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一瞬の風

作者: 正義の味方

 一瞬の風に吹かれて、目が覚めた。

 何か夢を見たような気がするが思い出せない。きっと占い信者の女子高生とかは、夢占い、の本を買って、夜眠る時枕元にメモ帳とペンを用意して、夢から覚めた時、どんな夢を見たか、深いまどろみの中でそれを書き記し、翌朝、夢占いの本のインデックスを調べながら、自分の見た夢がどんな意味をもつのか調べるのだろう。一番多いのは‟恋愛”についてだ。そして、

「長年の片想いが実ります」

なんて書かれていると、ひとり、部屋で、舞い上がるもんだ。そういうことをする女はたいてい男にモテない。

 恋、は占いがどうのこうのではなく、自分の勇気にかかっている。それは男でも女でも同じことだ。


 高校時代、ぼくの偏差値は「75以上」だった、が、それがその後のつまり今までの人生で役に立ったことは一度たりとも、ない。

 幼かったころは、あれがほしい、これがほしいといえば何でも買い与えられた。でも何を買い与えられても、満足、という感情が起きることはまったくなかった。

 

 ぼくの人生は、自分との闘いに打ち勝つことだ。


 「克己(こっき)」というらしい。


 野球でもサッカーでも、鉄棒でも水泳でも、最初ザコでも誰にも見られていないところで、ひとり、努力して、その結果を出せば、ようするに何か進化を見せれば、みんなで遊ぶ時一目置かれるようになる。ようするに‟箔がつく”ってことだ。

 野球で特大ホームランを打つ。

 サッカーでハットトリック(一試合ひとりで3点ゴールを決めること)を決める。

 スポーツだけじゃない、勉強でも一学期に0点を取ってしまっても二学期に100点を取ればまわりの評価は一気に変わる。

 結果を出せば認められる――それが成長期、少年時代、の「人生観」になっていった。


 しかし、成長につれて、ぼくの人生観は完膚無きまでに崩壊させられていった。

 結局のところ、学生(小・中・高・大)時代の間に(ふるい)にかけられる……くり返し、くり返し。

 いつの時代もぼく達学生は、試験がある度にヘビに睨まれたカエルになってしまうのだ。


「どうしてそんな勉強ばかりするんだ?」

「そりゃあ偏差値の高い大学に入った方がカッコいいし、就職にも有利だからな」

 この短くも長くもない会話が高校時代ぼくをコテンパンに苦しめた。


 小学生のころ、ぼくは母のいうことをきかず、あまり真剣に歯磨きをしなかったせいで虫歯が多くつらい思いをした。どこかで誰かがいっていたか、本で学んだ知識なのかわからないが、虫歯の痛みを知らない人間は人生の99%の苦痛から解放されるといっている人がいた、だが、それはまぎれもない真実だ。それゆえ、ぼくは将来の夢を聞かれると、

「歯医者さん」

 と答えるようになっていった。

 そしてその夢は叶い、ぼくは晴れて試験に合格し歯科医になった。屋号は『痛くない歯医者さん』と銘打ったが、患者さんからの歯科衛生士の態度が不評で、ぼくが何度注意しても改善されず、その不評があれよあれよと広まって、廃業に追い込まれてしまったからだ。歯医者さん、それがぼくの初めて実現した夢だったのに。

 しかし夢を見るのはこどもだけじゃない。大人だって‟夢を見る”。

 

 ぼくの今の夢は『世界中の人々が誰一人として欠けることなく幸せになること』だ。

19世紀、イギリスで活躍したジュレミ・ベンサンノのとなえた『最大多数の最大幸福』ではなく『完全多数の完全幸福』。

 不幸な人が誰ひとりとして存在しない。それが今のぼくの夢だ。ぼくは高校生の時からそんなふうなユートピアの実現させる方法はないかと、ずーぅっと悩んできた。

 でもぼくのそんな主張に耳をそばだててくれる人はひとっこひとりとして、いなかった。

 世界の平和よりも今夜の合コンにどんな人がくるのか、男のも女も、そのほうが大事なのだ。


「それにしてもわたし達ってすごいよね」小心者のぼくが生まれて初めて渋谷のハチ公前でナンパした女だ。名前は、エリカ、だといってた。しかしそれが本名かどうかはわからない「今日知り合っていきなりデートだもん」

 ナンパってふつうそういうもんじゃないの? ぼく達は渋谷公会堂のそばにある安い居酒屋に入ろうとしたが、わたし、お酒飲めないの、とエリカがしゅんとしたので、ふたりで思案した結果、大手チェーンの牛丼屋に行くことにした。牛丼屋は24時間営業ではなかったのでぼくは今夜の宿はどうしようと思案に暮れた。

「やっぱりこういう時間には牛丼が一番だよ、一番。しかも「いい男」と一緒だもん。安い牛丼の並みでも高級牛肉に感じるよ」。ぼくが、いい男?

 牛丼屋の中には最近ブレークした若いレディーボーカルの歌が静かに流れていた。ぼくたち以外に客はふたりしかいなかった。営業の仕事で疲れ切ったサラリーマン風のおっさんと牛丼の特盛を3,4杯食べても胃袋が5割強しか満たされそうもない太った女だ。案の定その女の目の前に牛丼の特盛が運ばれてきた。

「そうだ、名案、せっかくだからわたしんチくる?」

 エリカはぼくのナンパにひっかっかった女だが、決して軽率な行動をとるような軽い女には感じられなかった。まぁ、ぼくが遊び人ぽくないから、ぼくについてきたのかもしれない。

「ダメだよ、家族に迷惑がかかるだろうが」ナンパなんてしてしまったけどぼくは元来真面目な男だ。酒は飲めないしタバコも吸わない。だからきっと、エリカも安心したのだろう。

「大丈夫。わたし、ひとり暮らしだから」

「えッ」

 ぼくは思わず唾を飲んだ。

「ウチ、こっからすぐだから、行こう」

 いつの間にか客はぼく達だけになっていた。

「お兄さん、ごちそうさま。お勘定」

 お兄さんは、たぶん学生のバイトなのだろうが実に面倒くさそうに厨房からレジカウンターの方へ姿を現してエリカとの会計に応じた。ふたり分でいったいいくらになったのだろう? 何だかエリカに金を払わせたことが面目なく思えてきた。


 牛丼屋を出るとやっぱり外は少しだったけど、寒かった。

「エリカ、寒くない?」

「おッ、今初めてわたしのこと『エリカ』って呼んだね」エリカはとっても嬉しそうに笑ってぼくの手を握った。牛丼屋から歩いて5分もしないところでエリカは突然、

「ココ」といって急ストップした。

 出会ってからまだわずか4、5時間、ぼくは生まれて初めてナンパしたひとり暮らしをしている女の部屋にあがろうとしている。信じられない。

 ぼくは本当に、こんなこと、してもいのだろうかと何度も自問自答した。

「どうしたの?」エリカは階段の途中で「部屋、2階だから上がってきてよ」

「あ? う、うん」

 ぼくはラッキーなのだろうか、それとももしかして‟イケメン”なのだろうか。それともただ単にだまされているだけなんじゃないだろうか?

 でも、その可能性は低い、とぼくの直感がぼくにいい聞かせるように脳の奥深いところがそう判断した。

 エリカはそんな女じゃないことはもうわかっている。だからぼくは自分の‟直感”を信じることにした。どうしてかって、ふつうナンパしてたいして時間がたっていないような、どこの馬の骨ともわからないような男を、お・と・こにひとり暮らしの部屋を教えるなんて、あり得ない。もしかしたらエリカは本当は男と親しくなったことがないんじゃないだろうか。だからぼくみたいな下司な男のナンパにひっかかったんじゃないだろうか? 

「ねぇ、早くあがってきなよ。別に変なこと考えてないから」

「それ男のセリフだぞ」

「いいからいいから」そういいながらエリカは一度階段を下りてきて、ぼくの手を握っている、そして引っ張った。女の細腕のチカラはどうってことない。


 エリカは六本木のサロンで働いている22歳の美容師だと、自分のことをいった。本当かどうかわからないけど。

 でもだまされたっていいや、どっちにしろ今夜ぼくは生まれて初めて女の部屋で一晩明かすのだ。

「あッ、わたし肝心なこと忘れてた。あんたの名前聞くの忘れてた」

「ねぇ、あんたあたしのことあんたあんたっていうけどわたしもあんたのことあんたあんたっていわないからあんたもあたしのことあんたあんたっていわないでよねぇあんた」

「え? 何?」

「中学ん時流行ったんだよ……タケル」

「え?」

「だから、タケル、だってば」

「タケル?」

「あぁ」

「カッコいい名前だね」 

「どこが」

日本武尊(やまとたけるのみこと)みたいじゃん」

「お前、詳しく知ってんのかよ、ヤマトタケルノミコトのこと」

「ぜ~んぜん知りません。それにさ、初めて人のこと呼ぶ時は『お前』はどうかと思うよ、わたしとしましては」

「お前……」

「だから~」

「ごめんごめん」

「キミ」ぼくはこれから自分が発するセリフを口にしていいかどうか、躊躇した。「キミ、変わってるね。 ぼくなんか部屋に連れ込んで」

「わかりましたよ」

ぼくはエリカの手を、ギュッ、と握って階段をのぼった。


 結局、ぼくとエリカは夜を徹して、まるで70’sの青春ドラマみたいにお互いのことを語り合った。

 音楽は誰が好きなのか、色は何色が好きなのか、食べ物は何が好きなのか。

 もっと深い話もした、例えば、どんな男(女)がタイプなのか、そんなたわいもない、短い話をしているうちに空は明るくなってきた。

 朝食に、エリカのつくってくれたスクランブルエッグと少し大きめのウインナーとマカロニサラダを食パンと一緒にオレンジジュースで流し込んだ。

 ぼくには、意外だった。エリカは料理ができるようには、少なくともぼくには思えなかった。22歳という年齢の、ひとり暮らしの女はそんなこと、そんなこと当たり前のことだろうか?

「そこ、テーブルたててくれる」

「えッ、あ、これか」

 ぼくはテーブルがせまい部屋のどこにあるのかわからなかった。

「テーブル、どこにあんの?」

「そこに立てかけてあるでしょう、本棚の横に

「あ、本当だ」

 エリカがいっていたのは、テーブルというより、円形の座卓だった。やっぱり「座卓」という単語は、21世紀の女の子にはダサク感じられるのだろうか。

 ぼくは21世紀の22歳の女性というのはこれほどまでにすぐれているのだろうか? と思った。

「テーブル立てたぁ?」

「あ、ごめん。ちょっとぼんやりしちゃって」

 ぼくは、やや慌て気味にまるいテーブル、じゃない、座卓を設えた。


 エリカのつくった料理は、質素だったけどとても美味しかった。

 朝食をゆっくり食べていたが、エリカが突然「あッ、もうこんな時間だ」と叫んだ。

「どうしたんだよ、急に」

「わたし今週掃除当番だ」

 時計の針はまだ7時をすぎたところだった。

「掃除当番、て?」

「お店の床を磨いて、鏡をふいて、トイレ掃除して……どうしよう怒られちゃう」

 22歳の女かどうかは定かでないが、美容師をしているのは本当のようだ。 

 

 きのうはよくわからなかったけど部屋から外に出て最初に抱いた感情は、エリカ、こんな古びたアパートにくらしてるんだ、というものだった。

「何、わたしみたいなかわいい女の子が住んでるアパートにしては、意外とボロイって」

 たぶん、エリカは淋しかったのだろう。生まれはどこかわからないし、家族構成もわからない。でも、きっと、エリカは「自分はひとりぼっちだ」と思いながら、今までずっと、生きてきたのではないか? だから、ぼくなんかのナンパに引っかかったのではないだろうか? 

 ぼく達は手をつないで地下鉄の駅へと向った。エリカは少し小走りな歩調で歩いた。そして駅に着くとぼくは大学へと「上り」のホームへ、エリカはお店のある駅を目指して「下り」、いつもと違う電車に乗って、いつもと違う夜を徹して、そしていつもと同じ日常に戻っていった。


 ぼくは大学2年生だから、エリカからしてみれば‟年下の男”ということになる。

 年下のぼくがエリカの支えや助け、例えばエリカが仕事で大きなミスをおかしてしまって店長さんの叱責(しっせき)を受けたとき、ぼくは彼女を励まして元気にして失敗を乗り越える勇気を与えることができるだろうか……自信、ない」

 その日の講義の間中サロンのことが気になって気になって仕方なかった。きっと開店準備に追われているのだろう。ぼくは、ぼくだけじゃなくエリカも、感慨無量のよろこびを感じているだろう。

 

 好きな人からこころから愛される。

 好きな人をこころから愛する。


 これ以上の幸せなんて、あるだろうか。

 ぼくは決して深夜の女に遊び慣れてるわけじゃない。それなのに、エリカ、には気軽で、自然に、声をかけることが、できた。自分でも信じられない勇気と行動力だ。

 ぼくみたいな男がこの世の中にどれだけいるかはわからないし別に興味もないが、ほとんどの男がぼくと同じことを考える――好きな人に触れたい、キスしたい、抱きしめたい。

 ぼくは弱い男だ。そしてエリカはぼくなんかよりずっと、強い。それはケンカが強いということではなく、誰しものこころの中にいる抜山蓋世(ばっざんがいせい)な自分、つまり「リトル自分」に強いのだ。そしてぼくの脆弱さを根本から否定する。でも、どうしても、ぼくは自分は‟ダメな人間”だと思ってしまう。それでもやっぱりエリカはそんなことをまったく気にしない。弱かろうが馬鹿だろうがチビだろうが、気にしないのだ。

 そしてあの日、人通りの少ない暗いまだ芽もついていない桜の木の下で……。

「初めて?」

エリカがぼくに聞いた。

「うん……ごめん」

「あやまることじゃないでしょ。わたし達お互い好き同士なんだから」

 エリカのそのセリフが少しの静寂を弱く切り裂いた。

「じゃあわたしがしてあげる。まずもっとわたしに近づいて、手をわたしの腰に、それで目を閉じて、いい?」

 ぼくは無言でただうなずいた。エリカはぼくのくちびるを自分のくちびるで結んだ。やわらかい音が、キュッ、と鳴ってぼくは体中が熱くなるのを感じた。ぼくはこころの中で、

(……これが接吻か……)

 と思った。以外にも、想像していたより、どうってことなかった。でも「この瞬間」を大切にしようとエリカの舌がぼくのくちびるを割って、入ってきた。そして生まれ立ての親羊が子羊にそうするように、ぼくのくちびるを愛撫した。エリカがくちびるを離すと、ぼくは感謝の言葉を述べた。

「ありがとう、エリカ」

「ううん、お礼なんかいらないよ。礼をいわなくちゃならないのはわたしの方だよ。わたし、初めてだったんだ」

「えッ!?」

 エリカは恥ずかしそうに視線を落として頬を赤く染めた。

「ねぇ、エリカ、お前本当のにぼくのこと好きなの?」

「今さら何いってんのよ、好きも好き、もう大大大好きって感じだよ」

「ぼく、キミのために何もしてあげられないんだよ。本当にそんなんでいいのか?」

エリカは微笑みを湛えてぼくの目を見つめた。ぼくはどうしたらいいのか、何て言葉をかければエリカが喜ぶかわからなかった。

「お腹空いたね。何か適当に作るからちょっとまってて」

 エリカの部屋は、外観からはとても想像できないほど整理整頓されていた。ぼくはエリカがキッチンにいる間、CDの並んだ棚を見ていた。

「あッ、やっぱり」と思うようなアーチストのアルバムもあれば、まったく真逆の「こんなの聞くんだ」と驚くものもあった。

 そして「今夜のメニューは何だろう、と予想しながら一人悦にいった。「悦にいった」というより鼻の下が伸びただけかもしれない。

 何か曲をかけようと、ぼくはCDの棚を物色していると、そこでエリカの声が聞こえた。

 メニューはチンジャオロースだった。

 やった! とぼくは思った。ちょうど中華が食べたかったところだった。

 座卓にふたり分のチンジャオと中華スープを運び終えると、エリカは、一秒だけ、といってぼくにキスをした。ぼくは一秒って意外と長いんだな、とぼんやりキスに応じた。しかしこの時のぼく達は本当のこのキスの意味をふたりとも理解していなかった。

「わたし達、これで本当にこころの底から好きあう恋人同士だね」

「あぁ」

 ぼくはエリカの作った夕食を食べながら、エリカの話に聞き入った。

「タケル、カッコいいよ」

 唐突にエリカはいった。

「何だって! ぼくがカッコいい?」

「離さなかったけ、魅力のある男の話」

「たぶん聞いてない」

「じゃあ質問。魅力とはいったいどこのどんなチカラのことをいうのでしょう?」

 ぼくはエリカの問いの答えを20秒くらいかんがえたが、

「わからない。どんなチカラ?」

エリカは何だか嬉々とした表情でシンキングタイムのぼくを見つめていた。

「つまり魅力っていうのは、タケルが私を惹きつける人間性にじゃなくて、タケルに惹きつけられたわたしの感情のなかにあるの。わかった」

「何か難しいな、でもエリカがぼくをカッコいいって思ってるんならそれでいいや」

「タケルは必ずいい男になるよ。タケルは必ずわたしを幸せにするよ」

 エリカはぼくに魅力があるという。でも、ぼくだってエリカに魅力があるって感じている。


 エリカと知り合ってまだ1日しかたっていないのに、こんなにも早くお互いに好きあっている。どうしてだろう、エリカには何でも話せる、親友のタッチャンにも話せないようなことでも、話せる。これを、「運命の赤い糸」っていったら誰かに笑われるだろうか。

 むかし、タッチャンがいっていた。

「運命の赤い糸ってのは2本あんだ」タッチャンに好きな人ができたときだったことをぼくはよく覚えている「その糸の一本は偽物で太くて強いんだしかも短い、だから簡単に引き上げられる。だからその恋は一気に燃え上るけどすぐに消えてしまう。で、もう1本は細くて弱くて長い。だから慎重に引かないと切れてしまう。わかるか」

 その話を初めて聞いた時、タッチャンが何をいいたかったのかわからなかったが、今なら、よくわかる。


 大学の講義が休講になったので、丁度お昼時ということもあって、エリカに電話をかけてみた。エリカも丁度昼休みで電話はすぐにつながった。

「もしもし、エリカ、今日って仕事何時に終わるの?」

「わかんない。お客さん次第。なんで?」

「いや、よかったら今日晩飯ぼくんチで一緒にくわねぇか?」

「え?」

「親に紹介するよ」

「じゃあ、わたし仮病使って早退するよ」

「そんなのダメだよ。ちゃんと彼氏の家に招待されたから、って理由を説明して、な」

「わかった」

「それじゃあ、仕事がんばれよ」

 ぼくはそれだけ話してエリカとの電話を切り、すぐに自宅に連絡した。

「あ、母さん、今日晩飯何?」

「何が『母さん』よッ! アンタ昨日どこにいての?」

「それもちゃんと説明するからさ、今日ともだち連れて帰っても平気かな? 会わせたい人がいるんだ。」


 いつも通り渋谷のハチ公前で待ち合わせ、電車でタケルの自宅に向った。

 家に着くとタケルの母親とふたつ年下の妹が夕食の準備をしていた。

「ただいま~」

『こんばんは、おじゃましまぁす』

 母と妹はエリカのお・ん・なの声に鋭く反応して玄関まで小走りで来て、エリカの顔を見るや否や、

「彼女?」

 ふたりの声はうわずっていた。

「はじめまして、フクダエリコともうします。どうぞよろしく」

 エリカはチェックのパンツに水色のブラウスを着て、ぼくの家族との最初のあいさつをそつなく済ました。そこへもうひとりの家族・父親が風呂から出てきた。父はエリカを一目見て、ん、この子誰? という顔をして固まった。

 ぼくと、エリカと、ぼくの家族3人、とウチの玄関が戦後すぐの映画看板の様を呈した。

「この女の子は……タケルの彼女かッ!」」

 タケルの父は条件反射的に叫んだ。

「あんたちょっと大きな声出さないでよ!バカ」タケルの父は風呂で温まった体をさらに熱くするような大きな声を出した。

「はじめまして、フクダエリカともうします」

エリカは先ほどの言葉と同じセリフを口にした。と、そこへタケルの母親が大きな鍋を運んできてテーブルの中央に置いた。

「やっぱりタケルんチでも‟あんた”って使うんだね」

 とニヤニヤした表情でエリカはタケルの方を見て、右手の人さし指でタケルの左の二の腕を突っついた。

 タケルの父は自分の息子にこんなかわいいガールフレンドができたなんて、信じられない、といった表情を見せた。


 「はいはい、ちょっとそこどいて、鍋置けないから!」

  エリカは、大学でのタケルについていろいろ暴露した。みんな呵々大笑した。その時、電話が鳴った。誰かのケータイではなくタケルの家の固定電話に。

「あ、わたし出る」そういって妹のユキコが受話器を持ち上げた。

「はい、タナカです」

 ダイニングではみんなが鍋をつつきながらしゃぶしゃぶの肉を口に運んでいた。

「えッ、お兄ちゃん、タッチャンから」

「ウホ、マヒデ」

 タケルは口の中の熱い肉を咀嚼しながら立ち上がって、ユキコと電話を変わった。

「もしもし、うう、ん、ちょっといま、めひふってたはら」ぼくは口の中の食べ物を飲み込んだ」

「もしもし? 大丈夫か?」

「ああ、しかしお前今どこにいるんだよ。フランスじゃないのか」

 タケルの声を聞きながらエリカは、誰から? 男? 女、とユキコに問うた。

「お兄ちゃんの幼なじみ。中学の時サッカー部のゴールキーパーやってて、背が高くて超カッコいいの」

 エリカは鍋の中の肉をしゃぶしゃぶしながら、真剣な顔をして、

「どんな男か見てやりたいわ」

 とひとり呟いた。

「うん、うん、5時の飛行機だな、よし、わかった、おお、じゃあ」

 タケルとタッチャンが何を話していたのか、そこにいる全員が興味津々の表情をタケルに向けた。

「お兄ちゃん、タッッチャン何だって」

「明日、日本に帰ってくるって!」

 タケルの笑みは満面を通り越して全身に広がった。


 エリカはその日はアパートに戻らずタケルの家の客間で一夜を開けることにした。そして午後5時日本着の飛行機で帰国する親友を一緒に出迎えることにした。

 空港に向かう電車の中でぼくとエリカは、タッチャンとのふたりの、少年時代、それから中学時代の思いで話に花を咲かせた。

 小学生の時は同じ少年野球チームでタッチャンがピッチャーでキャプテンをつとめていたこと。自分は補欠だったこと、そして別々の高校に進学して卒業と同時に、美術史を学ぶためフランスに留学し、そして今日8年ぶりに再会すること。

 でも少年時代からの親友とはいえ8年も会っていないともだちを、ちゃんと本人だと認識できるかどうか、心配でならないと……。

 しかし空港のロビーでエリカと一緒に8年前の写真を見ながらウロウロと探し歩いていると、タケルが、「おッ?」という顔をすると金髪の目鼻立ちの整った顔をした外国人と一緒に、明らかに誰かをさがしている背の高い男もぼくの方を見て「ん?」という顔をして、タケルか? と小さな声で呟くように声を発してお互いがお互いを認めるとすぐに荷物をおろして駆け出しすぐに抱き合って再会の喜びに浸った。

「元気だったかよー!

 とぼくがいうとタッチャンも同じ質問をした。そして横にいる外国人の方を見て、彼女か? と聞き、するとタッチャンの方もエリカに会釈してから「彼女?」と尋ねてきた。

 ぼくは、ああ、といって、エリカを紹介した。

「はじめまして、フクダエリコともうします。あなたのことは昨日からたくさん聞いているので何だか親近感がわいてきます」

「タケルッ! お前余計なこと話してねぇだろうなぁ」

「心配するなって」

「はじめまして、コシジタツヤ、です」

「お前も彼女紹介しろよ」

「あ。」

 タッチャンが紹介する前にその仏人女性は、

「ハジメマシテ。ジェシカ・フランソワーズトイイマス」

 と日本語で自己紹介した。

 これから8年分の空白を埋めるための時間になるのだとタケルもエリカも思っていたが、タッチャンの仕事の関係で日本には30分もいられないということだった。そしてその短い逢瀬のあと、ふたりの男は肩を抱き合った。

「じゃあまた8年後にな」

「今度はもっと早く帰ってくるよ」

「それじゃ、タッチャン」

タケルの横でエリカが、

「ジェシカさん、お会いできて光栄です」

「ワタシモデス」


 ぼくとエリカは滑走路の方を見てタッチャンとジェシカの乗るであろう飛行機を探した。そして一台のジェット機を見送った。

 ぼくは、

「帰りは駅までタクシー使おっか?」

 とエリカに提案した。

「お金かかるから、いいよ、バスで。だってシャトルバスあるんでしょう、この空港」

「シャトルバスとかは貧しい年金暮らしをしてるご老人に譲るべきだよ」

「そうだね、ほんとタケルってやさしい」

 空港の広い出口にはタクシーがここぞとばかりに列を成しているかと思ったが、タクシーは一台しか停まっていなかった。ぼくとエリカはまったく躊躇わずそのタクシーに乗った。運転手はもう定年を迎えそうなおじいさんだった。

「エリカ、ぼく達ラッキーだね」

「そうだね」

 エリカの声は少し活力がなく感じられた。

「お客様、どちらまで」

「取り敢えず国道から高速に乗ってサンライズホテルまで」

「かしこまりました、お客様」

 日本人て、どうして金を払う側の方がサービスを提供する方の「上」になるんだろう。こんなにも、人生の酸いも甘いも知り尽くした人がぼく達みたいなひよっこに敬語を使う。別に悪くはないけど間違ってるように感じる。それはぼくだけだろうか?

「お客さん、失礼ですけどおいくつですか?」

「なんでそんなこと聞くんですか」

「はは、別に人の年齢に興味があるわけじゃなくて、お客さんとの会話のきっかけに話すんです」

 さすが、とぼくは敬服した。

「何歳くらいに見えます? ちょっと上目でお願いします」

「んん、そうですねぇ、26から29くらいですか?」

「おおはずれ、ですよ、まだハタチになったばかりです」

「いやぁ、洗練されてますねぇ、ご立派な大人に見えますよ」

「そうですか?」

「特に彼女さんの方、女優さんみたいですよ」

 ずっと黙っていたエリカは、もう寝てしまっていた。きっとぼくにナンパされてからぼくの家族やタッチャン達に会って、知らず知らずのうちに疲れたのだろう。

「運転手さんはこの仕事長いんですか?」

「いえ、まだ5年目です」

「5年ですか!?」

「はい、若い頃、気性が荒くて、どんな仕事についてもすぐやめてしまって、8回転職してるんですよ」

「じゃあやっぱりこの辺でタクシーの運転手やってると芸能人とかスポーツ選手とかも乗せることありますよねぇ?」

「ありますともありますとも。でも、一番印象に残ってるのは、やくざ屋さんを事務所まで乗せた時のことです。ぼくと初老の運転手は妙に気が合って、お互い思わず話が盛り上がった。

「もう怖くて怖くて、よくテレビなんかでやってるでしょう、料金踏み倒すこわ~いおっさんが車内で暴れるの」

「えぇ……」


 ぼくもやっぱり疲れていたのだろうか? 運転手と話しているうちに眠ってしまった。

 どれくらいの時間ぼくは眠っていたのだろう「お客様、お客様」という声で目が覚めた。

「あ、着きましたか?」

「そうじゃなくて、電話電話」

 運転手の声でケータイがなっているのに気がついた。

「あ、すいません、寝ちゃったみたいで」

「いいから早く電話に出てください」

 

 母親からだった。声は恐ろしく遠いところから届けられているように聞こえた。

「ん~もしもし? ごめん、ちょっとタクシーの中で寝ちまったみたいで」

「そんなことどうだっていいのよ! タッチャンがタッチャンが!」

「タッチャンならちゃんと見送ったよ」

「それが、それが、タッチャンの乗った飛行機が落ちたって!」

「エーッ!」ぼくは一瞬で覚醒した。そのぼくの絶叫でエリカも目をさました」

「どうしたのよタケルぅ、急に大きな声で……」

「死んじゃったかもしれない、タッチャンとジェシカが乗った飛行機が墜落したってッ!」


 スマートフォンで世界中のニュースを放送しているサイトがあってぼくはそこで中指をはじいた。

 タッチャンとジャシカは、一瞬、で死んだ。


 ふたりの弔いは、日本で最も有名な葬儀場で、通夜、葬儀、ともに行われることになった。フランスからジェシカの家族と友人が大勢来日した。

 ぼくは、ぼくは、泣くことができなかった。少年時代からいつも一緒だった親友が、死んだ。なのにぼくは泣けなかった。そんなぼくをジェシカの両親やともだちが、責めた。それでもぼくは泣けなかった。おそらくフランスでともだちになった日本人の男ともだちだろう、ぼくの方を()めつけ、お前は、お前はといって目に涙を浮かべていた。そして大きな声で、

「お前は悲しみをしらないのか?」といい放ってぼくの顎をぶん殴った「お前のことは、おれだってここに来てるみんなが知っている、お前はあいつにとってどれほど大切なともだちだったか。それなのに、お前は、涙ひとつ流さない。お前はあいつのことをどう思ってたんだ、どう思ってたんだ、えッ」


 タッチャンとジェシカの葬儀はまるで何もなかったかのように静かに終わった。

 ぼくは、泣けなかった。



 ぼくは、空の上を歩いている。歩いてる? いや、違う、ぼくは浮かんでいるんだ。

「ヨーッ!タケルッ」

 タッチャンがぼくを呼んだ。

「どうしてそんなツラそうな顔してんだよ」

 辺りは霧が立ち込めたようにぼやけていてタッチャンがどこでぼくを呼んでいるのか明確にならない。

「タッチャン! タッチャン! 生きてるんか?」

「おれは永久に死なないよ。いつだって一緒だったじゃないか」

 その時、一瞬の風が吹いて、気がつくとぼくは泣いていた。


 「この話で完結します」

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