述べる。



「それでこそ我が王だ。でも安心していい。なんてったって、きみには天上を震撼させた大罪人がついている。僕の黒翼はほとんど残っていないけれど、それでも地上に不慣れな兄様の軍勢を押し返すほどの力はあるだろう」

「だめだ!」



 私は反射的に答えていた。

 枯れ枝のような細い腕を掴む。いつか彼を引き止めた日のように。



「だめだ……おまえが出ることは許さない」

「わかるだろう、ファントム。これはもはや人の戦いではない。脆弱な人の子には荷が重すぎるよ」



 宥めるような声、穏やかな眼差し。そんな優しさは、彼には似合わない。すぐに演技だと知れた。彼はいつでも仮面を被っている。簡素な銀の仮面のその奥に、もう一重、心にもない表情を纏って本心を隠すのだ。


 予感があった。彼が過去を語った日からずっと、不変の彼を脅かすものがあるとするならば、それは天上の存在に他ならないと。



「シール、もう貴方からは充分すぎるものをもらった。私の願いのために、これ以上咎を重ねて欲しくない」

「僕は天から追放された咎人なんだよ。どのみち永劫赦されることのない穢れた存在なんだ。いまさら一つ二つ禁忌を侵したところで――」

「無実の貴方に咎を背負わせたのは私だ」



 掴んだままの彼の腕が、微かに震える。



「どうか受け入れてくれ。これは私の意志だ」

「……」



 そのとき初めて私は彼の表情が消えるのを見た。

 深い闇を思わせる怜悧な瞳は底知れず、不気味なほどに美しかった。




◆ 棄却 reject


 ファントムは勝ったらしい。僕の力の及ばない国外で競り合って、兵力の差をものともせず、隣国の主力を押し返したと数刻前に報せが入った。


 当然だ、あの子は強い。あの王に導かれて、そうそう負けるはずがない。僕の力添えなどなくとも、祖国の救済くらい軽くやってのけただろう。あれは、理想に殉じられる者だ。何を置いても意志を貫く強さが、あの子にはあった。あの子が僕に力を求めたのは、僕がそう望ませたからだ。


 千年あまりを、無気力に生きた。

 果てに見つけた、星屑のような、小さな輝き。


 あの子に望まれるのは心地いい。ほんの一時でも、空虚な胸の穴を埋められたような錯覚に浸れる。僕に向けられる熱も執着も、すべて含めて愛おしい。あの子を生かすことが、今の僕の生きる意味だった。



「だから言ったのに……あの子は甘い」



 まさか敵方も、王が自ら最前線に赴くとは思わなかったのだろう。僕はファントムの勝利を疑っていなかったけれど、客観的には彼我の戦力差は絶望的とも見られていた。


 この機に乗じてファントムを闇に葬ろうと忍び込んだ羽虫の数は多く、この城に侵入を阻めるだけの守りは残されていなかった。


 しかし、中枢には、僕がいた。


 いつしか、あの子の理想が僕の理想になった。あの子の理想の中に僕の居場所ができた。だから壊させない。あの子の願いを裏切ることになったとしても、僕は、あの子と、あの子の愛した国を守ると決めた。



「こ、こは……『王の庭』か……?」



 城内に踏み込んできたのを合図に、まとめて影から引き込んでやった先は、王城の中庭。普段はそう思われているが、この空間はそもそも僕のものだ。木々も花も石も、すべて僕の羽根から出来たもの。


 こうして切り離してしまえば、どこにでもあって、どこにでもない場所に様変わりする。自由に行き来できるのは、僕とファントムだけ。


 兵たちは、急激に転換した景色に戸惑い、ずいぶん混乱しているようだった。頭はどれだろうか。まとめて片付ければ関係ないか。



「いいえ此処は僕のもの。彼だけを許した僕の世界」



 枯れた大地に復興したこの国は、砂の一粒、水の一滴に至るまで、僕の力によって染め上げられている。いわば、あの子のために誂えた舞台。そしてこの城は、あの子と戯れるために作った、特別製のドールハウス。


 僕のすべてをかけて作り上げた――。



「箱庭、なんですよ」



 闇色の羽根とともに、敵兵の首が地に落ちる。


 ああ、半分ほど残ったか。いよいよ僕にも限界がきたようだ。いろいろと無理を重ねてきたから、まあこんなところだろうと思っていたけれど。


 恐怖にひきつった顔を見るのは久しぶりだ。かつて天上にいた頃には見慣れていたはずなのに。あの子はそういうものを嫌うから。


 それがなんだかおかしくて、僕は笑った。


 これで僕は、かつての僕を形作っていた闇をすべて失った。一族の力の根源たる翼はもはや僕の背にない。悍ましいと忌避された最大の理由は僕の手を離れたのに、向けられるのは同じ瞳。


 やはり、僕の闇を愛せたのは、あの子だけか。


 悲鳴をあげようとして声が出ず、武器を取り落とした手で喉を抑えながら、はくはくと喘ぐ男たちを、冷ややかに見つめた。


 やれやれ、人の器は脆弱だと知っていたけれど、これは予想以上に脆い。兄の助力を受けてここまで潜り込んだものと思っていたのに、それ以上の加護を受けていないのか。


 苦悶の表情を浮かべていても原形は留めている。外傷もそれほどない。僕由来のモノにしては、なかなか綺麗に壊しているほうだと思うけど。



「やっぱり、あの子の気には召さないかもしれないね」



 僕の足元では、濃紫の原石が妖しい光を放っていた。これだけ純度の高い【石】が生まれているのなら案ずることはない。あとはすべて、僕の影を吸って育ったモノらに任せよう。使うも使わないも、ファントムの好きにすればいい。


 この国のすべては僕の闇で出来ている。

 僕から離れても、それらは変わらず力を宿す。

 だから、もう、大丈夫。


 あの子は十分に強いから、僕の力添えなどなくても、きっと理想をかなえてしまうだろう。


 これは、ファントムの願いのためではない。

 すべては、僕自身の願いのため。




◆ 再演 reenactment


「あわれなものよ」



 ――僕の前に、人の形をした光が差した。


 姿を確かめずともわかる。そこにいるのは、光沢のある白一色の衣を纏い、透けるような金髪を風に揺らして立つ、この天のように鮮やかな青い瞳をした青年だ。


 彼の背には巨大な翼があった。大きく、気高く、潔癖な、まるで光そのもののような純粋な力の象徴が、僕の目にはいつも眩く見えていた。



「……兄様」



 貴方はいつも、現れるはずのない場所まで、僕に会いにくる。

 地に堕ちれば二度と会うこともないと思っていたのに、地上の、まして人の興した国の中心で、相見えることになろうとは。



「天上の統治はよろしいのですか、兄様」



 在りし日と変わらぬ美しい人は、変わり果てた僕の姿を、別れの瞬間と同じ温度のない瞳に映して答えた。



「私がなにをしにきたのかわからないのか」

「不出来な弟を殺しにですか」

「迎えにきた――と、言ったらどうする」

「ご冗談を」



 とても冗談には聞こえない声で、兄は信じがたいことを言う。相変わらず冗談を言える性格でもなさそうな兄が言うのだから、きっと本気なのだろう。


 僕を、また兄様のそばに……?


 罪を許したわけでもなく、天に連れ帰るとは何事だろう。せめて再び目の届く場所で監視しようというのだろうか。さすがの僕の闇も天上までは及ばず、長らく兄の動向はわからなかった。この地上で兄が十全の力を発揮できないのと同じように、天上の民の力は万能ではない。



「神はこれ以上お前を地上に置いてはおけぬと判断なされた。許しなく時忘れの牢獄を抜け、理を歪め、あまつさえ気まぐれに人の世に争いを招いた。まさしく忌み子に相応しき所業の数々を、いかに釈明する?」



 黙り込む僕を置いて、兄は淡々と告知する。



「愚かな弟よ。お前は罪を重ねすぎた。だが神はお前を許したいと願っておられる。天に戻れ、罪深き弟よ。この穢れた土地で、お前の生み出した咎を、自ら余すことなく掃滅せよ。さすれば神はお許しになられる」



 許す? 許すと言ったのか、あの兄が。夢に見たことさえない、奇跡のような誘いを、いまさら僕に?


 まさか信じたわけじゃない。

 兄の本心も、天の思惑も、別になんだって構わなかった。


 兄にとって僕がどんな存在でも、本心では僕を疎んでいたとしても、僕は兄を愛していた。だから構わない。たとえ嘘でも兄が愛してくれるのなら、それで僕は十分だった。


 以前の、僕ならば。



「――お断りだね」



 兄は何も変わっていない。

 だけど僕は変わり果ててしまった。

 姿も心も、かつて兄の望んだままの僕はどこにもいない。



「兄様。僕はあなたを愛していました。天の理に納得はできなくとも、あなたの行動には意味があるのだと、正しさがあるのだと、盲目的なまでに、純粋に、信じ、慕っておりました――あのときまでは」



 嘘でも愛されているのだと思いたかった。

 この世でただ一人、貴方だけが僕に意味をくれるのだと信じていた。


 あの子に出会って、人間の感情を知った。愛することと憎むことを。喜ぶことと悲しむことを。かつての僕を形作っていた歪んだ愛情は、一度は引き裂かれて空っぽになった僕の心に、本物の感情となって再び宿った。


 僕は、貴方を忘れた日などない。



「兄様」



 僕は微笑んだ。可能なかぎり醜く、妖しく、完全なる美貌が知る由もない、悍ましいほどの情念を込めて。



「貴方は思い知らねばなりません。無垢な信頼を踏みにじる残酷を、残酷の齎す狂疾を」



 だから言ったでしょう、兄様。


 もしも貴方に捨てられるようなことがあったのなら、たとえ貴方が望まなくても、かならず僕は壊れてしまうでしょう、と。


 僕はきちんと告げたでしょう。



「貴方が僕を異常者だというのなら、それは紛れもなく貴方の振舞いから生まれたもの――わかりますか、兄様。僕の咎は、この僕が背負う数多の影は、貴方という光によって照らし出されたものでもあるのですよ」



 思い知ってください、兄様。


 貴方という光の強さ、貴方が生み出した影の濃さを。咎の重みを。僕という存在を。二度と忘れられぬように、魂にまで深く刻んでください。


 僕は狂っていた。初めからずっと狂っていた。修復不能なほど壊れたことで初めて僕は、それがいっそ病的な狂気の類だと気づいたのです。



「どうぞ、どうしても僕を連れ帰るというのなら、お得意の聖術でもって僕の胸を貫いて、物言わぬ亡骸を天にお捧げください」



 満面に、淀んだ歓喜の表情を浮かべて、僕は兄に向け両腕を広げた。



「なるほど……処置無しか」



 兄はいつかのように目を閉ざして黙考し、静かに答えた。



「お前が地上に固執するわけを、私が知らぬとでも思うのか」



 光の翼が広がって、そのうちの一枚の羽根が矢と化して飛んでいく。狙いは今まさにこの空間へと駆け込んできた僕の王(ファントム)だろう。


 迅速かつ正確に、無駄のない転換で生み出された光の矢は、惚れ惚れするほどの美しさだった。



「シール! 出るなとは言ったが誰が迎え、討て、と――……?」



 声を荒げるファントムの目前、簡単に躱せたはずの警告じみた攻撃の線上に、自ら飛び込んだのは、なぜか。貴方にはわからないでしょう。


 ファントムが、丸々と眼を見張る。じわじわとその顔がこわばっていく様を見ながら、僕はまだ笑っていた。声を上げて笑いたいほどの気分だったけれど、あいにくそこまでの余裕はもてそうにない。



「かわいそうな、兄様」



 貴方は変わらない。

 ――変わらない貴方のことを、僕がわからないと思うのですか。



「あなたは、なにもわかっていない」



 ああ、身体が焼かれる感覚は、何度経験しても嫌なものだな。



「僕は地上にも、天上にも、いまさら固執してなどいないのです。ましてや、僕自身の未来になど、カケラの興味もない」



 僕の背から腹へ易々と突き抜けた光の矢は、なるほど人の身ならば瞬く間に焼き尽くしかねないほどの暴力的な聖性を纏っていた。


 それはつまり、長く人に身をやつし、地上の穢れに染まり、天上の民としての力もすべて使い果たした今の僕にとっても致命的な聖性だったけれど、兄はそんなことは知らない。知らずに、かつての僕にとっては無害に等しい矢を射った。



「兄様、あなたは、僕との約束を果たしにきたのですよ」



 身体の中心から、内側を通って燃え広がっていくような、違和感。光が闇を容赦なく蹴散らすように、別物に置き換えられていく。



「まさか……」



 天上では、ただの一度も聞いたことない、ひどく狼狽した兄の声が聞こえた。どんな顔をしているのだろう。見てみたい……でも身体が、思うように動かない。誤算だな。せめて逆向きに射抜かれればよかった。そしたら、ファントムのこんな表情も見ずに済んだのに。



「シー、ル……?」



 かわいそうに、声も無くして固まる僕の王。震える腕が僕の身体を抱きとめる。


 ごめんね、ファントム……もう終わるから……とんだ茶番劇に付き合わせたことを詫びさせてほしい。きみが気にすることは何もない。これはすべて、僕の願いなのだから。


 いかなる理由があっても、肉親を手にかけたものは、第一級の断罪。



「天の定めた法に例外はない――貴方はよくご存知のはずだ」



 箱庭を構成する木々、花、草、土、石――あらゆる僕の力の産物が一斉に闇を吐き出して、儀式の紋様を描き出す。やはり完全な再現には至らないか。でもここは、天よりずっと、底に近い。


 さあ開け、断罪の門よ。

 地の底から伸びる悠久の楔に唾棄すべき咎人を繋げたまえ。


 命を枯らし、なけなしの力を振り絞ってでも……僕には貴方に見せたい世界がある。



「さようなら、僕の愛した光」



 ああ……貴方の堕ちる姿が見られなくて、本当に残念だ。




◆ 彼誰 before the dawn


 それは、恋愛感情なんて陳腐なものが裸足で逃げ出すほどに、どろどろとして穢い、底のない泥沼のような執着心だった。


 彼を愛していたのか、はたまた憎んでいたのか、わからない。ただ、この凍った感情を動かす唯一の存在であったことだけは、確かだった。



「ファントム」



 ゆっくりと震えながら、弱々しく持ち上がる腕を、制止することもできずに、声を失う。真白い靄が思考を覆って、現状の理解を妨げる。なにが、起こっている?



「情けない顔をするな、我が王よ……。きみの願いは、これからでしょう」



 ヒトよりもずっと高い温度を持った少年の身体が、じわりじわりと冷えていく。それは、まるで別離へのカウントダウンのようだった。


 動き出した針は、もう止まらない。


 崩れ落ちる細い肢体を受け止めた体勢のまま、抱き締めることも出来ずに、いつになく冷たい少年を支えていた。両腕にかかる重さは馬鹿みたいに軽くて、幼き日から私を保護してきた彼の、小ささを知る。



「どう、して」



 彼は永遠を生きるのだと、いつか置いていかれるのは私の方だと、至極当然のように思い込んでいた。その日が来る前に、彼がもし望んでくれるのなら、あの懐かしい闇の中に囚われてもいいとさえ考えた。


 だが、この現実はなんだ?


 なぜ、貴方が散ろうとしている。永遠に近い時を彷徨ってきた、偉大なる存在が、どうしてちっぽけな人の王を庇う。



「ごめんね、ファントム。最期まで見届ける約束だったのに。ありがとう……僕を必要としてくれて。僕に理由をくれて……ありがとう」



 ゆっくりと頬をなぞる、冷たい指。



「僕の意志。僕の願い。なにひとつとして土に返してなどやるものか。僕は天上の民だ……空を追われ、地上に生きた天人だ……翼をもがれても、宙を舞うことをやめはしない」



 わずかに綻んだ彼の口元から、別離の言葉が零れ出す。



「待、……ッ!」



 永遠に近いような時をかけて、病的なまでに白く細い腕が、地に落ちていく。どんな芸術品でさえ足元にも及ばない、至高の美しさを纏った繊細な造作から、生命の色が失われていく。


 微笑みを浮かべた瞳には、表情をなくした私の滑稽な姿が映り込んで。

 やがて、それさえも映らないほどに深く澄み渡って、――消えた。


 あまりにも清廉な美しさに息を飲んだ直後、氷のような肢体が、砕け散る。

 舞い散る無数の粒子の中で、彼の声を聞いた。


 “叶うならもう一度――”



「あ、……っく、ぅ……あ、あぁあああああぁ!」



 あの日。私は、人ならざるものが死す瞬間を見た。この身を護り続けた神を、この腕の中で失った。




◆ それは尚も息づく power stone


 ――争いは長く続かなかった。


 彼が世を去っても、彼が私に与えたものはすべてこの世に残っていた。


 彼の言葉どおり、あのとき砕け散った彼の欠片は風に乗り、この土地に住まう生命の一部となった。今なお人々の中に息づいてその存在を主張する守護石の数々は、私の理想を叶える力となった。


 私の手中にただ一つ残った彼の欠片――まるで幻を封じ込めた宝石のような彼の心臓――いまや私の胸に収まったそれは、後に幻影石と名付けられた。


 この国の成り立ちを私がこうして綴るのは、彼を失い、託された理想を叶えた先の生涯を、抜け殻のように過ごしたことの贖罪なのかもしれない。


 彼に知られれば、怒られるだろうか、笑われるだろうか、それとも、何も思わず、あの妖艶でいて不敵な笑みを浮かべるのだろうか。


 この感情を表すのに相応しい言葉は、ついに生涯を通じても見つからなかった。私と彼の関係は、父子であり、兄弟であり、師弟であり、盟友であり――そのどれでもなかったのかもしれない。


 私は、彼の光になりたかった。

 あの男のように。


 いま思い出しても腹立たしい、あの日、あの瞬間、あの男。


 主人をなくして闇の晴れた庭の中心に、半身を地に沈めながら、それは囚われていた。男の身体の周りにだけ、鎖のように闇が巻きつき、蠢いていた。



「あれの力は、こんなものではなかった。片翼を失ったところで、なお私と渡り合うだけの力を有していた」



 言い訳めいた言葉を並べて自嘲した、美しい天の使い。

 彼の遺した戒めを解こうともせず私を見つめた、影ひとつない青い瞳。



「想像もつくまい。不変の檻に変化を――【永の闇】に時の流れを齎すことがどれほどの負担を強いるか。人の子には、決して」



 この期に及んで己の本心に気づこうともしない、涼しげな横顔。



「あわれなものよ」



 そう思うのなら飛び立てばいい。

 さっさと鎖を断ち切って、その美しい光翼を広げればいい。

 彼の闇に侵されきってしまう前に。


 天上では忌み嫌われた、彼の力の本質は変化であったという。凍りついた完全な世界の一機関でありながら、かつて彼を引き上げ、追放し、迎えにきた男にとって、彼は、シールは、どんな存在だったのか――。


 まるで無抵抗に己の咎を受け入れた男は、彼の遺した鎖にジワジワと蝕まれ、人間くさい感情の断片でも得たのだろうか。


 私には想像もつかない遥か高みから、彼を連れ戻すためだけに降り立った男にとって、彼を失ったこの世界は、全く無意味なものと成り果てたのか。


 私には理解しえなかった。


 あのときの私には、たとえ嘘でも、彼に与えられた多くのもの、そして道半ばの理想を、無意味なものとは見なせなかった。私にとっての世界は、彼によって齎された未来であり、彼とともに見つめた理想そのものであった。


 ただ、ゆっくりと闇に呑まれていったあの光が、最後の瞬間に見せた表情――砕け散る直前に彼が浮かべたものとそっくり同じ、芸術品のようでいてどこか満ち足りた微笑みが、脳裏に焼き付いて離れない。


 私に彼の本心はわからない。

 すべて本音で、すべて嘘なのではないかと思っていた。


 私は彼のことをなにもわかっていなかった。ときに彼は私を息子のように慈しんでみせたが、それはままごとのような拙い愛情にすぎなかった。


 彼の心をとらえていたのは、始めから最後まで、ただ一人の血を分けた兄の存在だったのだろう。彼らはまさしく一対の光陰であり、不器用に互いを愛し、かけがえのない唯一でありながら、あの結末を迎えた。


 どうしても私にはそれが許せなかった。

 決して私には割り入れない両者の関係が、嫉ましくも悲しく、腹立たしかった。


 たとえ彼の光が私ではなく、この世に私たちの相互関係を定義する言葉が存在せずとも、私と彼とを繋ぎとめるものが一つあるとすれば。


 後生大事に抱えこんだ、彼の最期の言葉にして、曰く。



  ――叶うならもう一度、きみの影になりたい――



 それでも彼は、私の影だった。

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