三十一話「パンケーキ大好き結奈さん」
銀杏並木も黄色へと変わり始め、秋はゆっくりと、しかし確かに歩みを進めていた。
そんな景観とは違い、気温は相変わらず蒸し蒸しと暑くスーツのジャケットはまだ着るのを憚られるくらいだ。
昼下がりの落ち着いた電車内から流れる景色を見つめる。
たった半年強、レミアと出会う前まで住んでいた街の駅を過ぎ、元いた会社の駅を過ぎていく――。
もはや、遠い過去の様だ。
振り返れば本当一息の間に過ぎて行った気がする。
歪で、不自然で、荒唐無稽だろう。
ドラゴンの少女と暮らしているなど…改めて考えると可笑しいな。
色々な事があった。現実味のない誰に話しても信じてもらえない出来事もあったし、それ以上に普通に暮らしていた日常もそれは楽しいものだった。
流れる景色にいつかの日々が混ざって映る。
ゲームして、アニメみて、日本を飛び出して、実家へ帰って。
ごうごうと彼女の背に乗った時の風の音すらも、色濃く残っている。
彼女と見上げた一面の星空に願ったなにか。
多分、人生で初めてだと思う、何かを叶えたいと思ったのは。
だから、俺は電車に乗っている。
『表参道〜表参道〜』
山手線に乗換え、アナウンスが響くと俺は腰をあげる。
改札を出て信号へ向かう人混みを避けながら周りを見渡す。
「やほーい!蒼太くん!」
こちらに気付いた女性が手を振りながらこちらへ歩いてくる。
「結奈さんお久しぶりです」
「本当だよ〜またこうして会えてよかった、前回はすっぽかされちゃったし」
俺より少し低い目線をさらに下から覗いて、悪い顔の彼女は笑う。
「すみません…」
バツが悪い俺は顔を合わせられないまま謝る。
「だめでーす、許しません。でも許して欲しかったらこれから行く喫茶店を奢ってください」
「あ、はい、それはもちろん!」
「冗談よ。ま、とりあえず立ち話もなんだし行こう行こう!」
佐藤結奈という女性はとても綺麗だ。
なんて、口にしたら俺の人間性を疑われる事間違いなしだが、彼女は本当に美しいのだ。
くりくりとした大きな瞳が特徴的な整った顔に、すらりと伸びた手足。
仕事関係で出会ってなければモデルか女優をやっていると言われても当たり前に信じてしまう、スタイルの良さ。
細いスーツをしなやかに着こなし、艶やかに長い髪を後ろで一つにまとめている。
なにより元気で明るい口調がさらに彼女によく似合い、引き立てているのだ。
それが佐藤結奈という女性であり、今でも彼女が俺と同じシステムエンジニアである事を疑ってしまう。
俺の元いた会社とよく一緒に業務を行っていた別会社に所属していて、俺とゆなさんはであった。
「でも…本当によかったよ。君があの会社を辞めたと聞いた時もそうだし、その後も連絡つかないし…死んでしまったのでは?とさえ考えたよ」
結奈さんに連れられ、曰く最近お気に入りらしい喫茶店のテーブルに座ると珍しく小さな声でそう言った。
その声は本当に心配してくれたのだろうとどこの馬鹿でも気付く。
「本当すみません。辞めてからしばらくケータイの電源切ったままだったので…」
「それでそのあとには電話番号変わってるのだもんなー。ひどい奴だなー」
「申し訳ないです…弁明する言葉は何一つありません…」
俺は三月半ばに会社を無断で欠席した挙句、出社しないまま辞表を郵便で送るという、社会人として最低な行動をした。
本来ならば三月下旬に結奈さんの会社と打ち合わせが予定されていたが、前述の通り俺はそれもすっぽかしたまま今日に至る。
俺より5歳年上の結奈さんからすればこの際に説教の一つでもあって当たり前だろう――と俺は身構える。
俺も会社に対して言い訳したい事は沢山あれど結奈さんの勤める会社には何一つ関係ないのだから。
「あはは、冗談だよ!怒ってはいないさ、こうして元気そうな姿が見れて安心だよ!ってかちょっと太った?」
腹の底で拳を握る様に構えていた彼女の言葉は想定したものより優しかった。
「え…はい、そうですね…会社辞めてからかなり自堕落に生活してましたから恐らく太ったと思います」
拍子抜け、と言ってしまえば失礼かもしれないが、それでも驚きを隠せなかった。
「いいんじゃない?蒼太君最後に会った時はげっそりしてたもの、それくらいが健康的だって」
「そう…ですかね」
「うんうん! ――お、きたね」
彼女に釣られて視線を横に向けると、店員さんがお盆からコーヒーとパンケーキをそれぞれ一つずつ置いてカウンターへ戻って行った。
「ここのパンケーキ美味しいの!どうぞどうぞ!」
「頂きます」
ナイフとフォークを手に向かい合って座る彼女に目がいく。
皿の上に並ぶのは、新雪が如く柔らかな粉砂糖が積もり、覗く焼き目は普通にパンケーキよりも色濃くついたパンケーキが二枚と薄く黄色を孕んだ、丸くくり抜かれたアイスクリーム。
甘い香りはもちろんだが、砂糖の下に眠るしっかりとついた焦げ目とカップの縁から色のグラデーションが伺えるほど濁りの少ないコーヒー、その似て異なる香ばしい香りが彼女と俺の空間を調しているかのようで、甘すぎず丁度よく感じた。
ナイフとフォークを手にするだけで自然と画になる彼女の一挙手一投足に目が奪われる。
重なった二枚をそのまま上からナイフを下ろしていく、ぱりっと小気味良い音を鳴らした表面から更に刃が進んでいくと最初に当てた時の抵抗が嘘のような軽やかさで分かたれていった。
男から見れば小さな一口サイズをフォークで貫き、ナイフで切り取ったアイスクリームを乗せ口へと運んでいく
――不意に誰かのことを考えた。
レミアならもっと大きく切り取って口一杯に押し込んで笑いそうだ。
シルさんはレミアの口元についたアイスを拭こうとして、それを嫌がって。
綾乃も甘党だからレミアと意気投合して、なんかをきっかけに俺の昔話とか始めて。
そんな光景が想像に容易く、そんな自分がむず痒かった。
だけどそんなに悪い気分ではないと――そう思えてしまう。
「…レミア達も連れて来たいな…」
「んふー!美味しい!」
小声で漏らしたのが功をそうしたのか、俺の呟きは結奈さんへとは届かなかったようだ。
「ん、なに蒼太君。そう見つめられると照れちゃうなぁ…ほら君も食べて食べて!」
気恥ずかしそうに笑う結奈さんからパンケーキへと視線を戻す。
見ていた通り、しっかりと封をされた表面を開くとバターの香りが鼻の奥を撫でていく。
口に含むとさらに広がる香りと意外にさっぱりとした甘み。
「んん…美味いっすね、これ…中に入ってるのは林檎ですか?」
「お、流石だね!そうそう、ただ甘い物もいいけれど林檎の甘みが感じられて私はここのパンケーキが好きなの!」
甘い。甘いが、果糖の甘みが口の中に尾を引かず溶けていく。
そしてコーヒーが見た目とは裏腹に深く、濃い香りと少々の酸味を持って口の中をリセットする。
またパンケーキを口にするとその香りは一層引きだって、フォークを進める手をはやめていく。
「ふふん、ご満足そうで。」
「あ――はい、とても美味しいです」
気恥ずかしそうに…というか実際恥ずかしいのだけど。
結奈さんの声に俺は夢中で進めていた手を止める。
「いやほんと、元気そうで本当よかったよ。うちの会社じゃ噂程度の話だけど、このぎょうかいでは割りと聞く話だからねその…自殺とかさ。最後に会った時は既に死にそうな顔をしていたもの蒼太君…だから――」
「あ――」
声が詰まる、喉が不意に締め付けられる。
それは初めて聞いた声色だった。本当に心配してくれたのだと、そう、自惚れでも実感してしまう。時間と思いの込められた言葉だったのだ。
いつもは軽快にからかわれてもどこか憎めない、可愛い――俺からすれば大人っぽくも感じる、そんな口調の彼女なのに。
「すみませんでした…そしてありがとうございます」
「いやいや、杞憂で本当に良かった!こうして元気な君と話せる今が来たのだから、結果オーライだよ!」
いつもの、俺の知ってる笑顔で彼女は言う。
「ま、重苦しい話は無しでいこうよ!それで、私の紹介した所は行ったのかな?」
「はい!どこも結構な評価をしてもらって正直驚きました…」
「そりゃそうだよ、私が推したんだもの!」
最近俺は家から出ている事が増えた。
いや、ま、ここ数ヶ月が引きこもりすぎたのだけど。
というのも所謂就職活動のためで、夏が終わり心境の変化もあり結奈さんの伝手を借りて面接へと赴いていた。
今日はその報告会…と言った所だろうか。
「結奈さんは何者なんですか」
「んー?あれれ、おやおや何をおっしゃるのかな、蒼太君も私と同じシステムエンジニア。そう書いて『何でも屋さん』と読む人種でしょ?」
「いや…確かにそれはそうですけども…」
ひとえにシステムエンジニアと言っても分野、職種に応じて多岐にわたり、オーバーに言ってしまえばこの肩書きは大学生や高校生と名乗っているのと一緒だと俺は思っている。
大学では全く別の事を学んでいて、社会人になってからプログラムに触るという社員も多く、感覚や経験を積めばある程度出来るようになる――どこの職種もそうだろう、そしてそれは俺たちも同じだ。
だからこそ、俺の様な専門卒はシステム周りに触れている時間の長さがアドバンテージとして重宝もされる。
回される仕事も様々で気付けば全く分野の違う事も勉強していたりという事も珍しくない。
野球に例えるならばショートとして入団したが内外野をたらい回しにされ、気付けばユーティリティプレイヤーになっていた――なんて事が多いのだ。
だから、何でも屋と自称するのがある種、あるあるだったりする。
――だけどそれはシステムに関連する事が普通だ。
結奈さんみたく、様々なコネクションを持って勉強して、なんて人は一握りだろう。
本物の何でも屋なんだろうと俺は勝手に想像しているし、それがしっくりくるのが彼女なのだ。
「流石に結奈さんが言うと意味が広く思えるので一緒には思えないですよ」
「あら、営業も開発も運用も事あるごとに私は蒼太君にあってた気がするのだけどな〜?」
「あれはもう…うちの会社がやばかっただけですよ」
「…そだね。で、それでね!今日は相談があってさ」
「な、なんでしょう…」
どうしても結奈さんに改まって、畏まられると無性にやりにくい。
知性や雰囲気を兼ね備えていると知っていてもなお、底抜けに明るい人なのだから余計に。
「いやさ、色々なところを紹介しておいてなんだけどね…うちに来ない?」
「それは――」
それを考えなかったわけではない。寧ろ一番最初に考えていた事だ。
だが、それは…
「あ、そういえば蒼太君知らないよね?うちが蒼太君のいた会社と契約を去年度末をもって更新していないの」
「え?そうなんですか…?」
「そうなのだよ!二月には決まっていたのだけど、三月に正式にね。蒼太君が来なかったあの日にその話をする予定だったの…ついでに言っちゃうけどその日に蒼太君を引き抜こうと思っていたの」
結奈さんはフォークとナイフを置いて、真っ直ぐに俺をみた。
曇りない瞳が真夏の――いやレミアと見た高原の青空と似ていて引き込まれる。
「最後に会った時さ、蒼太君、本当に限界だーって顔してた。崩れそうで、消えそうで、儚げ…なんてそんな綺麗なものではなくてツギハギだった、その癖に当たり前な顔してさ。」
「勿体無いって思った。使い潰されるだけだとわかっているのに、そこから動こうとしない君が腹立たしかったよ。そりゃ、専門学校に居た頃では選択肢もそう多くはなかっただろうけど、今の君には実績もある、だからあの頃から。あーこの人は踏み台にするために頑張ってるんだろうなーって思ってたのに…」
その思いを知っていた――なんてかっこいいことは言えないけれど、想像くらいは出来る。
俺とこの人は全然違うのだ。
野心家で上を向き続けるのが当たり前なこの人からしたら、俺は全く違う存在だろう。
やらなきゃいけない事はなんとなくやらなきゃいけなくて、別にやれる人がいるなら俺がやらなくてもいい。
なんとなくやりたい事はあれど、『これが』ってものはなくて。
今が好きで、失っていくものを数えて、ただそれだけの俺とは。
それだけだった俺とは――。
「そう思わないとわたしには理解が出来ないからさ」
全然違う。
「でもね!」
一口目はゆっくりと深く味わっていたが、再びフォークとナイフを手にした結奈さんは手早く切り分けると三度、口へ運んだ。
白く細い首がこくと膨らみ、収縮していく。
ナプキンで口元を拭うと、でもね――と言葉を戻す。
「蒼太君、今日会って雰囲気変わったなって思う」
「そっすか?」
「うんうん。なんていうかね、角がとれた…とも違うな、なんだろうな…きっと休めたのもあると思うんだけど、良い感じに肩の力がとれている感じ。彼女でもできた様な。」
「なっ!」
不意に裏がる声に「しまった」ともう気づいても脊髄反射には抗えない。
「――どうか?って聞くまでもないね」
「う…まあ、そうですね。本当はもう少し休むか別業種でもいいかなと思っていたのですが」
「頑張りたくなる人が出来ちゃったかーこのう!」
「――はい。だけど凄いですね…女の勘ってやつですか?」
「そうだよ!いやはや、この歳になると幸せオーラにはどうしても敏感になってしまうのよ。おばちゃんはね」
「まだまだ結奈さんお若いですよ」
「なんだぁ若造、ピチピチの肌して嫌味なのかな!」
「まぁ、何はともあれ。どうする?」
会計を済ませ店を出ると開口一番に結奈さんは聞いてきた。
「結奈さんの会社なら喜んで。むしろ俺からお願いしたいくらいです」
「本当?それは私も嬉しい。でも、ま、せっかくだしもう少し休むのもいいと思うよ。秋入社でも春入社でも中途でも、なんとでもできるからね!」
「本当、結奈さんは何者なんですか…」
「あら、私だけじゃないよ。蒼太君を知っている人はみんな賛成だって、それが君の実績だよ」
「…っ。ありがとうございます」
「うんうん、じゃ、私は会社に戻るね!また連絡してね!」
「あ、はい!ありがとうございました!」
不意に目頭が熱くなった。
もう数秒、目の前に彼女の姿が見えていたら溢れてしまったからもしれない。
――それが君の実績だよ!
中天の日差しが高層ビル群の窓ガラスを瞬かせる。
「レミアに何買って帰ろうかな」
夏の星空に溢した願い。
金平糖みたいな小さく、甘い願いを一つ。
大切に大切に抱えながら俺は電車のホームに立つ、彼女の待つあの家の駅へ――と。




