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 私が中学二年生の年、先生が倒れた。ようやくまともに弾けるようになった、先生曰く「全然、華麗じゃない『華麗なる大円舞曲』」をコンクールで連弾し終わったときだった。舞台裏で私の頭をポンと叩いたあと、先生の糸はぷつりと切れた。

 病院で目を覚ました先生は、けろっとして言った。

「肝臓癌だって」

「治るの?」

「だったらとっくに治してるっつーの」

 旦那さんが先生に何か言おうとしたとき、看護婦さんが来て、お医者さんと話をしに行ってしまった。

「癌って痛い?」

「痛そうに見えるのか」

 先生は元気だった。私は疎いから分からないだけなのかもしれなかったが、少なくとも私が想像していた病人のイメージとは違った。  

 それでも、先生はもうすぐ居なくなってしまうんだなぁということだけは、はっきりと分かった。

「本当はピアノ、あんまり好きじゃないんじゃないか」

 急にそんなことを訊かれたので、私は面食らって絶句した。私が?

「別にそれが悪いって言ってんじゃないよ。あんたが逃げてんのをとやかく言うつもりはないし」

「逃げる?」

「いつも、弾かなきゃって思いながら弾いてる」

「…。先生は、先生になって良かった?」

「そうさねー。でなきゃ、あんたともあの人とも会わなかっただろーねぇ」

 先生はそう言って目を瞑った。

「喋り過ぎた。疲れたからちょっと寝かして」

 そこにいるのは、ソファでゴロゴロしている、いつもの先生だった。大きな欠伸をして、すぐに寝息が聞こえてきた。あんまり情けなくて、涙も出なかった。

 それからしばらくして、先生は死んだ。



 お葬式が終わった日、私は家出した。

 どうするのがいちばん良かったのか、分からない。こんなときはいつもピアノを弾いた。でも今は、それで気持ちが紛れるとは思わなかった。

 ただ、何もかもが上手くいくってことはないんだなぁと、ぼんやり考えていた。人が死ぬということは悲しいことだと思った。いや、知っていた。知っていたけど忘れていた。忘れていられたということが、ずっと私が求めていた答え。

 あの日、私と先生はあのコンクールで何とかという賞をもらったが、私にはそれが意味のあるものには思えなかった。

(ピアノを弾くことを、評価されたかったわけじゃなかった)

 先生が言った通り、私は嫌なことから逃げて忘れようとしていたのかもしれない。ピアノが好きだから弾いているんじゃなかったのかもしれない。でもきっと、本当に嫌いだったらピアノに逃げたりはしないと思った。

 公園に私を迎えに来たのは、黒い礼服姿の旦那さんだった。

「あいつ、君がピアノやめられないのは自分のせいなんじゃないかって思ってたんだと思うよ」

 先生の傍にいるために、音楽が必要だった?…そんなことはない。例えば私が音楽やらなくなっても、きっと先生は先生のままだった。

 だけど、私が音楽やらない子供だったら、きっと先生とは会わなかっただろう。

「言葉が足りないんだな、基本的に」

「先生にはピアノがあったから」

 そして私は、たくさんの言葉の代わりに、たくさんの音楽を貰った。両親を失ったけれど、家族を貰った。

 悲しいことを忘れていられたのは、先生が大切なものをたくさんくれたからだ。これからは私が、忘れなくても生きられるように。

「自分の好きなようにすればいい。僕達だってそうしてきたんだから」

「今は、弾きたいときに弾ければいい」

 忘れていた。いつだって誰に強制されたわけでもなくて、私が弾きたいと思ったから。

「そういうとこばっかり似てるねぇ」

 暗くなった道を帰りながら、私が「先生で良かった?」と訊くと、彼は笑って「当然」と答えた。

「コブ付きでもいいの?」

「何で?」

「…先生がいなくなってさびしくない?」

 好きだった先生ではなく、先生のおまけだった私だけが残って。

「さぁ。でも僕はきっとそんなこと思わないと思うよ。だって僕が今まで楽しかったことは、きみもいてはじめて楽しかったことになるんだから」

 先生がいて、旦那さんがいて、…私がいて? あの家は、楽しいことがたくさんあった。

「僕たちは三人でひとつの家族だったけど、二人でもちゃんと家族でいられるよ」

 私は黙って頷いた。

 もしかしたらこの先、二人で寂しいって思うときがあるかもしれない。「でも一人ぼっちでいるよりは、ずっといい」。それは、私が最初に先生のところへ来て思ったことだった。でも、同じでも今は同じ気持ちじゃない。

 大切な人が死ぬ。それは一人ぼっちで乗り越えるにはとても苦しいことだから、私には家族が、…この人が必要なんだ。

 自然と、涙が流れた。

「餞別にショパンでも弾いてやるか」

「『別れの曲』?」

「まあ、それはどっちでもいいんじゃない。どうせ寝てばっかりで聞いちゃいないだろうし」

 彼はそう言って、天を仰いだ。

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