四
私が中学に入学する歳になると、何とかという私立の中学から学校案内がきた。学校にもろくに行っていない私にどうしてこんなものが来たのだろうと思って旦那さんに訊くと、そこは音大附属の音楽科があるのだそうだ。
旦那さんは、ピアノしか興味のない私が通うにはもってこいの学校だと言った。
「でも高校で決めたって遅くないよ」
「そんなことないさ」
すっかり寝ていると思っていた先生が、ぼさぼさの髪を束ねもしないでソファに転がっていた。
「ピアニストになるつもりなら、遅くないんじゃない」
「ならないよ」
私は即答した。
「じゃ、やめとけば」
先生はあんまり興味がなさそうなので、私は「分かった」と言ってそれを捨てた。
「何だ。学校、行くのか」
中学校の入学式の日、先生は私が新しい制服を着ているのを見て言った。
「来なくていいよ」
「そうかい」
訊いているんだかいないんだか判らない口調で、先生はいつもより五分だけ長く化粧をしていた。
私が来なくていいと言ったので、父兄席に先生の姿はなかった。
式が終わってから、私は何人かに声を掛けられた。それで、よく分からないうちに教室まで連れて行かれて、気が付くと指定された席に座っていた。
先生は気まぐれな人だったけれど、一度も「ああしろ」「こうしろ」とは言わなかった。そんなとき私はいつもピアノを弾いた。そこに答えはないけれど、私が能動的にできるのはこれだけだった。
私がぼんやりと同級生の自己紹介を聞いていると、俄かに廊下が騒がしくなって、担任が慌てて私を廊下に引っ張りだした。そして何かをごちゃごちゃ言っていたが、要約すると、先生が学校の近くで事故に遭ったらしいということだった。
ほぼ同時に病院に着いた私と旦那さんが、先生の病室にノックもしないで入っていくと、ベッドに横になって先生が「来たか」と言って私達を頭から足の先まで眺めた。
「何だ、見舞いのメロンも無しかい」
気が利かない、と文句を言いながら起き上がる。
「見舞いどころじゃないよ。心配するだろ、なぁ」
「指は?」
「開口一番がそれかい」
先生は私の前に掌を突き出すと、握ったり開いたりして見せた。
「掠り傷。一応、検査入院だって」
でも次の日、先生は帰って来なかった。その次の日もそのまた次の日も、帰って来なかった。一週間くらいして、ピンピンして帰って来た先生は「医者が藪でさぁ」とぼやいていた。
先生はピアノの先生なのに、あんまりピアノを弾かない人だった。それが、急に私に連弾の楽譜を渡して弾くと言い始めた。
「ショパンなら『別れの曲』の方が好き」
「嫌。明るい方がいいじゃんか」
「分かった。本当は不治の病なのね?」
私が訊くと、先生は呵々と笑って答えた。
「阿呆か。だったらこんなとこにいないで、病院で大人しく延命治療してるだろーが」
「そう」
そんなふうには見えない。先生は死ぬ時まで死ぬことなんか誰にも気付かせないで、笑いながらフイと居なくなってしまうような気がした。そういう人だと思う。
「人間なんて、いつぽっくり逝ってもおかしくないだろ」
「ふうん。先生、どうして先生になったの」
「突拍子もない子だね、あんたは」
先生は、珍しく不意を突かれたという顔をした。
「そんなの、他に何にも出来ないからに決まってんじゃない」
確かに先生は運動嫌いだし、勉強もあんまり教えてくれないところを見ると得意ではないらしい。でも、だからというのは理由として弱い、と思う。
「ピアニストになりたかったの?」
「あー、私には向かんよ。別に先のこと考えてたわけじゃないし、いつお迎えが来てもいいようにって、やりたいようにやってたらこうなった」
「ふーん、行き当たりばったり」
「喧しか子ねー」
「私も、ピアノしか出来ないから」
そう言うと、先生は「そーゆーことはまともに弾けるようになってから言え」と、私を小突いた。
「ピアノしかやらない奴の言うことじゃないね」
出来るんだったらとっくにやってる、と言い返したかったが、先生は一人でさっさと弾き始めてしまったので、それ以上は会話にならなかった。それに、出来ないからやらないというのは弱い、とも思った。
先のことなんか分からない。
(でも、もし先生が居なくなってしまったら?)
答えは私自身が身を以って経験している。また、一人ぼっちになる。それだけのことだ。そうじゃなくて。
(もし先生が居なくなってしまったら、私はどうすればいい?)
やっぱりピアノを弾くだろうか。それともやめて…やめて何をすればいいんだろう。
(私にとってのピアノって、何?)
鍵盤を叩けば応えてくれる、楽器。だけど、そこからは何の答えも返って来ない。ただ、私が望んだ通り、音を拾ってくれるだけ。
(どうするのがいちばん良いんだろう?)
答えは、まだない。
私の中には黒くてぐるぐるしている、よく分からない気持ちがあって、それはパパとママが風邪をひいた私を残して出掛けてしまった、あの日の気持ちに似ていた。