三十六話「錯綜混ざりて色無し」
身を引き裂かれるような声を聞いた。自分にとってそれは一番恐れていたし、そうはさせたくなかった。
遠く微かに浮かぶ笑顔。俺はそれが大好きで、相反する悲しげな顔など見たくなかった。
――その顔を俺がさせてしまったなど…思いたくもなかった。
「…ミア…」
あれ、なんでこんな事を思ったんだ?
忘れたくない彼女の名前が頭の中で気持ち悪いほどぼやける。
誰だ?何故誰かがこんなに悲しんでいる?
「――タ――ソ――タ――」
脳裏の影が薄くなっていく。何故か俺はその影は消えてはいけないと必死に手を伸ばす。
だがそれは距離が離れて行く一方でついに見えなくなって…
「ソウタ!」
「ん…んん…?」
「神谷!」
まどろむ意識がゆっくりと目覚めて――
「いってぇ!」
行くことはなく一瞬で覚醒した。
頭部に走る衝撃、ぐらぐらと頭を揺らして少しオーバーに反応してしまう。
五感の中で一番先に反応したのは嗅覚だった。
ニスの匂いや牛乳の匂い、混沌といくつもの制汗剤のまざった匂い。生乾きの様な木の香り。
「そこまで強く叩いてないぞ。お前なぁ、昼食空けで四時間目が体育だったのは分かるがこうも堂々と寝られると先生辛いぞ」
「すみません」
声の濁流…と言ってしまうと汚く思えてしまうがそれほど嫌なものではなく、快活に笑う幾人もの声が教室中に響き渡り、笑われている張本人の俺はそれでもやはりバツが悪い。
数学の西野先生ははぁ、と俺の傍らで一息こぼして黒板の方へと歩いて行った。
「じゃあ、今野!問い2の答えを答えろ。神谷、今は教科書23ページの大きな1の問題だからな」
西野は誰しもが「え、先生は体育教師じゃないの?」と言ってしまうほど体格の良い無精髭のおっさんだ。
学校教師というのはおばさんやおっさんの教師には中々に生徒からの目線はシビアで好かれるかどうかはかなりはっきりと別れてしまう。
その中ではさばさばとした性格の西野は無精髭のおっさんの割には生徒の人望も厚く、人気な部類の先生だと俺は思っている。
若い先生も先生で舐められたり、なにより保護者の風当たりが強かったりして大変なのだが。
実家の職業柄、大人と接する機会の多い俺は周囲の生徒――つまりは友達の態度をわかりつつも、大人の気苦労も理解できたからなんともこの頃は微妙な気持ちだった。
こういうとある種の厨二病というか斜に構えた変なやつだったかもしれない。
ん、だった?
「変だな。まだ寝ぼけているのかな」
過去形にするのはおかしいだろ、何故ならまだ中学に入学して一ヶ月強の五月ゴールデンウィーク明けなんだから。
「大丈夫?陽当たりちょうどいいものねん。一列ズレただけでそっちは天国、こっちは足の肌寒さをかんじるわ。」
隣の女子が西野に見つからない様に小声で声を掛けてきた。
まだ春の寒さの中に僅かに夏の香りを感じる五時間目、気温はその日最高に差し掛かり昼寝にはとても心地良い時間だ。
他の女子を見ると大体が椅子の背もたれにセーターを掛けているが隣の女子はブレザーの上からセーター、膝には毛布と完全防寒の構え。
いや、彼女の椅子の背もたれにはマフラーらしきものがかかっているからまだ進化は残しているのか。
「えっと、ごめん誰?」
正直隣の防寒事情などどうでもよかった。下り始めた黄金色の陽だまりが机の半分を埋めていて、セーターに毛布なんかあったら最高のシエスタ第2回戦を行えそうだと考えたが、やはりそんなことは些細な、どうでもいい事で。
そんな事よりも俺は隣の女子の顔を――艶めくロングの黒髪に夜空を切り抜いた様な深い紫色の瞳をした、制服が似合いすぎてどこぞのモデルのコスプレにすら見えてしまう様な美しい女子を見た事などなかったからだ。
「えー何言ってるの?それとも寝ぼけてるの?小学校よりも前から知ってる仲じゃないのよん」
「え?あ――ドナか」
ああ、そうだ。ドナだ、幼稚園の頃に隣の家に引っ越して着て同い年のドナか。
知らないわけがないじゃないか、おかしいな俺。
「悪い、ドナの言う通り寝ぼけているな」
「気にしない、気にしなーい」
そう言って俺は外の景色を覗く。
遠くには山々が瑞々しく青く染まり、新たな芽達が軽やかに、しかし確かに息づいている。
空は高く、雲は白く、まだ柔らかくとも確かに日差しは照りつけていて。
校庭では幾人もの生徒が走り回っていて、短距離走でも行なっているのか電子ブザーのびびーという音が人の声を掻き分け響き渡っている。
学校近郊に見える人々もまた思い思いに生きている筈だ、流れる無数の車も自転車も、歩道を歩く人も駆け回る子供も皆、等しく。
なのに、なのに何故だろう。
全てがハリボテというか、昨日までと今日が繋がらない様な。そんな違和感が胸の隅を突くのだ。
『俺の現実も、俺の夢も、いつか考えたもしもとも全て違う』
何故かその言葉が浮かんで恐ろしくしっくりくる。
未だに眠っていてひどい悪夢を見させられている――そんな気がして仕方がない。
そんなふわふわしたもどかしさを抱えながら受けた授業は何一つ頭に入らなかった。
何かがすっぽりと抜け落ちた気がする。
いつも通りドナと一緒に学校から帰って、俺は自分の部屋で転がっていた。
母さんに「飯食ってきたから」と嘘をついて。
両親の顔も実家の弁当屋のパートさん達の顔も何故か見たくなかった。
――形成していく自意識と夢見がちな幼児性が招く…
ラノベの中二病の説明にそんな言葉があった気がする。
さながら、自分は特別だと思い込んで自分で自分を偽ってこれは違うと思い込んでいるのか?
だとしたらかなりやばいな。この世界は違う、俺のいた世界じゃない!とか、ありがちな異世界勇者様だ、それを自分に当てはめてしまっているという事だろう?
いや、本当にやばい気がする。
制服の襟カラーが鬱陶しくて、着たこともないのにこれならスーツがいいと思ったりもしたのだから。
俺は昔から大人に「大人っぽいね」とよく言われた。その言葉が嫌だったわけではないが、あまり嬉しくもなかった。
言葉は不完全だ、少なくとも完全に使えてる人間はそうはいない。
例えば「大人っぽいね」という言葉は「その歳の割には大人っぽいね」が正しい。
端折りすぎだ。大人の自由を羨んで憧れている子供がそんな言葉を聞けば勘違いもしてしまうだろう。
ただ「その歳の割には」なんて言われたら嫌味にすら聞こえる人もいる。
結局、悪意や嫌味など思っていなくても自分の真意を完全に伝えることは不可能、ならば無責任でも聴き心地がいい方を選ぶのが自然。
そう言えば少なくとも嫌われる事がない、あるいは嫌われにくい、ならばそれは相手のためにはならなくとも自分の得にはなるから。
そこまで考えるとやはり俺は、斜に構えた人間なのかもしれない。
大人っぽい、落ち着いてると自分に理由も思い当たる事柄もなく言われると、返って自分の幼児性を感じてしまうからだ。
まだまだそう言われるには足りない人間だな――と。
軽口は軽口と捉えればすむ話でもあるけれど俺はそういう一言が気になる事が多かった。
思考が右往左往する。結論として結論は無い。
ただ整理すると、「自分を子供だと少なくとも自覚している筈」なのに「中学にいる事に違和感を感じてしまう」と。
それ以前にクラスメイトの友達も、両親の顔ですら何か違う気がすると。
まるで自分はもう卒業しているかのような。
「意味わかんねえ…」
ぐちゃぐちゃの思考に疲れたのか眠くなってきたので押し入れから布団を取り出し、適当に広げて転がって、改めて結論の出ない思いにふけるのだった。
灯りもつけていない部屋は瞬く間に真っ暗になり、部屋の小窓からは大きな月がはっきりとしかし、朧げに佇んでいた。
「おはよんソウタ!」
「なあドナ、やっぱり俺達毎朝一緒に登校なんてしてなかったと思うんだが」
変な違和感を覚えてから3日、未だにその違和感は拭えずにいた。
自分の記憶が悉く否定されていくというのは案外辛いもので、本当に違う世界に来たのではないかと思って…いや確信してしまいそうになる程、寂しいものだった。
厨二病とか、そんなギリギリ笑って終わらせられるレベルではなく、ダンプに轢かれて記憶障害を引き起こしていると言われると納得できてしまうレベルだ。
なにより、俺の頭、思考の変化など俺自身が何一つ自覚がなく、以前と変わらないのがうすら怖い。
「もうー、最近変だよ?それとも私と行きたくなくなったの?」
「あ、いや、悪いそういうんじゃないんだ」
「うふふ、それならよかったわ。 …ね、私はソウタ好きよ、だから良かった」
彼女は、俺の隣の家に住む幼馴染は、その言葉を笑顔で締めた。
その笑顔に胸が打つ。引き込まれてしまいそうな笑顔。
カワイイ――。
「急に何言いだすんだ、いくぞバカ」
「ひどーい、本気なのにー」
とても美しいドナの笑顔。だが、俺が知ってる誰かの笑顔とは全然違う、太陽でも向日葵でもなく、その笑顔は月であり紫陽花。
しかし、俺はその誰かの笑顔を知らないという矛盾が胸を締め付ける。
太陽のような、向日葵のような、突き抜けるどこまでも綺麗な笑顔を覚えてもいないし、知らない。幼稚園の時の恋心を思い出す感覚が近い、何を言って何を思ったかは思い出せないけれど、確かに好きだなんだとやっていた事だけは覚えている様な。
だが、だけど、確かにこの胸の違和感が正しくて、朧げだけど何よりも美しく思える…そんな笑顔があったとしたら、俺はその子にどんな想いを抱くのだろう。
土日を挟んで、週明けの月曜日の朝は曇り空だった。
午後には降り出しそうな分厚い雲で、少し早い梅雨の訪れにも見える。
違和感を感じる様になって10日も経てば流石にその違和感も薄くなっていた。薄くというか、違和感を感じる事柄全てが否定され、立つ角が折れ尽くして丸くなった、と言った感じだろうか。
きっと新しい学校で、新しい教室で、新しい友達で、そんな浮き足立った四月から一ヶ月強が経って、浮き足立った空気感が落ち着いて微妙なテンションにでもなっていたのだと思う。
五月病と厨二病のまぜるな危険化学反応。
俺は俺の違和感をそんな風に思い、過去のものにしようとしていた。
今日は日直当番ということもあり早めに登校している。べつに日直の仕事などそう多くはないし、どちらかといえば日誌や帰りのホームルームまでに明日の時間割を黒板に書いたりとか、午後の方が忙しいくらいなもので、早く来る必要など全くない。
ただ、単純に家に居ても何故か何もやる気が起きなくて、変に早く寝る癖がついて当たり前に早く目覚めたから手持ち無沙汰に早めに来ただけの話。
「ふあ…ぁ…」
朝7時過ぎ、登校時間ではあるがこの時間に学校に来る生徒は稀で、部活の朝練を除けば机の中に宿題を忘れて朝イチでやる真面目な子くらいだ。
特に理由もなく朝、いの一番に来ている生徒なんて逆に怖いな。俺なのだが。
がらららと扉が音を立て、開かれる。全く思ったこともないのに未だに感じる教室の独特な香りが…いや、これは花の香り?
「きゃっ」
「わっ――」
「いつつ…ごめん!大丈夫…」
目を開くと眼前にあったのは唇。薄い桜色の小さな唇に思わず息を飲んでしまう。
誰も居ないだろうと前をあまり意識せずにいた俺は誰かとぶつかった、とっさに見えた花瓶をなんとか掴んだは良かったものの、バランスを崩して倒れ込んでしまった。
花瓶を掴んでいる右手を浮かせたまま、左肘が床に着き――そして俺の真下に女子の身体が。
つまりは覆いかぶさる形で倒れてしまったのだ。
一瞬、目があった。吸血鬼に描かれる妖しく赤い瞳だった。
長い銀の髪が乱暴に広がって、思わず見惚れてしまう。
今この瞬間だけを見れば、花瓶という鈍器を手に女子を押し倒して乱暴しようとしている様にしか見えないが。
ふるふると小刻みに肩が震えだした女子。
宝石の瞳に目を奪われてしまったが、その頰も紅潮していて吐息も熱い。
「わっ悪い!大丈夫か?」
見惚れている場合でもなければ、呆けている場合でもなく、俺は飛び跳ねる様に女子の上から身体を退ける。
胸を軽く小突いて落ち着け、改めて手を伸ばす。
彼女の小さな手が俺の手の上まで来て、それを掴もうと俺は指を回す――が。
「――っ」
「ちょっと待って…」
俺の手を避ける様に直前で結ばれた拳と共に女子は逃げていった。
手にした花瓶のやり場に困りながら立ち竦む。
「水島…水島!」
ふと誰かの名前が浮かび上がるが、
「水島って誰だ?」
俺はその名前も知らなかった。加えて、知らない名前なのに水島はあの子ではないと確信がもてた。
「どうなってんだ…」
廊下の水道で花瓶の水を入れ替えて、棚の上に置くと俺は頭を抱えて机で伏せて一時限目を待った。
「なぁ、ドナ」
「なんですか?」
「あの一番前の廊下側のあの子って名前なんだっけ」
「んん…あーあの子には関わらない方がいいよん」
「なんだそれ」
何故だろう、一瞬だけドナの表情が鋭く冷たく見えた。
「あの子、変だもの。みんな喋ったことないって、何考えてるかわからないって言ってるもの」
『あいつ?やめときなって神谷も変な奴だと思われちまうぜ』
――なんだ?この声は。
「だから関わらない方がいい?意味わかんねえ」
「ソウタも他のみんなから変な奴だと思われるからやめときなって言ってるのよん」
「おい、ドナ!」
ぴりりと耳が鳴る。それは俺の大きな声に教室中に訪れた静寂がもたらす耳鳴りだった。
視線が一斉に俺へと向けられる。真っ黒な冷たい視線が俺に。
「そんな言い方はないだろ」
「ちょ、ソウタどうしたの、ほら…みんなてるわよん…」
「だからって――」
「そうだぞソウタ、少し聞こえたけどドナはお前を思ってだな」
諭すようなドナの言葉に続いたのは誰よりも言わないであろう、歩く清潔感、爽やか太陽と(俺が勝手に呼んでいる)漫画のキャラみたいな男がそれに同調したのだ。
それが前の席に座る幸樹の事なのだが、小学校から知っている幸樹という人間はこういう誰かを除け者にする様なことは嫌いだったはずなのに…。
軋む音がする。心がガリガリと削られる音がする。
別にクラス全員に好かれたい訳ではない、嫌われるのはそりゃ嬉しくはないけれど嫌われないことは不可能なのだから。
それならば俺は俺の大切にしていることを貫きたい。8人が1人を除け者にするのなら俺はたった一人だとしても一人のそばにいたい。
だって、そうだろう?誰かが手を伸ばした時に誰もいないなんて――寂しいじゃないか。
だから別に本意ではなくてもクラスで浮くのは許容できる、だが、誰にも優しく誰よりも優しかった幸樹が他のみんなと同じ顔をするのは全く違う。
世界が変わったか、人が変わったか、そう信じたくなるほど受け入れられない現実が目の前にあった。
黒い目。泥々した気持ち悪い視線。お前がおかしいと無言で叩きつけてくる視線。
「あああああああああああああ」
「ちょっとソウタ!」
俺は逃げ出していた。
どこで何をしていたのだろうか。一心不乱に心を無にして、受け入れられない現実を思考に入れない様にしていたらいつのまにか放課後になっていた。
赤黒い夕陽が射した図書室の隅に俺はいる。
正直、心が崩れてしまった。砕けてしまった。
薄れていた違和感が溢れ出して止まらない。世界中から自分の居場所がなくなった気がする。
それでも俺は間違っていないと思い続けていた。間違えていたとしたら俺のドナや幸樹に対する認識だろう。
「あんな奴だったのか…」
ただ、それなのに何故か安堵に似た気持ちが自分の中に何故かあるのだ。
何もせず俺もあの女子とは関わらない選択をすればいいだけ…と悪魔の声が囁いている。
遠く沈む太陽。茜色の逢魔時。夕陽が目を撫で、俺は瞬間に目を閉ざす。
デジャブがよぎる。俺の座る椅子の隣に座る誰かがいた様なそんな事があった気がした。
知らない川沿いの道で、俺が運転して隣に彼女が座っていて…あれ…なんでその子はあんなに寂しげな瞳で夕陽を見つめているんだ――?
グリーンフラッシュという景色が世界のどこかにはあるという、沈み行く太陽が水平線に重なる一瞬、緑の光が見えるという。
何故だろうか、俺の脳裏には笑って笑って拗ねて怒って笑ってそして――泣いていた誰かの表情が連続性のないフィルム映像の如く流れていた。
「とうとうおかしくなったかな…」
覚えのない表情の主人、ぼやけた記憶に懐かしさすら覚える。もう無くなってしまった光景の様で、涙が溢れた。
「…あの…」
クイクイと優しく存在を主張する様に袖を引かれた。
拭っていた手をどかして瞼を開くとそこには朝に会ったクラスメートの彼女がいた。銀髪に赤目の…人形かと思ってしまうほど可愛い女子が、目を伏せながら立っていた。
「ん…悪い、えっと何?」
「ん」
小さな声と共に彼女は図書室正面の黒板のそばに掛けられた時計を指差した。
時刻は18時前、図書室を閉める時間だから出て行けという事だろう。
「ああ、こんな時間か…ね、君名前はなんていうの?」
「…え…あの…えっと」
「嫌…だったかな」
「あの…もう関わらなくていい…よ…」
そう言って彼女は図書室の外へと走っていった。
「そっか…」
余計なお世話、いらないお節介か。
まぁ、仕方ない。
俺は鞄を手に図書室を出ると…戻って机の上にあった鍵を閉め、職員室で持って行って帰った。
夕方になった。学校をサボって3日目の夕方になった。
時間の感覚などとうになく、寝て寝て寝ていて起きていた束の間の記憶で多分3日目くらいだろう。
そんな感じ。腹も空かないから両親とも顔を合わせていない。もっと言えばはっきりと顔を最後に見たのはいつだったか…もうわからない。
微睡む意識の中で俺は必死に記憶を呼び起こしていた。去年まで何してたとか、ドナという幼馴染との記憶とかを必死に。
だが何一つ結びつかない、気を抜くと不意に今が現実なんだと飲み込んでしまいそうな感覚になってその度に眠った。
「なんなんだこれ…」
そう何度も呟いた言葉をうわ言の様に漏らした時だった。
コンコン。
俺の返事を待たずに部屋の引き戸が開かれ、そこにはドナが立っている。
俺は睨む様に目元に力を込めるとそれを見たドナはてへへと頬を搔く。
「あの…ね、ソウタ私も言い方が悪かったわよねん。謝るわ。でもそれはソウタが心配で…」
――私、ソウタが好きだから…さ。
そう彼女は言葉を紡いだのだった。
「ぷっ…あはははははははは!」
「な――!なによん、人の精一杯の告白をそんな笑うなんて!」
「なぁ、ドナ…お前は誰だ」
俺はその言葉に吹っ切れた。彼女の言葉など待たない、俺が聞きたいのはそんな嘘じゃない。
「…何それ。また頭がおかしくなったの」
「おかしくもなるさ、こんな変なところに二週間もいるんだからな」
「ソウタ…本当に大丈夫?クラスのみんなも心配してたわ、何も気にしないで普通に過ごしていれば誰もあんな事忘れるわよ」
「お前は誰だって聞いてるんだ」
「はぁ、私はあなたの幼馴染の…」
「俺の幼馴染はな、歳下の癖にどこかお姉さんっぽく振る舞いたくて時々本当に恐ろしいくらい大人に見える…そういう奴だよ。間違っていればはっきり言ってきて、迷っていたら背中を押してくれる。お節介で優しい奴だよ」
「……」
彼女は何も言わない。ただ冷たい目でこちらを覗いている。
「昔な、中学卒業くらいの時だったか、俺に彼女が出来ない事を恥ずかしながら本気で悩んでいて、そいつに相談したんだよ。本当何をとち狂ったかそんな話をしているうちに好きだなって思って告白したんだ…そしたらさ、あいつ…」
『何言ってるの、私は今の蒼君なんて絶対に惚れないよ』
ああ、そうだあいつは…綾乃はそう言ってしっかりしろって言ってくれたんだっけか。
もしも、もしもがあるのなら俺は今の20歳を超えた綾乃になら本気で恋ができたのかもな。だが、それはもしもだ。だって俺はレミアを…
「…レミア。そうだレミアだ、綾乃とレミアやシルさんはどうした」
「ここは貴方の夢が叶う場所よ、あなたが望んだ世界の筈よ!なのになんで!」
ああ、もしかしたらそういう事か。
水島がレミアで、レミアが同学年で、俺が水島を…なるほど。確かに。
「いつだったか確かに考えたことはあるよ、レミアとああやって同じ教室で過ごせたらなって。そして水島に俺は余計な事をしたんじゃないかってな」
水島という女子が中一のクラスメイトだった。
口数が少なく、四月の後半から長めの風邪をひいて学校も休んでしまった為、急速に形成されていくクラスの輪から少し外れてしまって誰もが遠巻きに見つめていた。
偶々早く登校した朝に花瓶の水を変えて、優しく花に笑いかけていた水島の姿を見た俺はそれから、ちょくちょく話しかける様になったのだ。
最初こそやめときなって、と言われることもあったが、それに一番の協力をしてくれたのが幸樹だった。俺がクラスで浮くこともなく、水島も彼女なりに明るく話す相手が出来たのは結局は幸樹のお陰で、その結果に俺も満足していた。
ただ偶に考えていた、その後同じ中学で三年間過ごす水島を見て、俺の行為は余計なお世話でありありがた迷惑だったのでは?と。
別に俺が何かしなくとももっと普通にクラスの中で居場所を見つけられたのでは?と、考えた事があった。
それこそ幸樹がいなかったら、俺のやり方ではただ悪目立ちして、一歩間違えたら悲しい結末になっていたかもしれない。
――俺の夢が叶う場所。
レミアと過ごす学生時代のもしも。
俺が水島に声をかけないもしも。
もしかしたら、幼馴染から告白されるという『もしも』も含まれているのかもしれない。
そんな複数のもしもが噛み合った世界なのか。
水島がレミアに代わってレミアと同じ教室で過ごして、水島の件に幸樹からもやめとけと言われて水島に関わらないという世界。
「ここがどういう世界なのかはわかった。正直言えば、何一つわからないけど、お前のいう事は少しだけわかった。だがそんな事はどうでもいい、レミアは風邪をひいていたんだ早く元の世界に戻してくれ」
冷静に、と自分を心の内でたしなめるが、声には怒気が篭る。
正直、ぽっかりと空いていた胸にレミアの事がはまった瞬間からはちきれそうで仕方がないのだ。
「ここは人間の夢を見せる、誰もがどんなに焦がれても辿り着けない筈の世界よ!それなのになんでお前は甘受しない!幾度この世界を認めようとしても何故拒否する!」
「なんでって言われてもな…あんな張りぼての人間見てはいそうですかとはならないだろ。少し前に老けたなって思った両親の顔が十年弱も若い顔しているんだぞ?気持ち悪くて仕方がない」
「そういう問題ではない!真実の愛が無い限りこの闇に落ちるのが人間だ。お前は知らないがレミアがお前を拒否しているのに何故!何故!何故!」
「ああ、そっか」
図書室で水島に置き換わったレミアは言った「関わらなくていいよ」と、だが本当は中2の秋頃だったか、偶々図書室で居眠りをした俺を水島が起こして「ありがとう」と小さく呟いて友達に呼ばれて行ってしまった。
そんな事があったと今思い出す。関わらなくていいよと言った、あの言葉は俺の記憶の水島のものではなくレミアの言葉だったのだ。
「真実の愛なんてわからないけど、恥ずかしい事を言うのであれば、俺は過去も夢も今はどうでもいいんだよ。あいつと…レミアと暮らす未来を夢ではなく目標として生きているってだけだ。だからレミアを返せ、元の世界に返せ、いつも言葉は足らないし元気そうな振りをして辛そうな顔をするし、無駄に気を使って使ってない様に振舞って、影で泣いて、それでも俺と一緒に笑ってくれる…俺の惚れた女を返せ。言ってやりたい事がごまんとあるんだ。」
ここで過ごした時間の無駄さにふつふつと怒りに近い感情が湧き上がる。
こうしている今も、レミアの体がどうなっているのかわからない事が一番の理気掛かりだ。
それでも、目の前にいるドナという誰かは冷ややかだった。
凍りついてるとすら感じるほど、温もりのない暗い瞳でこちらを覗く。
「ここから出たとしてもあいつは逃げるわよ、あなたも言われた様に彼女はもう貴方と関わる事を拒絶したの。その事は紛れも無い事実よ」
「それはきっとそうなんだろうさ。」
ああ、俺もついさっきそのことには気付いた。関わらなくていいよ、と言った彼女の言葉は事実であると俺自身も確信できるさ。
「――だが、それはレミアだけの言葉だ。あいつが言ったからはいそうですかなんて、納得いくわけがないだろ。俺はあいつに何も言えてないじゃないか」
「言うも何もないわよ、さっきも言ったけどあの子はずっとここで貴方とのことを後悔していたわ。この夢を覚ましても貴方と言葉も交わすことなくあの子はまた逃げて、そして閉じこもって泣くのよ。 …昔と同じ様に」
「だからなんだ」
「なんだって何? あの子は貴方には二度と手の届かない場所へ行くわ、だからこのまま忘れて普通に生きなさい。あの子が望んでいる事はそれだけよ」
「…お前の言ってる事は事実だろうよ、正論でもあるのだろうよ。だがな、間違っていても普通じゃなくても俺は今このままあいつの手を話す事はできねえよ。倒れてあいつはその昔のように泣くのに側に俺がいなくてどうすんだ」
「何を言うの、そんなの貴方である必要はないわよ」
「そうかもな、実際、あいつが何処かに行って泣いた時には俺はあの家族思いの姉さんに殺されるだろうし。 それでも俺はあいつが俺の手を本気で払うまではどこまでもあいつの幸せにする選択を選ぶ。」
「それは押し付けよ、そして目を背けているだけだわ。あの子は貴方の手ではなく私の手を選んだの、貴方を決別するためにね」
「…早く元の世界へ返せ」
「だめよ。まだ貴方はレミアの記憶を握っているもの」
「レミアは今、風邪をひいているんだ、俺はシルさんからよろしくと言われたんだ」
「忘れなさい、貴方の意思じゃどうにも届かない世界の住人のことは忘れて生きるのよ」
「来年も花火を見ようと夏に言ったんだ…だけどその前にまだ冬のイベントも沢山あいつと――」
「未練がましいわよ、認めなさい。貴方はレミアに要らないと…」
「お前の口から聞いたことなんて何も意味なんかないんだよ」
「なにそれ。」
正に言葉を吐き捨てた。ゴミを見る目でこちらを覗くドナ。
どこまでも冷淡な目の前のドナに対し、俺はもう怒りで視界が定まらない。
焦り混ざりの憤り、そしてレミアに対しても怒りが湧く。
そして燃え上がる思考がたどり着いた結論は俺の至らなさだ。
カッコつけるために、彼女を驚かせたくて、そして自信がなくて言葉の足らなかった自分に怒りが湧く。
――言わなきゃいけない事がある。
あいつに言いたい言葉が無数にあるんだ。…だから、だから、こんな無駄な時間はいち早く切り上げたい。
あいつの言葉でないと意味なんてない。俺が聞きたいのはたった一人、誰でも代弁などできないレミアの思いなのだ。
「馬鹿じゃないの。貴方はただ逃げているだけよ、そしてあの子もね。貴方もあの子もただの拠り所が欲しかっただけよ!それをただ適当に恋だの愛だのと名前をつけただけなのよ!」
「それがなんだ、俺はレミアと居たい。あのバカに付き合っていられるバカは俺だけでいい。俺がいいんだ」
「なによ…なんなのよ…腹立つわ…お前ら人間はどうせまたあいつを――!」
『そこまで、ですわよ』
知っている声が部屋中に響いた。
その異変をはっきりと認識するよりも早く、目の前の視界が真っ二つに裂けていく。
「それ以上は貴方の越権行為、存在そのものに関わりますわよ」
瞬きの刹那がさり、目の前に桃色の長髪がなびいていた。
レミアとは違う形の尾と翼を見せている女性。大きく見えてた背中の主人はシルさんだ。
「全く…ソウタも遅いですわよ。それにしても解けていた結界を無理やり維持するなんて、馬鹿な真似をして…貴方にもう用はなくなったはずですわよ」
片手に小さな刃物を手にしたシルさんは俺を目の前にいる…夢の中ではドナと名乗っていた女性からかばう様に立っている。
場所は俺の実家の部屋ではなく、俺とレミアで借りたマンションの部屋へと変わっていた。
いや、戻ってきた、が正しいのだろうか?
「ちっ…あはは、馬鹿な男ネン。全く滑稽で無様だわ――」
真っ黒な…もはや紐としか思えない際どい服装のドナは高らかな笑い声だけ部屋に響かせて霧の様にその姿を消した。
「ん…はあはあ…ァ――」
「レミア!」
ドナの姿が消えた背後にはレミアが苦しげなままで横たわっていた。
俺が一歩を踏み出す、その直前に目を開けた彼女と視線がぶつかる。
この部屋での最後の記憶、レミアが自身の体調もかえりみず言葉を発していた時よりも明らかにぐったりとした疲労の色を浮かべていた。
虚ろな瞳が俺を捉え、近寄ろうとした俺を見て、肩を抱え震え始める。体育座りの様な格好で、肩を掴む指の食い込みが一層深いものになり、その後両手は頭に置かれた。
「レミア…とりあえず布団に横になれって、風邪治ったらさ話したい事が沢山あるんだ」
その姿に立ち竦んでしまった。俺を見て明らかに怯えるその表情は一番最初に出会った時、バス停で雨宿りをしていた彼女の表情よりも、拒絶の色が深くはっきりと見えてしまった。
脚がコンクリートで固めれてしまったかと錯覚するくらいに重く、喉が閉まって声も出しにくい。
――あの悪魔の様なドナの言葉が壊れた音楽プレイヤーの如くリピートすう。それが現実だと、真実だと、認めてしまいたくなる程に頭の中を塗り潰されていく。
「……ソウタ…。」
再びレミアと視線が合う。
だがそれは、光を無くした、本当に虚無の色をした目だった。
「レミア…待って…待ってくれ! 俺は――!」
――ごめんね。
「レミアぁぁ!」
突風が吹いた。一瞬だった。
ゴトゴトと俺の部屋に限らず、マンションの部屋全体から家具が揺れる音が響いて最後に玄関の閉じる音だけが遠く聞こえた。
俺の前には彼女はいない。隣にいるシルさん以外の気配が皆無だ。
「あ…ああ……」
情けない話だ。夢だかどこだかは知らないが格好つけて啖呵を切ったのに、いざ目の前でそれが現実となると想像以上に苦しくて呻くことしかできないなんて…。
だが呆けては要られない。俺は今なお、あいつに言いたい言葉の一つも言えてないのに、ここで手を離したくはない。
「シルさ…あ、え――?」
腹に力を込め、喉を開き言葉を発した瞬間。
俺の見ている世界は大きく回って、視界の左に体と平行に床が見えた。
ごとり、と鈍い音がまるで他人事に思えるほど、その刹那の出来事は認識できないまま俺の意識は再び途絶する。
――本当、馬鹿な人間だこと。
最後に聞こえたそれは誰のものだっただろうか。もはやそれすらわから…ない…。




