三十二話「先と今と後ろと」
細かい作業は苦手。――昔から、苦手。
私は今までどうやって生きていたのだろうか、なんて最近考えてしまう。
そう考えてしまうのも一人の時間を毎日二時間ほど作っているからで、私は今も手を動かしながら単一化していく思考の海に沈んでいく。
ソウタは最近急に一人で出かける事が増えたし、私も私で彼がいる時もこうして一人の時間を作る様にもなった。
ソウタの家で気付いた私の想い、それが正しく『それ』なのかは私にも、きっと誰にも判定することはできないだろう。
同時に彼の実家で夢が出来た。とても小さく、大したことのない夢だ。
それでも来たるであろういつかを思うと私の胸はいっぱいになってしまう。
喜んでくれるかな?喜んでくれたらいいな――喜んで…くれるかな…。
なんて。
もしも受け取ってくれなかったら、迷惑だったらどうしよう、嫌な想いはさせたくないなぁ…。
なんて、思い始めたら止まらない。
彼の喜ぶ顔を想像して胸が高鳴り、彼に否定されたらと考えて悲しくなって、そんな思いを馳せながら私は手を進めるのだ。
結局のところ、私の思考は彼でいっぱいで、そんな自分が気恥ずかしくも嬉しくて、やるせないというかもどかしい。そして幸せなのだと思う。
ソウタの家に行ったのはお母様が倒れてしまったからで、元は昔からの付き合いらしいアヤノの家族が心配してアヤノへ送ったメールがきっかけだった。
当然それを知った彼も実家へ帰る事になり、私もそれについて行った。
彼の家に居る間、ソウタは家業の手伝いをしていたが不特定多数の人間に触れ合うのが苦手な私には手伝えず、家に居るだけだったのだ。
私なりにも家事の手伝いなどをしていたが、簡単な掃除や服をたたむ程度。
そんな私にソウタのお母様はありがとうと微笑んでくれた。
ぱっちりと開いた目が柔らかな曲線で細くなる、そんな目元がソウタとそっくりで、私が目線が合うと避けてしまう事に気付くと、ソウタの昔話であったり色々な話をしてくれたりと、そんな優しいところも似ていて――。
その時、お母様は私に気遣ってくれてか、それともずっと横になっていて暇だったのか、それはわからないがある事をしながら話してくれた。
そしてそんな時間の中で、私に夢が出来たのだ。
「ソウタまだかな…何してるのかな…」
だから私は手を動かす、夢のため、冬の日に間に合うように何度も何度も間違えながらも少しずつ形なっていく物を手に彼を思う。
一回一回、編み込むたびに思いが溢れる。
テレビでやってた重い女ってこういう事なのだろうな――とか自嘲しながらも動かしていく。
「あラ、健気なものネン」
声がした刹那、空間が歪む違和感が私の脳裏を叩き、不快感が襲って来た。
その声の主を私は知っている、できれば忘れたいのだけど知っている。
「何しにきたの、やっぱり貴女の目には私は人間に見えるのかしら」
全体的に黒く、そして布面積の少ない服装の彼女。
私達ドラゴンは異なる小さく脆いコウモリの様な翼を持つ彼女はサキュバスだ。
サキュバスとはすなわち淫魔という、悪魔の中の一つで、人間界にも数多の解釈がある様だが彼女ら曰く「神の代わりに試練を与えるもの」らしい。
サキュバスの与える試練は人間の三大欲求であり七つの大罪の一つ、『色欲』にまつわるもので、無駄に扇情的な格好もそのためなのだけど私からすれば悪趣味この上ない。
「ウフフ、もっと驚くと思ったのに残念。」
「人間界では貴方達が何しても不思議じゃないのは別にいいけど、さっさとでて行ってほしいわね」
「もう友達にそんな邪険にされるのは悲しいワァ」
ドラゴンの他にも上界には沢山の種族がいるけれど、悪魔はまた別の存在。
神やら天使やら悪魔やら上界やら、その辺は色々ややこしいけれど、簡単に言ってしまえば彼女ら天使や悪魔は存在が概念に近く、私達上界の民は皆ちゃんと生きている。
だからこそ、例えば私が人間の家にいきなり翼を羽ばたかせ現れたら管理協会が怒り心頭で押し掛けて来るだろうけど悪魔にそれはない。
そもそも、悪魔は人間の姿で人間の様に振る舞って惑わすのが仕事…というか役割なので自ら正体を見せることはおよそないからもある。それをやってしまっては悪魔は途端に消えるとさえ言われているほど、存在があやふやなのだから。
上界の住民は種別を見極める目があるから彼女もわかりやすく、人間が絵に描いたような悪魔の格好で目の前にゆらゆらと浮いていても問題はない。私個人としては問題だと言いたいが。
もしもここにソウタがいれば彼女もこういう形では現れないだろう。
「――そうそう、ソウタ君だったわネン!」
不意に飛び出たその言葉につい視線が彼女へと向かってしまう。
視線が合ってから、口元をゆっくりと卑しい笑みを浮かべる彼女。
「彼さ今日なにしてるか知ってる?女に会ってるのヨン」
「え…?ふん、あれでしょ貴女達の好きなやり口なのでしょ、実際はただの知り合いとかそういう…」
「ンー、あれはどうなのかしらネン。デートしながら相手の女性が『うちに来ない?』とか話すのはただの知り合いなのかしらネ」
悪魔は嘘は言わない。
言葉とは不完全で、事実も言葉選び一つで誤解を生んでしまう物。
悪魔はその不完全さで人間を惑わせて、弄ぶ。
悪意ではなく、そういう在り方が彼らだから…そんな言葉に先走って早合点してしまう人間を試す。
私は彼女を含めて悪魔というものを知っているから、人間と同じ事にはならない。
「私は心配なのよ?ずっと特別な『誰か』を今まで作って来なかった貴女が恋をしてしまうなんてね。それも人間になんて!」
「余計なお世話だって言ってる。それにソウタは――」
「彼は違う?彼は、彼なら普通の人間とは別?そんな風に考えているのかしラン?」
「そ、それは!」
「キャハハハハッ!そんな事あるわけないじゃない!人間は異物を嫌うワ、ちからを怖がるワ、それは200だか300年前に貴女が十分に知っている事デショウ?」
どくん、とその言葉に胸が反応する。血液が逆流してぶつかりあって、止まってしまったかの様に胸が詰まってしまう。
「貴女は彼に魅了か隷属の魔術とかしたの?違うわよね」
聞きたくない。彼女がこの先に言うであろう言葉を聞きたくない。
「レミアはドラゴンだもの、この世界なら災害レベルの事ができる力が貴女にはあるのだもの、わかるわけがないのよ。小さな刃物一つで、階段を踏み外してしまうだけで、死んでしまう人間の脆さがね。」
「ソウタ君がレミアにどんな言葉をかけていたかは知らないけどネン、私は怖いと思うわ。隣にバケモノがいる生活なんてサ」
――うるさい。
「人間はいつだって弱いものヨ。弱いからこそ火を起こし獣を遠ざけ、武器を作って、そうやって自分達を守ってきたの。だからこそ上界の住人達も人間達に存在を認知されることを避けてきた」
――うるさい。うるさい。
「何故なら排除されるから。人間は人間としか愛せな――」
「うるさい!」
「…彼が違う、なんてありえる訳ないじゃない。人間の中で比較して人間同士で特別はいてもドラゴンなんかに純粋に好意を持つ人間なんかいるわけないわヨン」
「出て行って…早く…」
「でもたまにいるのよね勘違いする人間も、だからそこに漬け込むの」
「うるさい、早く出て行って」
「もしも貴女が本気なら私はいくらでも協力するわヨン。だからいつでも言ってね!バイバイ!」
嵐のような悪魔だった、言いたいことだけ言って…本当ハラタツ。
事実しか言わない…事実に悪意を添える悪魔が私は昔から嫌い。
――そう、事実なのだ。
はっきりと意識することはせずとも、いつも心の隅にあった思い。
ソウタは私のことをどう思っているのかという疑念。
遥か昔、リエッタという女の子と私とその村を巻き込んでの騒動が――あった。
結局私の中で落とし所は人間との会話不足が招いた事だと、そう結論付けた。
だからこそ、だからこそ、ソウタとはたくさんの会話があったから――
大丈夫。
きっと大丈夫。
「『うちに来ない』ってどっちが言ったんだろ…」
掌に落ちた雪のように僅かに触れた熱は少しずつ、私の中で何かを溶かしながら膨らみ始めていた。