三十八話「君との記憶」
水面の様な草原を少し高い丘から見下ろした。
視界いっぱいの緑の青草を踏み倒して歩く事に俺は一抹の罪悪感を覚えてしまう。
しかし天高く、一面のスカイブルーを輝かせる太陽の光を浴びた植物たちは柔らかな見た目とは裏腹にとてもエネルギーに満ち溢れている様で、俺の歩いたという足跡はすぐに立ち上がって消えていて、何事もなかったかの様に元通りの景色になっていた。
振り返れば俺が最初に降り立った丘は遠くに見え、「結構遠かったな」と実感する。
しかし、この場所を目指していた俺には他人事の近い実感でもあった。この場所、この一面の緑の中で灰色や茶色のくすんだ色が見えるこの場所に一歩一歩、足を進めるたびに近づいていく嬉しさ意外に感じるものはないのだ。
そうして辿り着いたこの場所。地上との隙間を綺麗に埋めていた空色は僅かにしか見えず、目の前には苔生した大きく丸い岩石がアーチ状に積まれ、その入り口であろう所に最も大きな岩で蓋をされている。
山をくり抜いたのか、元々こういう場所だったのか。中は洞窟の様になっているのか、水や食料はあるのか、そんな事を何一つ俺は知らない。
たった一つ、知らない世界の知らない場所で、たった一つ知っている事はここにレミアがいるという事だけだ。
「まるで天岩戸だな」
亀の甲羅を模した墓を亀甲墓という、沖縄あたりに伝わる古い伝統…とでもいうのだろうか。
諸説あるが、亀甲墓をその形にした由来は女性の胎内、つまり子宮に還る事で再び元気に生まれる様に…と鎮魂の意味がある。
話が変わってしまうけれど、天岩戸は日本の創世神話である古事記などに出てくる話だ。
国生みの神イザナミとイザナギの子であるアマテラスとスサノオの話。
天岩戸の話は太陽の神であるアマテラスがやりたい放題のスサノオの所業は甘やかした自分のせいでもある――と岩で閉ざした場所に隠れてしまい、明かりのなくなった世界には災厄が襲いかかり困った他の神々が何とかしてアマテラスに出てきて貰う。
そんな話。外野は文句ばっかり言っていざ居なくなってやっとその存在の大きさを感じ、慌てふためく――なんて如何にも日本人らしい話だと幼い頃に思った記憶がある。
ともあれ、その二つの事柄は今の俺の状況にはあまり関係は無い。ただ、昔に亀甲墓の存在を知った時に天岩戸はこんな見た目なのかなと思ったって事だけをなんとなく思い出しただけだ。
「レミア…」
彼女は神ではない、きっと彼女がこの岩を積んだ場所で引き篭もっていても世界の誰も困らない。しかし、俺にとってはレミアのいない世界など太陽が失われたに等しい。
そう思うと俺も立派に日本人なのだ。ずっといると思っていた誰かが消えてしまってから慌てて呼び戻しに来ているのだから。
「じゃあ、適当な時に来ますので…ああそれとソウタ、人類最後の日が分かるとした何が食べたいですか?」
「シルさん…何故に今それを?」
「うふふ?」
それはそれはいい笑顔の女性が俺のそばにいた。その表情にはもしもの時はお前に最後の晩餐を用意するから教えろという意味のとても素敵な笑顔だ。
レミアの姉であるシルさんは人間界にいる時よりも鱗や角などドラゴンっぽい部分をこの世界では見せていた。
完全にドラゴン形態になっても俺は今更気にしないのだが、シルさん曰く二足歩行の人間姿の方が楽らしい。
ドサドサとシルさんは担いでいた大きな荷物を置いて空へ向かって踏み込んだ。
「じゃあ、綾乃の得意料理って伝えてください」
「そう。では善処しますわ。 …ソウタ」
「はい」
「妹をお願いします」
「もちろん」
そうしてシルさんは大空へと消えていった。
「なーレミア手伝ってくれないか?」
俺はブルーシートを広げてシルさんに運んでもらった荷物をばらす。
呟きにはあまり意味などないのは知っている。だが、気付こうと思えば俺たちがこの草原に降り立った時から気付けるらしい。
せせらぐ草木の音が聞こえるほどここは静かだが、岩に閉ざされた奥は相当な泣き声が響いているそうだ。
それがシルさんの経験――つまり前回レミアがここで泣いていた時の事から知っているのか、それとも今の声が彼女に聞こえていたのかは俺にはわからない。
この上界という世界で俺の常識など全くの無意味だという事は個々に来る前に散々シルさんから聞いた。思い返せばシルさんや綾乃とたっぷり話す時間はあまり無かったな。
そんな事すらも俺はレミアがいなくなって初めて気づけた。恋は盲目というが本当にどうしようもないな。
後悔も自己嫌悪も叩けば叩くだけ出てくる、何より俺とレミアを挟む目の前の岩だって俺にはどうすることもできない。
俺は何しに来たかって言えば、彼女にこの岩を開けて貰えるまで待っているだけなのだ。
だけど俺にとってはその時間は幸せにすら思えてしまう。
――貴方の寿命など関係ないくらいの間、あの子は泣いている可能性だってありえますわよ。
シルさんは優しい人だ。人っていうかドラゴンだけど、ともあれ最後まで俺に諦めるという選択肢を与えながらもここまで協力をしてくれた。
きっとレミアが最優先なのは本当だろう、その中で俺に頼るという信頼がこの半年に生まれたのであればこんなに嬉しいことはない。
あのシルさんにお願いされたんだ。勿論、ここまで来て何も出来ませんでした、なんてつもりは毛頭無いが、彼女を帰りを待つ人が俺一人じゃ無い事が何よりも嬉しかった。
「レミア、今何しているんだ?寝てる、それとも泣いてる?」
俺はテントを組みながら岩に声をかける。全くもって頭のおかしい限りだ。
ただ最早、ここまで来てそんな事はどうでもいい。ここに他の誰かが来て俺を笑おうと、この様子がインターネット中継されて笑われていても、どうでもいい。
レミアの顔が見たい。あの小さな身体で震えているのなら抱きしめたい。
そんな事を考えながらテントを組み上げた俺はやっぱり頭がおかしいのだろう。
何をするわけでも無い、無限の様な時間がゆっくりと流れた。
この世界にも夜があるのだなーとかキャンプ用の小さな椅子に腰掛けながら見上げた空につぶやく。
森へ向かい薪を拾って腰程の高さのドラム缶に入れ火をつける用意をする。
ドラム缶は上蓋はなく底の近くに長方形に穴が空いていて、中は空洞だ。これは昔、家族でキャンプをする時の俺の愛用品だった。
乾いた枯葉を底に敷き大きめの薪を数本、中の空間を意識して配置してふりかける様に枯葉さらに上から少し乗せる。
底近くに空いた穴からチャッカマンの先端を差し込みトリガーを引く。パチパチと軽い音を立てて上部からは灰黒い煙が立ち上がる。
音が徐々にメキメキとかコチッコチッと太くなり、時たまにパキン!と爆ぜる様になったらゆっくりと下から団扇で仰ぐ。
パキパキパキパキと連続した音やボウッボウッと空気が焼ける音がしたら完全に火のついた合図。焚き火の出来上がりだ。
ふう、と息を吐きながら真っ赤に揺らぐ炎を眺めて俺は再び椅子に座りなおした。
その頃には明かりと呼べるものはテントに吊るしたランタンと焚き火だけになり、代わりに空を見上げると銀色のパウダースノーが今にも落ちて来そうなくらい一面に広がっていた。
「わぁ…!」
思わず声が漏れてしまうほど美しい星空だ。こんな星空を見たのは夏以来だった。
あの時は…そうレミアと一緒に見上げた空だった、ドラゴン姿のレミアの背に乗って高高度から空を見て、そして地上の明かりを見たっけか。
俺にとってキャンプで一番楽しい時間は夜だった。みんな寝静まってから一人でバーベキューコンロに残った火やこうして焚き火を起こして空を見上げる何にもない時間が大好きだ。
小学生の頃から変わらない俺は今も焚き火の様子を見ながら何でもない時間に浸っていた。
つい最近、無理矢理だが中学時代のことを思い出したせいかこれまで生きていた記憶が湧いてくる。なんでも無い学校生活、いつも通りだと思っていた景色や会話が今はもう無くなった物だと思うと寂しい。
「レミア、聞いてくれないか俺の昔話をさ。そうだな…あれは小2の頃――」
昔からそうだ。火を見つめ星空を見上げる時、俺はいつもこれまでの事を無意識の中から拾い上げて色々思い返していたのだ。
燃える火に心の中で吐露する事で焼き捨てる様に。でも今日はもしかしたら聞いてくれる人がいるかもしれない。俺の焚き火に付き合ってくれる人はこれまでいなかったが、今日はもしかして――。
返事は無い。反応など何一つない。だけどどうせ誰もいない世界だし別にいいだろう。
それでも不思議と彼女なら聞いていてくれる気がしたんだ。
◆◇◆◇◆
私は泣いている。びゃーびゃーと言葉にならない声をあげて泣いている。
喉が裏返しになってもおかしくないくらい呼吸を忘れ、泣いて嗚咽を漏らしての繰り返し。
理性がどうとか、思考がどうとか、もう何も関係ない。
ただただ湧き上がるものをぶちまけているだけ。昔と何も変わらず。
人間に似せただけで体の構造はだいぶ異なる私たちはいくら泣いて身体の水分がなくなろうと、喉を潰して泣いて呼吸を忘れようと死ぬ事はない。
だからこそ辛い。身体を何回も引き裂かれた感覚が襲って来て、その波が引いたと思えば今度は記憶の波が来る。
真っ白な脳内に浮かぶのは辛い記憶ではなく楽しかった記憶だ。もう決して届かない温もりの記憶は内から貫く刃だ。そしてまた身体に波が帰って来る、記憶とはまた違うところから私は苦しみを覚えるの。
ただただその苦しみに私は泣くだけ、この疼きが枯れ果てるまで私はそうするしかない。
前回と違うのは私が壊してしまったという事だ。
裏切られた時は人のせいに出来た、それでも時間はかかった。
今度はどれくらい泣くのだろう。
ソウタ――ソウタ――ソウタ――。
彼の名前が幾度も過ぎる。あの悪魔と彼の会話が何度も何度も繰り返される。
彼は言った、私の手を取ると…誰かが側にいないと辛いだろうと。
彼は言った、来年も花火を見ようと…そしてその前にもう直ぐやって来る冬に色々しようと。
冬、か…結局彼には何も残せなかったな…。
私は泣き続ける。自分が枯れ果てるまで、前と同じ様にここで泣き続ける。
何度だって彼の手を取る事はできた。そもそもきっかけだって些細な事だ。
ただ私は寂しかったんだ。いつだって大事な時には彼が側にいたのに、それでも私は貪欲に求めてしまった。せめてそれを言葉にしていればもう少し違った…まだ彼の側にいる未来があったかもしれないのに…それすら手放してしまった。
百年でも先年でも泣き続けよう。彼がいなくなった頃合いに目覚められたらいいな。
でも…私の知らないところで彼が生きて、そして死ぬのかぁ…。
それは――悲しいな。
きっと私の頰どころか身体中から体液という体液が溢れているだろう。
ぐつぐつと湧き上がる感情に任せて私はゆっくりと眠りに――
ぱちぱち。
ぱちぱちぱちぱちり、ぱきん。
私の声はもう私には届いていないはず。
蒐集の林はもう誰も寄り付かない私の秘密の場所のはず。
誰からも忘れ去られた誰も知られない自然が死んでは生きていく場所のはず。
――なのに何故、謎の音がこうも私に響く?
「レミア、聞いてくれないか?」
どくん、胸が鳴った。自意識を心の奥底に沈めかけていたはずの私が急速に浮上した。
――ソウタがそこに居る…?
ついぞ私はおかしくなったと思った。私とて私自身が抑えられない大泣きを鎮めるのは二回目で、経験があるだけで多くはない。
前回とは状況も原因も全く違う。
だから今回は私のせいだから、諦められず幻聴が聞こえるのだと思った。
おかしくなった…と。
だがそれは違った。いつのまにか私は息を殺し、声を殺し、あれだけ溢れていた涙も忘れ岩の外側に意識を向けていた。
(彼がそこにいる!?)
それに気付いた時、私の胸は高鳴った。ファンファーレと言っても過言ではないほどに甲高い音に思えた。
無意識に頰が綻ぶ、あんなにぐちゃぐちゃだったはずの顔が心がすっきりとしていくのがわかった。
この岩一枚、たったそれだけの物を越えれば彼にまた会えると思うと嬉しかった、嬉しくて嬉しくて涙が出そうだ。
「だけどね、嬉しいけどね。駄目だよ。」
私は誰にかけるでもない言葉を漏らす。心の底から彼がここまで来てくれた事が嬉しくて仕方なかった。
だけど駄目。私はまた繰り返す、きっと彼を幸せにはしてあげられない。
またこうして彼に迷惑をかけて、そんな自分が嫌になるんだ。だからソウタ、早く帰って人間界で人間と人生を歩んで
「私じゃない誰かと…しあ…幸せに………なんて嫌だよ…」
結局私は泣いてしまう。咽び泣くのではなく、静かに声を殺しながら泣いた。
感情に任せて泣いてしまうと彼の声が聞こえなくなってしまうから。
もう少しだけ、もう少しだけ、彼が諦めるまではその声を聴きたい…。
そうして私は明かりの一つない洞窟で岩の壁にもたれかかって彼の声をいつまでも聞いているのだった。
◆◇◆◇◆◇