三
先生は運動があんまり得意じゃなかった。
「どこ投げてんの」
子供用のグローブをつけた先生は、跳び上がりながら叫んだ。高めのボールが伸ばした腕を抜いて草むらを転がる。私は立ち上がってそれを拾った。
「もーやめた。はい、返す」
ボールを渡そうとした手にグローブを押しつけると、さっきまで私が座っていた場所にどかっと腰を下ろした。自分がやりたいと言ったくせに、まだ五分も経ってない。
よくあることだ。先生はピアノ以外のことに関して恐ろしく無関心で、時折興味を示すものにも冷めやすい人だった。サッカーボールを買ってきてもワールドカップが終わればただのインテリアになっていたし、バレーボールもバスケットボールも同じだった。腹話術用に買った猫の人形などは、もはや抱き枕以外の何者でもない。
旦那さんとキャッチボールを始めた私を見ながら、先生はそこらへんにある雑草や花を手当たり次第に引き千切って、何かを作り始めた。
「おーおー、誰に似たんだかねぇ」
左に逸れたボールを器用に拾うと、先生は足をバタつかせて喜んだ。私はちゃんと聞こえるように「おかげさまで」と呟くと、思いっきり返球した。
「いい球投げるね。俺に似たのかな」
「親バカー」
「おうよ、将来は大リーガーだな」
バカにしてる、と思う。
私は歳の割に背が低い。だからバレーもバスケもいまいちだった。今だって高いボールは取れない。唯一、得意と言えるのはサッカーくらいで、私がリフティング出来るようになったのを見て先生が「高いゴールもネットもない」と嫌味を言ったものだった。
拾い損ねたボールを追う私を笑う。ムカッとして気を取られた私は何もないところで転んでしまった。反転した視界に、慌てて駆け寄って来る旦那さんと、その後ろからのらりくらり近づいてくる先生が映る。
「やっぱ君に似たんだ」
「そうきたか」
そこに座ったままの私の頭に、先生は雑草と花で編んだ花冠をバサと置いた。
私が先生の家に来た日、先生は自分のピアノの隣に新しいピアノを並べた。両親が火事で死んだとき、猫もピアノもみんな一緒に焼けてしまったからだ。焼けなかったのは私だけだった。
「音楽に進むなら、買ってやる」
そう言って白いグランドピアノを指差したが、私は前に持っていたのと同じアプライトピアノを選んだのだった。
「『花の歌』かぁ…、ちょっと早くない?」
私にとって二度目の、三人ぽっちの生活は何もなく四年の月日が経っていた。相変わらず先生は料理が下手で、旦那さんは味音痴で、私はピアノばかり弾いていた。
「そりゃあね、やって出来ないことはないだろうけど」
私は自分の手をまじまじと見た。私の手は先生とも旦那さんとも似ない、細い指の小さい手だ。頑張っても、オクターブに届くか届かないかだった。
「ダメならいい」
「弾きたいってんだから弾かせりゃいいじゃない」
鏡の前で、申し訳程度の化粧をしながら先生が言う。前は化粧品なんて持ってもなかったのに、「三十過ぎたら人様に失礼」とか何とか言って、本人でさえ使い方が分からないようなものまでたんまり買い込んできたのだ。
「気合いで弾け、気合いで」
「…分かった」
先生の言った通り、それはすぐに弾けるようになった。
「おっ、ちゃんと弾けてんじゃん」
先生は、本棚があるのに不精して、ピアノの上に楽譜や楽典を積みながら、ひょいと私の手元を覗き込んだ。
「ピアノの上に物置かないで」
「指、伸ばして弾くなっつっただろーが」
ぴしゃりと手の甲を叩かれて、私は反っていた指を直した。先生は椅子に座ってダラダラしながら「指使いが違う」とか「音が汚い」と言っていた。
「『花の歌』っていうより『野草の歌』って感じだねぇ」
どうせ花と野草の区別もつかないくせに、と思う。
私にとって先生はピアノの先生だったけれど、私はときどき先生が本当はピアノがあんまり好きじゃないんじゃないかと思うときがあった。
何で先生はピアノの先生になったんだろうと思ったけど、訊かなかった。