最終話「私、幸せになりました」
彼の物語は終わってしまったけれど私の物語の最後を少しだけ語りたいと思う。
誰もいない家の縁側で私は月を見上げる。
既に私の物でもなく、明日から取り壊しが決まっているこの家で最後の時を待っていた。
一週間前、彼が亡くなった。88歳、老衰だった。
今も鮮明に焼き付いている景色がいくつも私の頭の中で流れる。
綾乃が亡くなった時、彼は「俺より先に死んで欲しい」と言った。
葬儀の準備からずっと笑顔だった彼が唯一私にだけ見せた見せた本心だっただろう。
幾重にも重なった手の皺を撫でる。
ドラゴンである私は体の成長具合もゆっくりとだが望むままに変わる様で、彼と出会うまでの私は生きている実感にすら乏しかった。
だけど彼と暮らす様になって、結婚して、彼と寄り添う事を望んで身体も成長し、そして老いた。
「ソウタの願いは叶えられなかったね」
月に私は語りかける。この縁側で並んで過ごした幾夜を思い出しても私の隣には彼はいない。
彼が入退院を繰り返し始めたのは二年前、人間で考えればかなりの健康体だったのではないだろうか。
寝たきりになり、視力がおよそ何も見えなくなった彼はありがとうとごめんを同じだけ言っていた。
それでも彼は最期、この家で息を引き取る時に一滴の涙と一言のありがとうを残してくれた、それが私は嬉しかったんだ。
彼の最後の言葉がありがとうで良かったって。
毎年クリスマスにあげた手縫いのセーターや靴下を最後まで着てくれたよね、いくつもいくつも作ったのに、一着捨てる度にとても悲しい顔をしてくれたよね。
私はそんなソウタが本当に好きだったよ。
愛してるといつも言ってくれたよね、私も同じだけ言いたいのに君の方がいつも不意打ちしてくるから私の方が照れて言えなかったな。
子供は結局できなかったね、でもその分、綾乃の子や親戚の子に沢山甘やかして怒られたね。
一つ一つ、思い返していく。
その全てで彼は笑っている。出会った頃から何一つ変わらない笑顔。
優しくて優しくて、皺が増えるたびにその笑顔がますます素敵になっていった彼。
「ああ、死にたくないな」
私の記憶、彼との記憶が消えてしまう。
誰にも渡したくない私だけの宝物だけどそれが無くなってしまうのはとても悲しい。
神谷蒼太っていう世界一かっこいい人間がいたんだ。
ドラゴンに恋をして世界すら飛び越えて追っかけてくるような変な人だけど、私のとても大切な人なんだよ。
もうこの世界で私を知る人はいない。
そもそも私たち上界の者の死はいつか訪れ、それは自然と分かるものと伝えられている。
私も同じだ、彼が亡くなった時、私の生の終わりが来るのがわかった。
だからもう誰も私を知らない。
上界の者とは別れを済ませ、この家や遺産などはソウタの親戚に任せてある。
死にたくはない、いつか彼が誰からも忘れられてしまうのは悲しい。
しかし、私は彼のいなくなった世界で生きるのは無理だ。陳腐だが、死ぬよりも辛い。
魂ある者も、この世界も、上界も、全てがいつかは死ぬ。
ならば、私は最後まで彼を思い出す。
かっこいい彼、料理の上手だった彼、私の料理も美味しいといつも言ってくれた彼。
中年太りすらかっこいよく見えた。
大好きだった、今でも大好き。
大好きだといつまでも言ってくれた、今でもそうだと嬉しいな。
ねえ、ソウタ。
もしも、死後の世界があったら――なんて考えてもいいのかな
そうしたら幸せだな、なんて。
君はもう生まれ変わって誰かと恋をしてたりなんかしたら嫌だよ?
もしも、ソウタにおいつけたら…
その夜は落ちてきそうなほどに大きな満月だった。
縁側に腰かけた誰も知らない女性が光へ消えていくのを月と星々だけが見守っていた。
神様がいるとしたら、気まぐれにお戯れに興じるかもしれない。
そう、例えば、無数の花々が咲き乱れる場所で――
「ソウター!」
「レミアー!」
願い合う二人を引き合わせてくれるのかもしれない。
それとも、七夕の夜に『ずっと一緒にいたい』と願った彼の願いを何処かの星が聞いていたのかもしれない。
――END