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炎上する幸せな嘘

作者: 田中志摩貴

ジャンプ小説新人賞 JNGP テーマ「嘘」落選

 私は嘘つきです。いつも嘘ばかりついています。ありのままを話しても誰にも受け入れられてもらえない気がして怖いのです。嘘ばかりついていては親友もできませんし、素敵な恋愛も望めませんよね。このまま死ぬのは嫌です。どうしたらいいでしょう?                    【投稿者】アンジェラ



 ベッドに寝そべりながら惰性で繋げたネット巡回をしていると、異常な閲覧数を記録している相談者を見つけた。死ぬほどどうでもいい三行が綴られていた。炎上を期待した俺の高鳴る鼓動を返せ。毒気を抜かれた俺は乾いた笑いを漏らした。

 昨日書き込まれたつまらない相談に半日で二千レスがついている。相手しているのは男ばかりで、煽りやネタで返信しているものが大半だ。しかし大真面目に、紳士ぶった口調で、まるで学校の教師と生徒の関係のごとく、丁寧に指導する奴も多い。

 そのうち誰かが嘘ネタを始めたので、俺も空気を読んで定番ネタを連投していった。もしや相談者が有名人なのかと、投稿者名で検索すると大騒ぎの理由が判明した。

投稿者は以前に写真を載せていた。これまた信じられないほどに絶世の美少女だった。高校生くらいで、肩より少し長いさらさらの黒髪が清楚な印象を与えている。

「……すっげー」

 思わず俺は姿勢を正して見惚れた。平凡な私服を身を包み、控えめに起立しただけの変哲もない写真なのに、目立って手足が長く、穏やかな笑顔が神々しい光を放っている。ネタだネタ。ネタに決まってる。こんな美少女がいるわけがない。もし存在していても軽々しく写真を掲載しないだろう。本人も嘘つきだと公言しているじゃないか。なのになぜだろう。ネタだとわかっているのに、どうしても美少女の引力に抗えない。

「くっそ。何してんの俺」

 俺は賢く見える単語を選び、嘘っぱちの力説レスを繰り返した。



 信じられない。アンジェラと二人きりで会うことになった。妄想ではなくリアルで。待ち合わせは中央線のとある駅前。もちろんアンジェラの画像は保存してある。

 彼女がネットに書き込んだ自分のプロフィールはある意味でわかりやすかった。

 両親は多国籍企業と呼ばれるエリート複合体のCEOをしている。つまり社長で金持ちってことだ。外国で生まれ外国で育ったが、ざっと八か国語は使いこなせるので日本語に不便がない。外国籍ではあるが、血筋は日本なので東洋人の容姿をしている。八歳で高校の卒業資格を得ており、スキップ制度を利用して九歳からは名門大学に通っていた。大学を卒業した十二歳から国家機関に勤めることになり、主に他国政府の運営方法や国民性の分析などを担当していたという。つまり国家戦略に携わっているらしい

 そして――彼女は嘘つきである。

 更に自己紹介では、友達がおらず恋人もなし。と記されてあった。

 何が本当で何が嘘なのかの真偽を探るよりも、俺にとって大事なことは「彼女の性別が女性」であり、ネットに拡散された「写真が実像であるか否か」に尽きる。

 来い! 黒髪で清楚なアンジェラ来い! 目を閉じて天に強い念を送る。ネットで繋がった人間との顔合わせは初なので、緊張して心臓が飛び出しそうだった。

 電車の発着に合わせて混み合う人の出入りを凝視する。改札を通過する顔ぶれは様々で、主婦、会社員、学生、子供、派手な服の無職っぽい人間、化粧気のない女、普段こいつらは何をして生きているんだ。つまらない日常のループに埋もれているだけか。

 今日の俺は違う。俺は非日常を生きている。なぜだか誇らしい気持ちでぐんと胸を張った。今から美少女と顔を合わせる。……騙されていたらどうしよう。あっちの男がスマホをいじりながら俺の様子を窺っている。改札を潜る男と目が合った。壁際で佇む眼鏡の女性もこっちを見た。疑心暗鬼に駆られてしまい、誰も彼もが偽アンジェラな気がしてきた。

 スマホを握る手が汗ばむ。本当にあの子が――アンジェラが現れるだろうか。

 実は半分以上は信じていない。だから俺は自分の画像を送信しなかった。

 暇なおっさんニートが、俺をからかって遊んでいる可能性もある。誰も現れない可能性もある。――騙される屈辱を味わうのは御免なので、人違いを装う言い訳を作るために、ありきたりな服装を選び、それを特徴として伝えてあった。

 その時、バチバチと不快な電流音が駅構内に迸った。

 電車を案内する電光掲示板の文字がちかちかと弾ける。改札の扉が不具合を起こして開閉が儘ならず、警告音を発していた。停電か? 最近は電力の不安定さが顕著になり、二十三区内ですら頻繁に停電が起きる。スマホの電波障害も嫌になるくらい増えた。始めは苛ついた。貴重な時間が奪われた気がして本気で腹を立てていた。だがそれも慣れた。放っておけばそのうち復旧すると、半ば諦めに近い気持ちで待機する他なかった。

 待ち合わせ時刻まで残り一分となり、改めて深呼吸すると後ろから声をかけられた。

「モンテスキューさんですか?」

 振り返ると、黒いセミロングストレートの美少女が立っていた。世界一の職人が作った精緻な造形ともいえる顔立ち。透き通る声。平均身長の俺が簡単に見下ろせるほど小柄だったことに驚いた。彼女を形成するすべてに絶句していた。

「初めましてアンジェラです。いえ、初めましてはおかしいでしょうか。ネット上では長らくコミュニケイトしてましたから、そうですね、今日はよろしくお願いしますの方が正しいでしょうか。どうぞよろしくお願いいたします。優しくしてください」

「優しくします! とびきり優しくします!」

 外見の清楚さとは異なり、アンジェラが凛々しく握手を求めてきた。反射的に手を握ったものの、驚愕に支配されたままの俺は、その貴重な感触を堪能できなかった。

 何という奇跡――神様、俺はもう明日死んでも悔いはありません。


 *


 気付けば、彼女の横に並んで電車に揺られていた。穢れを知らない玲瓏な声が聞こえてくるのに内容が頭に入ってこない。目線を落とすと彼女の旋毛が見えた。頭の天辺から零れ落ちる黒髪に艶やかな天使の輪が浮かんでいる。

 その時、電車が急停止した。俺は咄嗟に足を踏ん張り、同時に彼女の腕を掴んで、ぐっと引き寄せた。無意識だった。彼女がほうと息をつく。

「ありがとうございます。ごめんなさい。電車に慣れていなくて」

「ここ最近、急停止が多いから危ないんだ。全国規模で停電が多いからその影響かもしれない。あ、そうだ。吊革に届かないなら、俺の腕を掴んでいればいいよ。どうぞ」

 彼女は真剣な顔で俯き、しばらく黙り込んだ。あれ、何かやばい? 会ったばかりの男に掴まれなんて図々しかったか。

「ご、ごめん! そういう意味じゃなくて、ほら、吊革まで届かないから危ないと思って! いや、うん、その、そうだ! 今のうちに空いてる入り口まで移動してポールに掴まるといいかも! ほ、ほら、電車が止まってる今のうちに移動して……」

 俺が早口で伝えながら体勢を変えると、彼女が慌てて俺のシャツを引っ張った。背中というか腰のあたりのシャツを!

「大丈夫です。掴まってますから」

「う、うん」

 返事したあと、ごくりと息を呑んだ。何だこれ。漫画かよ! 美少女がシャツを引っ張って上目使いで見上げてくるなんて展開、現実にあっていいいのか! 嘘だろ!

「頼りにしています、門馬鷹史さん」

 あれ、俺いつの間に本名を名乗ったっけ。

「モンでいいよ。みんなそう呼ぶから。ええと、アンジェラさんでいいのかな?」

「アンでお願いします。アンジーよりもアンの方が嬉しいです」

 本名は教えてくれないらしい。

 いや――美少女なのだからもっと警戒心を持つべきだろう。彼女は、こっちが心配になるほど無防備に接してくるし、視線に頓着していない。周囲の男共から羨望と嫉妬の混じった眼差しが注がれて、俺は妙な優越感に支配されていた。

「ど、どこに行くんだっけ」

「案内は任せてください。とにかく何でも美味しいので」

「そ、そうだった。おなか空いたよねー」

「以前、生肉が好きと書かれてました。高尾山の骨付きの生肉があると良いのですけれど」

「そ、そう! 生肉最高! ガツガツいくぜ! あははははは」

 俺はわざとらしく大きく笑った。ネットに書いた滑りネタを引っ張り出されて焦った。

これ、騙されてないよな。いわゆるデート商法って奴じゃないよな。まさか! 俺は単なる高校生。庶民の未成年を騙してもメリットはないどころか、もし犯罪者の一味が計画的に手引きしているなら、むしろ逮捕されるリスクが高くなるじゃないか。考えすぎだ。

 俺は頭をふるふると降り、彼女の小さな頭部を見つめてじんわりと感動に浸った。


*


 電車を降りるとタクシーに乗り換えた。親以外とタクシーに乗ることなど滅多になく、柄にもなく俺は緊張した。五分ほど走って、豪奢な建物の前で停止した時、心の底から安堵した。彼女を制して支払いを済ませる。短い区間で助かった。

「あとでお支払いたします」

「いいよこれくらい。けどこの距離なら歩いても問題なかったのに……」

「こちらの事情です。この時期ともなると、どこの諜報機関に狙われているかわからないので、面倒でも複雑な移動方法を心掛けなければいけないのです」

 どの時期だよ。とツッコミたかったが我慢した。

 巨大ビル群に隠れた城めく建築物は、異国の観光地にありそうな外観を呈している。看板に綴られた外来語が何語か判然としないが、明らかに英語ではなかった。

 ここで何を食べるんだ。心の中では大いに怯み、今すぐ回れ右して逃走したい気分だが、びびらないで付き添う今でさえ自分のキャパを余裕で超えてる。

 貴族の洋館めいた瀟洒な内装。彼女と共に執事めいた男の誘導についていった。

 食器が並ぶテーブルを挟んで彼女と会話を交わしていると、上品な皿に飾られた洒落た料理が運ばれてきた。見よう見まねで彼女の動きを追い、食べ物を口に運ぶ。うまい気がする。だが、何せ少量なので物足りない。

「お口に合うといいのですが。あなたのお好きな食べ物は何ですか?」

「好きなものはカレーとか焼肉とか定番なものが好きかな」

「毎日食べても飽きませんか?」

「さすがに毎日のローテじゃ飽きるけど、カレーなら三日連続いけるかもしんない」

「では人生で一番最後に食べたいものもカレーですか?」

「あーそれか。最後にねえ。迷うけど、そうだなあ、かつ丼かなあ」

「かつ丼?」

「好きじゃない? 女の子だもんね。厚めのジューシーなとんかつに、とろとろの卵、炊き立てご飯に、甘めの汁。表面に軽く海苔をパラつかせて、紅生姜も欠かせない……あ、ごめん! うちの母親が縁起を担ぐ人で、試験の日とか大会の日とか、ここ一番の時にはかつ丼を用意するんだ。だから、なんというか、特別感があるんだよ」

「特別な時にはお赤飯を食べるのではありませんか?」

「お祝いの時じゃないかな、それは」

「お母様の手料理を最後に食べたいと望むなら、死を迎える時にも、お母様と一緒にいたいということでしょうか」

「いやいやいや、母ちゃんの飯にこだわりはないってば。マザコンじゃないし俺」

「では、もし明日死んでしまうとしたらどうしますか。ほとんどの方から、家族と共に過ごし、普段と同じ生活を送りたいという答えが返ってきます」

「まあ、そうだねえ……普通はそうかも。けどどうかなあ。俺は君みたいなかわいい子と過ごせたらいいかなって思うよ。だって、可愛い子と一緒にいたら最後まで格好つけていられるでしょ。なんつーか、最後の最後にびびって泣きながら死ぬのは嫌かなあって」

 俺は切り分けられたステーキを咀嚼しながら答えた。これは何肉だろう。鶏や豚ではない気がするが、よくわからない。

「アンちゃんはどう? 最後の晩餐には何が食べたい?」

「アンでオーケイです。そうですね、私もかつ丼がいいです」

「え、いや、そこは気を遣わなくても」

「いいえ。特別な食べ物だから食べたいのです」

 アンは居住まいを正してにっこり微笑んだ。上品な彼女がかつ丼を掻っ込んでいる姿をとても想像できなかった。食べ終わるまでに一時間はかかりそうだ。

「もっと質問してもいいですか? モンのお話をたくさん聞かせてください」

「もちろん! 何でも聞いて! なんかテンションあがってきたし」

「では質問します。どうしてあなたは今日、私と会うことを了承したのですか」

 まるで面接だと思った。しかし口に出す雰囲気ではなかった。アンがワイングラスの形をした容器内の水を飲み干すと、給仕がタイミングよくおかわりを注ぎ始める。

「彼にもお水を」

「あ、俺はいらない。水は味がしないからあんま好きじゃないんだよね」

「どんな飲料水がお好きですか?」

「購買のコーヒー牛乳とか基本甘めが好きかも。あと炭酸系!」

「ペリエをいただきましょう」

 彼女が手をあげると給仕が恭しくグラスを運んできた。

ぱちぱちと新鮮な炭酸が弾ける透明な液体を口に含むと、想定していた甘味がなくて驚いた。大人の味だ。反射的に顔を顰めそうになったが、筋肉を固定して笑顔をキープする。うん。まずい。

「豊かな水源に恵まれた日本でもペリエを好む方もいるのですね」

「か、身体に合ってるのかなあ。俺は一般的な日本人とは身体の作りが違うし!」

 どうとでも解釈できるよう曖昧に答えると、彼女が地球の水事情を話し始めた。

「二十世紀後半から爆発的に増えた人口が今では百億人を突破しようとしています。各国は食べ物や資源の確保だけでなく、水源の確保にも力を注ぎました。日本は海洋国家な上に充分な森林があり、四季という気候にも恵まれております。レストルームで手を洗う蛇口の水はもちろん、ひいては、水洗トイレの下水移動の水ですら充分な容量であり、ましてや飲料水としての条件を満たしています。そんな国は世界でも僅かです」

 何を言っているのかさっぱりわからないが空気を読んで同意しておく。

「ペリエがお好きなのですね」

 彼女が鞄から取り出した端末機に何かを入力し始めたので、テーブル脇に置かれたパンを齧った。俺こそ不思議に思う。彼女はネットに蔓延する男共が血眼で食いつくほどの美少女だ。ネタじゃなかった。本物の、謎めく美少女だった。

 むしろこっちが質問したい。

 ――どうして俺なんかとふたりで会う約束を持ちかけてきたのかと。


 *


 食事を終えた俺は急に現実に呼び戻された。外国のコース料理だ。果たして支払いは幾らになるのだろう。俺の持ち金で足りるだろうか。そもそも彼女が注文してしまったのでメニュー表を見ておらず、料理の値段がわからない。テーブルの食器を下げられ、卓の給仕係が姿を消した隙をついて、俺は小声で彼女に窺いを立てた。

「あのさ、こ、ここの精算って幾らくらいかな」

「今まで自分で支払ったことがないのでお値段がわかりません」

「そ、そう」

 途端に全身から汗が吹き出し、目の焦点が合わなくなった。地面がぐにゃりと歪んだ気がする。美少女との食事に悦び、浮かれるままにホイホイと着いてきたはいいが、気づけば無茶な請求をされる罠だったのかもしれない。

「大丈夫。払わなくてもいいですよ」

「そんな! ダメだよ。君に払わせるわけには……せめて自分のお金だけでも……」

 彼女が眼球だけを左右に動かして周囲を窺い、俺の耳元でそっと呟いた。

「逃げましょう」

 言葉の意味を考える暇もなく、彼女に引っ張られるまま走り出していた。他のテーブル席に客はいない。給仕もいなかった。レジも置かれていなかった気がする。店を出ると、建物の裏口へ通じる簡素な廊下を進み、階段を上ると、路地裏らしき地上に出た。

 人工的な照明に慣れた目に太陽が眩しかった。

 無銭飲食! 犯罪に手を染めてしまった! 親バレしたら殺される。百メートルを走り抜け、横断歩道で立ち止まると、彼女が高らかに笑声をあげた。柔和に目尻を下げて、大口をあげて、腹を抱えて笑っている。――こっちは顔面蒼白だというのに。

 彼女が滲む涙を指先で拭って、笑いかけてきた。

「問題ありません。精算は済んでいます」

「だ、騙したの?」

「ごめんなさい。私は嘘つきなんです」

 彼女がぺろりと悪戯げに舌を出した。悔しいが、こんな使い古した漫画テイストな仕草も可愛い。俺は緩みそうになる頬を叩き、否定するように首を振る。

「それとこれとは別。食べた物の料金は払うよ」

「では百万円ください」

「ひゃ……!」

「嘘です。カードがあるので問題ありません。ちなみにカードの限度額は無制限なのでまだまだ使えますよ。必要なものがあれば買いますので言ってください」

「よくわからないけど、カードを使ったらいずれは返済するんでしょ?」

「かもしれません」

「……かもって……その……もしも……例えば、君の親が果てしなくお金持ちで、親が払ってくれるとしても、お金はお金。そこはきちんとしようよ」

「わかりました。最後にまとめて精算しましょう」

「うう、それだと落ち着かないな。なんか俺、カッコ悪い」

「先ほどタクシー代を出していただきました。私は移動費の半分を精算していません。今の理屈でいくと、半額を支払わない私は悪人となります」

「タクシー代みたいな少額は問題にしてないでしょ。それに、俺は男だし」

「お金はお金。そこはきちんとしようよ?」

 彼女は俺が放ったばかりの言葉を復唱した。当たり前の台詞であるはずなのに、なぜか恥ずかしくなって赤面しそうになる。彼女がふふと小さく笑った。

「嬉しかったんです。今日、思い切ってあなたを誘ってみましたが、本当に来てくれるかどうか不安でした。からかわれていたらどうしよう、現れなかったらどうしようと。ご存じでしょうが、私には友達がいません。同年代の異性とふたりで食事なんて初めてです。とても感謝しているんです。だから……あなたが嫌になったらいつ解散しましょう。いつまでもご迷惑をかけるわけにはいきません。あなたにはあなたの人生がありますから」

「迷惑なわけないよ! 迷惑じゃない!」

「本当ですか。ではもうしばらくお付き合いしていただけますか?」

「当たり前じゃん。まだ時間はたっぷりあるんだし」

「……いいのですか。私といても。時間はとても貴重で、有限なのですよ?」

「むしろいたい。いさせてちょーだい」

 俺が軽いノリで高らかに叫ぶと彼女が寂しそうに微笑んだ。

「どうしよっか。映画でも見る? ハリウッド映画で派手なやつが公開してたような気がする。CМを見る限り、けっこう面白そうだったよ?」

「天変地異が起きて地球のあちこちが破壊される映画ですか?」

「あ、もう見た?」

「映画がお好きなんですか?」

「うん割と。アクションとか戦争ものとか好きかも」

 彼女が端末を操作しはじめた。さっそく上映時間を検索しているのかもしれない。だが彼女は端末をしまうと、映画の話題には触れないまま、にっこりと微笑んだ。

「買い物にお付き合いいただけますか?」

「え、うん。オーケイオーケイ。どこだってつきあうし。行こう行こう!」

 しばらくは他愛もない話をしながら舗道を歩き続けた。

初対面の、しかも美少女に食事を奢らせてしまった罪悪感が募る。スマートに自分がご馳走してあげたかった。自分の経験のなさが心底恨めしい。何か挽回する策はないものか。

 そこで俺は閃いた。食事を奢ってもらったお礼に何かプレゼントしようと。どうせなら、とびきり彼女を驚かせて、彼女に喜んでもらえるものが良い。

「女の子って何が好きかな? もらって嬉しいものとか何かない?」

「私は言葉です。優しい言葉が大好きです。だから、ついネット上に相談事を書いてしまうんです。みなさん、親身になって優しい言葉をかけてくれるから」

「……へ、へえ」

 大丈夫かな。普通は甘い言葉には気をつけろと教育されそうなものなのに。

「特異なやり取りが面白く、語学と心理の勉強にもなります。日本の男性が一番優しいですが、次点で中国のユーザーも優しくしてくれました。あとイタリアも優しいです」

「外国でも書き込みするの! あ、そか。八か国語を使いこなすんだっけ。日本語と英語と中国語とイタリア語と……すごいな。他には他には?」

「は、はい。え、ええと、その」

 彼女が俯いて指をもじもじさせている。困らせてしまったらしい。追いつめたくはないのに、少しだけ意地悪してみたい誘惑がむくむくと台頭してくる。

「世界情勢にも詳しいんだっけ。俺は頭が悪いからわからないけど、南米には幾つ国があるとか、人口や面積がどれくらいとか、そういうのも頭に入ってたりして」

「え? ええ、まあ。あの、興味があるんですか」

「ブラジルって南米だよね。サッカーの。人口はどれくらいいるの?」

「そういった基礎情報は検索すれば容易く知れますので、端末でどうぞ。ではこちらからもお聞きします。ご自分の住所はご存じですね? お住まいの町内がどれほどの面積が知っていますか? 町内の世帯数は知っていますか?」

「う。知らないけど……」

「先ほどの質問はそれと変わりません」

 うまくはぐらかされた気がする。

「こちらも質問させてください。あなたの右腕に装着できるというサイコガンの動力源、放出量、標的への照度、その精度、そして接続部分の神経や筋肉組織の構造形態など……」

「ああっとごめん。話が脱線した」

 俺は空気中の塵を払うように両手をばたばたと泳がせた。こほんと咽喉を整える。

「それで。世界中を股にかけてどんな相談をしたの?」

「特に代わり映えはしません。経験された初恋や恋愛について教えていただいたり、理想のデート、理想の出会い、理想の結婚、理想の暮らしを聞いたり、どうやって死を迎えたいか、どう死と向き合うか、死んだら人はどうなってしまうとか……恥ずかしながら、私は未知への憧れを抱くと同時に未知への恐怖に怯えているのかもしれません」

「そっか。みんな優しかった?」

「中でも、同年の異性ではモンが一番優しくしてくれました」

「俺! 俺が一番? 世界で一番?」

 彼女がこくりと頷く。

「優しい言葉には優しい気持ちが宿っています。それが伝わってきます。優しい言葉は何にも替え難いあたたかさを持っています。それが例え……嘘であっても」

「嘘であっても?」

「嘘でもいいのです。目を閉じて信じれば、それが本物になるから」

「……よくわからないけど……」

 言葉でいいなら出し惜しみはしない。金がかかるわけじゃない、どこかを痛めるわけでも何かを失うわけでもない。彼女が喜ぶなら自尊心など捨ててやる。むしろ格好良く言ってみせる。砂を吐いてでも! 気障でも萌えでも!

 今は非日常であり、夢の渦中にいるようなものだから、神様も許してくれるだろう。

「女の子って服とか鞄とかアクセサリーとか、そういうものを欲しがるのかと思ってた」

「なるほど、女の子はやはり身に着けるものを好むのですね」

 彼女がふむふむと興味深そうに頷く。

「うちのクラスの女とかだと、彼氏とお揃いのものなら何でも嬉しいみたいだけど」

「好きな人とのお揃いの物は嬉しいと思います。同調の心理はわかります」

「君は興味ないの、そういうものに」

「服は用意されるものを着るだけです」

「欲しいものはないの? 彼氏ができたら買ってほしいものとか」

「……お花を贈っていただけたら最高に嬉しいです。夢でもあります」

「花! きたきた! 花! いいよね花! 女の子っぽい!」

「女の子っぽいですか!」

 彼女の顔がぱあっと明るく輝いた。世界一の美少女の世界一の笑顔だと思う。

「うん。女の子っぽい。だって俺は花を貰っても嬉しくないもん。いや嬉しいけど、なんつーか、いつかは枯れちゃうものだから、なんか寂しいというかもったいないというか、どうせなら形に残るものの方がいい気がするんだ」

「男の子はバレンタインチョコを楽しみにしているのではありませんか? そういう意味では食べ物も消えてしまいます」

「あれは別物。チョコそのものより気持ちが嬉しいわけで。あ、そうか。花もそういうことなのかな。……うん? だとしたら花じゃなくても、他のプレゼントにも気持ちがこもっているような? わからないな。どうして花が好きなの? 綺麗だから?」

「生きているからです!」

 彼女の目がキラキラと輝いた。植物を生き死にという観点で考えたことがない。茎を切って花束にした時点で死んだようなものだが、花瓶に液体を混ぜればしばらくは花開き続けると聞いたことがある。――いいじゃないか、花束。それなら俺にも買える。

 そこでふと疑問が頭をよぎった。

「服や装飾品に興味がないんだよね? 飯も食べた。これから何を買いに行くの?」

「銃です」

「は?」

 彼女が躊躇なく即答するので思わず声がひっくり返った。聞き間違いだろうか。ジューデス? ジュース? そうだ。きっとジュースだ。

「幾分迷っていたのですが、やはり必要だと思いまして。拳銃」

「あはは。だよねー。必要だよねー、銃。どうせ買うならサイコガンあたりにしとかない? レーザー銃もいいよ!」

「それらはどこで売っていますか?」

「どこって……暴力団の地下組織とか……?」

 面白いネタが思い浮かばず、適当に返事してしまった。彼女がうーんと唸ったあと、すいすいと端末機を操作し始める。

「日本では店頭で銃を買えないのに、所持を許された警察官以外にも銃を所有する人がいます。マフィア的な不法所持者はどこから入手するのでしょう」

「密輸?」

「監査機関が仲間であれば簡単ですね。または国内で独自に製造しても入手できます。あ、残念ですが、サイコガンは日本国内にありません」

「フ。奴らに改造されたこの右手にハマる極上のサイコガンがあれば、誰であろうと蹴散らしてやるものを――俺が求めているのは人智を揺るがすほどの強さ。強ければ世界を救える。この右手の封印を解いても容易に制御できる」

 俺は逆の手で支えた右手を開閉させながら天に掲げた。彼女は端末機で何かを検索しているらしく見事にスル―された。完全に滑った。俺は咳払いをして仕切り直した。

「よっしゃ! 最高のジュー(ス)を手にいれようぜ!」

「行きましょう」

 微笑んだ彼女に手を取られ、俺の胸がどきりと高鳴った。手が触れたのは初めてじゃないのに、小さく柔らかいその感触が愛おしくてたまらなかった。


 *


 電車とタクシーを乗り継ぎ、彼女に案内されたのは八割ほど利用された駐車場。自動精算機のセキュリティゲートを潜り、俺たちは奥に停車した車の影に隠れて屈みこんだ。

「何ここ。買い物しないの? 新しい隠れんぼ?」

「少し待ちます」

 彼女が端末機を操っている間、俺も時間を有意義に使おうと自分のスマホで検索を始めた。もちろん、彼女に気付かれずに花束を用意するためだ。スマートに渡したいので、こっそり花束を受け取り、効果的に彼女へ渡せる場所を探ってみる。

 しかし、頻繁に起きる電波障害に邪魔されて通信を遮断されてしまった。

「くそ。回線が切れた。ええと、そっちは繋がってる? どこのスマホ使ってるの?」

 彼女が慌てて端末機を背後に隠した。

「あ、あのその、私のは仕様が異なっていて、その、売り物じゃないんです」

「まさかの自作!」

「これはNSAから支給されたものです。この端末は、世界の誰からも傍受される心配はありません。例外としてNSAの一部だけはアクセス権限がありますが、きっと彼らは私の端末情報にはさほど興味を持たない。意味もありません」

「N……て、あれ? ナサ! 宇宙局の? あはは。違う? けどまあ、俺のスマホだってSNSに繋げられるから、仲間みたいなモンじゃん?」

 彼女が誤魔化すように愛想笑いを浮かべた。

 数分後、一台の高級車が横付けされた。助手席の窓が開くと同時に彼女が軽快な足取りで近づき、何か袋を受け取った。俺はぎくりとした。車を運転しているのは明らかに堅気ではない中年男性だし、助手席にいるのも外国人だったからだ。

 嫌な脂汗が出た。車は精算ゲートを潜り、ものの数秒でいなくなった。彼女に手を引かれて駐車場を後にする。何が起きたのか、答えを聞くのが怖くて質問できなかった。

 ――本物だったらどうしよう。

 いや、まさか。そんなわけがない。疑念が湧いては頭を振って払拭する。彼女は紙袋を小脇に抱えて平然としている。本物じゃないだろう。この日本で、本物の銃があっさりと手に入るわけがない。もし。仮にだ。仮にあれが本物だとしても、彼女は何に使用する気なのか。緊張のせいか咽喉が渇き、ごくりと大きく鳴ってしまった。

 小さな公園に誘導され、俺たちは石造りのベンチに腰かけた。意識は彼女の膝に置かれた紙袋に集中している。聞きたいけれど聞きたくない複雑な心境だった。

「焼き芋」

「え、あ、え、何! 焼き芋っ?」

「こちらで焼き芋を売っているはずですがお店がないようですね」

「車で移動することもあるみたいだからどうだろう。お店はないよ? 焼き芋を食べたことない? 食べたい? ここで待つ? それとも適当な店を検索してみる?」

「いえ、ここで待ちます」

 彼女が動くたびに膝上の紙袋ががさごそと揺れる。そんなわけないと言い聞かせながらも、包みの中身が気になって仕方なかった。意識すればするほど視線を持っていかれる。

「気になりますか? サイコガンではありませんよ?」

 彼女がくすくすと笑い、紙袋から黒く磨かれた銃を取り出した。銃を目にした瞬間、全身の血の気が凍りついたように悪寒が走った。銃! 嘘だろ、銃て!

 きょろきょろと周辺を確認したあと、彼女が指をトリガー部分に添えた。

「型番や名称がわかりませんね。モンはわかりますか?」

「――いやごめん」

 俺は反射的に立ち上がり、彼女から距離を取った。銃から目が離せない。目の前で起きていることが現実か否か自分でもわからなくなり、茫然とする他なかった。

「ごめん。ほんとごめん。嘘なんだ。ネタだったんだ」

「どうしました?」

「ネットに書いてたのはネタなの。わかるよね? 中二ネタ。俺は改造されてないし、右手にサイコガンもつけられないし、邪悪な何かも封印されてない。世界を救う力なんてないし、超能力もないし、神様も召喚できないし、宇宙の因果律を歪めることもできないし、太陽も壊せないし、タイムリープもしてない。この右手も左目も一般的なもので――」

 彼女が首を傾げてぼんやりと俺を見上げている。ああくそ。可愛いな。

「ごめん。俺、何言ってんだろ。いくら何でもネタを信じてるわけないか。こんなこと説明するようなもんでもないけど、ほら、見てわかる通り、俺は普通の高校二年で、普通に学校に通って普通にテストの成績も悪いし普通にだらだらして普通に目的なく生きてるだけの、中肉中背、顔もフツメン、腕力もふつー、部活もしてないし、特殊技能もない、本気で普通の男なんだ。てかわかるよね? ね? 全部嘘だし、ネタだから」

「はい。普通の男子高校生です」

 彼女がこくりと頷く。少しホッとしたが、彼女の手には非現実を極める黒い拳銃が収まっている。彼女が不意に目線を下げた。

「私は嘘つきです。本当のことを話せば誰も近寄ってこないでしょう。わかっています。多分あなたも会ってくれなかったはずです。だから本当のことを言うのが怖いのです」

「う、うん?」

「私は裕福な両親から充分な生活費をもらって一人暮らしをしています。学校には通っていません。何でも買えます。何でも買えますが私には友達も恋人もいません。恋愛だってしたことがありません。そんなどうしようもない空虚な人間なのです」

「そんな言い方……!」

「ごめんなさい。私はあなたを騙しています。私は嘘つきです」

「いや問題はそこじゃなくて……別に、嘘くらいみんなついてるし、それ言ったら俺だってアホネタ書いてたし、だから嘘はどうでもよくて……今はその、銃というか……」

「これですか」

 彼女がトリガーに人差し指を突っ込んで乱暴にくるくると回す。焦心した。銃が暴発したらどうなのかと、俺はあわあわと言葉にならない叫びをあげるしか出来なかった。

「これは玩具です」

 彼女が銃を振り下すと、かちりと音がして蓮根状のシリンダーが外れた。銃弾を装填する箇所がなく、プラスチック樹脂みたいなものが埋まっている。安堵したせいで全身の力が抜け、がくりと膝が折れた。俺は顔中に垂れる汗をぐいぐいと腕で拭った。

「びびったぁー」

 急に可笑しくなってきて俺は大声で笑った。どれだけ金持ちで謎めいた美少女でも、拳銃をやすやすと手に入れられるわけないじゃないか。拳銃だぜ?

 その時、古めかしいワゴン車が公園を横切り、彼女が立ち上がる。

 もしかして焼き芋か。彼女が気迫に満ちた足取りでぐんぐんと車に近づいてゆく。そういえば彼女は現金を持ち歩いていない。さすがにカードで焼き芋は買えないだろう。

 彼女が短いやり取りの後に紙袋を受け取った。緊張しているのか、やけに真摯な表情をしている。俺はスマートに財布を取り出した。

「おじさん、幾ら?」

 声をかけると、彼女の肩がびくりと揺れた。毛糸の帽子を被った背骨の歪んだ老齢の男性が、困惑したように目を細めて俺と彼女を交互に見る。

「わ、買っていただけるんですか!」

「うん。幾ら? 千円で足りる?」

「足ります! ありがとうございます! ではごきげんよう。行きましょう!」

 彼女に急かされるままタクシーに乗り込んだ。今日一日で一生分のタクシーに乗った気分だ。贅沢な浪費だなと思う。だが――どれだけ金をドブに捨てたとしても、彼女に手を引っ張られると抗えるはずもなかった。

 後部座席に乗り込むと、行く先を告げる前にタクシーが動き出した。

「ベンチで芋を食べてから移動しても良かったのに」

「お腹は空いてません」

「買ってみたかっただけ……? ふむ、では次はどこへ参りますかお姫様?」

「実はお願いがあります。いわゆる日本でいうところの一生のお願いです。もちろんあなたには拒否権があります。ダメならダメで断っても構いません。いえ……しかし無理を承知でお願いします。私とホテルに行きませんか」

「ぶっ」

 俺は思わず吹き出した。飲料水を口に含んでなくてセーフだった。

「ほて、ほて、ホテルぅううう?」

「ダメですか? ダメですよね。すみません。わかっていたんです。断られて当然です。これは完全に私の我儘ですし、あなたの人生を決める大事なことですから」

「いや、なんつーか……えと、ええ?」

「私なら平気です。お気になさらず。あなたに断られたら他の人を探しますので」

「どういうこと? てか、別に俺はいいけど……ええ? いいの本当に?」

 急展開すぎて俺は混乱した。何だこれ何だこれ。どういうことですか。騙されている以上に騙されている気がする。こんなこと現実に起きないだろう!

 彼女が小さな握力で俺の手をきゅっと握った。

「……いいですか?」

「いいも何も」

「後悔しませんか?」

「それはしない! するわけがない!」

「……本当の本当に? よく考えてください。嫌だと泣き叫んでも帰してあげませんよ?」

「女の子のセリフじゃなくない? それ」

「ではいいのですか? 傍にいていただけるのですか?」

「う、うん」

「何でしたら、今からご友人やご両親をお呼びして同行されてもいいのですが……」

「はあ! ない! それはない!」

 彼女が愛くるしい瞳で見上げてくるので、くらくらと眩暈がした。

「一緒にいてくれますか?」

「いいに決まってる! むしろ、こっちこそいいのかなって気持ちだし」

 俺が苦笑に近い感嘆を漏らすと、彼女が消え入りそうな声で良かったと呟いた。健気な声音に胸を射抜かれて萌え死ぬかと思った。心臓が破裂しそうです神様。

「外幸町の万國ホテルまで」

 彼女が指定したのは都内でも有数の高級宿泊施設。もちろん俺のようなガキが足を踏み入れるような場所じゃない。マジか。一泊幾らするんだろう。下心に直結するホテルではなかったことに落胆したがそれはそれで構わない。彼女と出会ってから数時間というもの、ありえない非日常ばかりが押し寄せてきて頭の針が振り切れそうだった。


 *


 重厚な正面入口が微かに見えたあたりで俺たちはタクシーから降りた。現実感に乏しい半透明な気持ちで支払を済ませると、彼女が運転手と握手していた。

「どうか、お心安らかに」

 運転手はだらしなく顔を崩して去っていった。俺は軽く口を窄める。

「何。知り合いだったの?」

「いいえ? 行きましょう」

 つまらない蟠りが燻ったものの、彼女に手を取られた瞬間に不貞腐れた気持ちが吹き飛んだ。そうだ。手が何だ。こんなに可愛い彼女と一緒にいるのは俺。この世で俺だけ。

 正面入口前をずらりと占拠する黒塗りハイヤーが艶やかな輝きを放っている。

 制服を着たベルボーイが金色のラゲッジカートを運んでいる。颯爽としつつ、とても洗練された機能的な動きは訓練された軍隊のようにも見えた。

 初めての別世界は眩しすぎて直視すると目が潰れそうだ。怯えた小動物の動きで彼女の隣を歩く。行き交う人々の服装からして別世界だ。セレブだ。マダムだ。宝石だ。トレビアーンだ。俺は東京生まれ東京育ちなのに、完全に田舎者のそれだった。

「モン。知人を見つけましたので挨拶してきます」

「え、え、ってか、俺どうすればいいの! チェックインするの?」

「ご心配なく。案内に従ってください」

 後ろで待機していたスタッフを呼び、彼女がカードキイらしきものを見せた。

 若い男子スタッフが慣れた動きで誘導してくれる。制服の彼ですら立派な装いをしているのに、俺ときたら、気合のいれたデート仕様だとはいえ、普段着丸出しじゃないか。

「あのう、すみません。こんな恰好で……怒られませんかね」

「どうかお気になさらずにお寛ぎください。不便がありましたら何でもお申し付けください。必要なものなどはございませんか」

「あ! 花!」

 俺は早口で注文した。彼女に似合う凜として愛くるしいイメージに合う花束を、奮発した一万円の予算で見繕い、効果的なタイミングで届けてほしいと。

「畏まりました。では夕食をお運びしてから一時間後にお届けいたします」

「お願いします! マジお願いします! ありがとうございます!」

 部屋に案内されると思っていたら五階フロアでエレベータから下され、男子スタッフは正しい角度で一礼して去った。ここで待てばいいのか? 手持無沙汰にもほどがある。

 場にそぐわぬ服装が恥ずかしく、慣れない空間に一人だと心細い。所在なく壁際に立ってセレブたちを見渡した。そして驚いた。有名俳優の顔を見つけた。国民的アイドルも。若き企業家として名を馳せる金持ちも、日本の伝統演芸を背負う若さまも、国内で知らないやつはいない二世議員や海外チーム所属のスポーツ選手までいる!

 異世界だ。俺はついに次元を超えてしまった。――よし、トイレに行こう。俺にはそれしか道が残されていない。しかしそれだとアンジェラとすれ違う可能性もある。くだらない逡巡をしていると、彼女が中年男性を連れて戻ってきた。高級スーツの紳士はどことなく儚げに見えた。こちらに会釈したあと、紳士は彼女と握手を交わしてから踵を返した。

「忙しい方なのです。会えてよかった」

「ええと、親戚のおじさん? まさかお父さんじゃないよね?」

「外務次官です」

「ああガイム時間の人ね。へー。忙しい人だよね、時間外勤務やらされたりして」

 適当に知ったかぶりしてみるも、彼女が気を悪くする様子がなくて安堵した。

「そだ。あっちにアイドルがいたんだよ! サインとか貰えるかな!」

「行ってみましょう」

 彼女が声をかけから交渉まで一切を請け負ってくれた。サインの他にもツーショット写真まで撮ってもらった。浮かれる俺を咎めるどころか、まるで公園遊ぶで幼い息子を見守る母親のような慈愛に満ちた温かい目を向けてくる。

「てかアレ! やべー、総理大臣じゃね?」

「そうですね。挨拶してきましょう」

 彼女がすいすいと人垣を縫うように前進し、首相と対峙した。俺が同じことをしたら不審人物として撃ち殺されるだろう。というかその前に、首相に挨拶する度胸がない。

 距離もあった上に、使用言語が英語なので内容がわからないが、最後はお互いに日本語で「お元気で」と励まし合う口調だったのが恐ろしく印象に残った。

 何者なんだ彼女は。

 この異世界に集うモンスターに劣らず――いやむしろ他の誰よりも場に馴染み、堂々と振る舞っている。状況が生み出す興奮の連鎖に呑み込まれて脳の処理が追いつかない。

 彼女を追ってエレベータに乗り込む。まだ心臓が早鐘を打っている。

「やべー、何なんだこれ。何なの今日は。宝くじに当たるより凄いんだけど! サイン貰っちゃったサイン! みんなに自慢しよ! ああ畜生。何なんだよ。また電波が届かないし。つか、首相と顔見知りとか凄すぎ! なんでなんで!」

「あとで説明します」

 高速エレベータの浮遊感は目的地が上なのか地下なのか判然としない。時として、ありえないことだが横にも移動している気がした。

 エレベータを下りると重厚なガラス扉に先を阻まれた。アンジェラがカードを翳して指紋照合をすると扉が開く。この過程を四回ほど繰り返す。更に別のエレベーターで地下に移動し、ゲートをふたつクリアして、ようやく目的地らしき部屋に到着する。

 実に近未来的だ。俺の興奮はちっとも醒めなかった。

 巨大金庫の扉によく似たドアが開く。研磨されてピカピカに光る表面に手を伸ばしかけて引っ込める。迂闊に触れると警報が鳴りそうな物々しさだった。

 室内はシンプルな家具や機器で統一されている。未使用の台所と最新式らしき風呂場が新居を連想させた。居間と収納スペースの他には寝室。複数人が同時に眠れるであろう優雅なベッドに目が釘付けになった。一瞬だけ胸が昂揚したが、別に俺がここに宿泊するわけじゃないことに気付き、平静を取り戻す。

 六十インチのテレビを見つけたので電源を入れてみる。外部機器と直接繋がっているのか映画が映し出された。しかも日本で公開されたばかりの、先ほど彼女を誘ったハリウッド映画らしかった。ふむふむ――すでに視聴済みならば劇場へ行く必要もない。

 ふかふかのソファに腰を沈めて映画に見入る。家族が幸せそうな笑顔で日常を送る冒頭シーン。テレビ広告で何度も繰り返された印象的な破壊シーンが頭をよぎる。前半は平凡でありきたりな日常が続くものの、やがて起きる天変地異によって打ち砕かれ、地球のあちこちが壊滅してゆく。絶望的な環境におかれた中、家族愛や友情や恋人との関係を再確認し、改めて平和の大事さを訴える、いかにも米国的なお涙ちょうだい展開なのだろう。 

 陳腐な構成だが映像が派手なので飽きることなく視聴してしまう。気づくと彼女が隣に腰かけており、苦い炭酸が注がれたグラスを渡された。

「米国では公開終了した作品です。映画お好きですよね。他にもたくさんありますよ」

「マジで? 見放題?」

「お好きなだけどうぞ。これから夕食を頼みますがご希望はありますか? 他に何かほしいものはありますか? 必要なものがあれば遠慮せずに言ってください」

「何だか仰々しいなあ。そだ。夕食ナシって母親にメールしとこ」

 だが例のごとく、俺のスマホは繋がらなかった。どんだけ役立たずだ。

 ぶ厚いステーキと豊富な温野菜、あたたかいスープが用意される。食事しながら他愛もない会話を交わしていると、彼女の表情と口調が不自然なほど固くなった。

「あの、他に何か注文されました? 届け物があると言われたのですが」

「あ! うん、あ、そうだ。俺が注文したものがあったわ。けど、まあ、うん、あははは、いや大したもんじゃないから」

 俺は曖昧に場を濁した。サプライズ演出に彼女が驚き、喜んでいる顔を想像すると、どこか得意げな笑みを隠しきれなかった。そうだ。花が届くのは夕食が運ばれてからきっかり一時間後だった。そうして俺は気付いた。――この部屋には時計がない。

 食事の時間から逆算するとそろそろ予定時刻のはずだ。機械的なブザーが鳴り響き、彼女が立ち上がった。ドキドキする。彼女は驚くだろうか。喜ぶだろうか。さすがに泣きはしないだろう。彼女の反応を想像するだけで異様な緊張と興奮に襲われた。

 玄関先から小さな悲鳴が漏れる。――キャッて。キャッて。ぱたぱたと急ぐ足音と振動が伝わってきて、俺は素知らぬ面持ちを繕った。だがどうしても頬が緩んでしまう。

「花です! もしかして私のために用意してくれたのですか!」

「えー、うん、けどそんな大したことじゃあ……」

「……感激ですっ! どうしよう、まさか、信じられません」

 彼女が花束をそっと抱きしめて口唇を震わせている。声は揺れているが泣いてはいない。泣いてはいないが、大切な壊れ物を扱うように花束を抱えている健気な姿に、こっちこそが感動を覚えた。良かった。成功したらしい。思い切って一万円使って正解だった。

 想像していたよりは控えめな花束ではある。彼女は花をじっくり見つめた後、そっとテーブルに置くと、俺に抱き着いた。ハグ。二人きりなのにハグて!

「ありがとうございます。私は今日のことを絶対に忘れません」

「こっちこそ忘れられないって、だって、俺こんな」

「さっそく活けてきます!」

 あっさり身を離すと、俺の言葉を遮って彼女が台所へ走ってゆく。俺の腕は疾風のように過ぎ去った体温を探すように空を泳いだ。ちょっと待った! 余韻プリーズ。

 清楚で可愛くて真面目で不思議で嘘つきな彼女が無防備な様子で花瓶を用意する間、緩む頬を押さえながら別のアクション映画を見始めた。

 ペリエとか言う苦い炭酸はまずいので、彼女の姿がないことを確認してから排水溝に捨てた。ごめんなさい。業務用の大きな冷蔵庫には九割以上が水の容器で埋まっていた。彼女の好みなのかホテルの配慮なのか、ジュースや珈琲や酒類などは見当たらない。

 銀色のワークトップに玩具の銃が収まっていた紙袋が置かれている。俺は黒い玩具を手で弄びながら、頭に引っ掛かっている違和感の正体を考えた。なぜ彼女はこれを欲したのか。どうしてすぐに手配できたのか。あのアウトローや外国人は何者なのか。

 角度を変えて繁々と眺めていると、キッチンの端に放置された焼き芋の包み紙を見つけた。せっかく買ったのに食べないのだろうか。せめて皿に移してラップを――。

「え」

 想像よりも硬質な感触に驚いた。言葉が出ない。確実に焼き芋ではないし、食べ物ですらないだろう。この感触はまるで、そう、さっきの黒い玩具と同じじゃないか。

 反射的に中身を確認していた。手に馴染む拳銃の形をしていた。

「本物です」

 背後から声をかけられてぎくりとする。

「駐車場でダミーを受け取った後、他者の追跡がないことを確認し、焼き芋を買うという体裁で本物を購入。受け取る前に指定口座に入金済みです」

「本物ってどういうこと? 何? はは、嘘でしょ。なんで本物がここに?」

「万が一の保険です」

「いやいやいやいや、銃って。お、俺、そんなに悪いことしないよ?」

「私もできれば使いたくありませんし、使わずに済むのならそれがベストでしょう」

「ってか、え、あの、本物なのこれ。撃ったら死ぬの?」

「頭を撃ち抜いたら恐らく即死します」

 現状が理解できない。どこがどうなって今の状況に陥っているんだ。息を呑む。居間に置いてあるスマホを取りに行こう。ここを出た方がいい。しかし彼女を刺激するのも得策じゃない。スマホを諦めるか。だが俺の情報がたらふく残っているし、撮ったばかりの有名人との写メも捨てるには惜しい。もはや頭が恐慌状態に巻き込まれていた。

「い、今何時かなあ。そろそろ家に帰らないといけないし」

「今は午後八時を過ぎました。そしてあなたがご自宅に戻ることはできません」

「は」

「もうこの部屋から出られません」

「な、何言ってんの」

「ここで暮らすのです。死ぬまで」

「死ぬまで」

 俺はただ馬鹿みたいに彼女の言葉を鸚鵡返していた。

「ついてきてください」

 彼女が居間続きの小部屋に足を向けた。誘導に従って中に足を踏み入れると俺は驚愕した。情けなく膝ががくがくと笑ってしまう。

 倉庫だった。幾つかの冷蔵庫と大仰な機械が並んでいる。その隣の棚にはレトルト食品がぎっしり詰まっていた。丼ものやスープもあるが半分以上がカレーだった。

「あなたのお好みがカレーでしたので増やしました。缶詰のカレーもあります。そちらの冷蔵庫にはペリエもたくさん用意しました」

「あの炭酸……? なんでそんな」

「この生活がいつまで続くか明確な時間がわからないので可能な限り取り寄せました」

「……マジで意味わかんない」

「あなたが、一緒にいてくれると言いました」

「言った。言ったけど、俺はそういうつもりじゃ……というか、俺もう帰る。帰りたい。なんかいろいろしてくれてありがたいけど、悪いけど、とりあえず帰る」

「もう扉が開きません。鍵を壊すのも不可能です。安心してください。トイレやバスには特別な濾過システムが使われていますし、食材も水も、映画だってたくさん用意しました」

「そんな、だってそれじゃ……」

 監禁じゃないか。その言葉を呑み込んだ。監禁犯に対してそれを指摘しても、例え罵倒しても事態が好転するわけもないし、彼女は実に周到で理性的だった。

「ここから出ることは叶いませんが、ひとまずこの部屋は安全だと言えます」

 自由を奪われて意志も殺される状況に安全も何もあったもんじゃない。

「お好きに過ごしていただいて結構です。何でも自由に使ってください。食べ物や水は有限ですので多少の節度は持っていただくことになりますがご了承を」

「俺、帰る」

 言いながら手にした拳銃を彼女に向けていた。撃ち方なんて知らない。暴発するかもしれない。そもそも撃ちたくないし、それらしいポーズをしてみただけだ。彼女が恐怖に屈してくれればそれで充分の、稚拙な脅しに過ぎない。

 彼女が何もかも悟ったような顔で小さく頷く。

「それは本物の拳銃ですが銃弾は装填していません。銃弾は私が管理していますので、銃はそのままあなたが持っていてください。できれば使いたくないものです」

「……くっ」

 俺は居間のスマホを拾い上げて玄関へ向かった。どれだけ厚みがあるか、頑強さはすでに目視している。だけど抵抗せずにいられない。ドアノブがない。扉の脇に近未来的なパネルが設置されているが、数字などは浮かんでおらず、操作方法が不明だ。無意味だとわかっているのに、無意識に拳で扉を叩いていた。叫んでも反響すらしない。肩をぶつけても一ミリも動かない。拳銃の照準を扉に合わせ、トリガーにあてた指を引っ張ってみる。かちゃりと音がしただけだった。拳銃を握りしめたまま、俺はトイレに籠城した。スマホは依然として圏外だし頭が真っ白なままだ。三十分を使って怯えをリセットしてから、足取りも重く、まるで死刑宣告された囚人のようにとぼとぼと居間へ戻った。

 テレビに映された映画の中で、惑星衝突を回避するために奮闘する外国人が喚いていた。

最後にはご都合主義という力技で、数人のヒーローが地球を救う内容だ。

「この映画は既に見ていますか?」

「……なんで……なんでそんなに普通なの」

「私は現状に導いた本人です。以降はいがみ合うより仲良くした方がいいと思うので」

「発想の転換か」

 俺は脱力してソファに倒れこんだ。そうか。俺がおかしいのか。もっと柔軟に物事を捉えてみよう。狂気を匂わせる不思議ちゃん美少女と死ぬまで二人きりで過ごす。前半のサイコ部分を削除すると、つまり美少女との結婚ともいえる。

 監禁ではない。この隔離された空間は逆にいうと邪魔者がいないともいえる。他の男の視線に嫉妬する必要はなく、俺だけが彼女に触れ、俺だけが彼女と見つめ合える。

 拳銃のせいで取り乱したが、よくよく考えれば状況はそう悪くない。

 映画を見ながら、思考停止した脳を働かせようと躍起になった。気づくと二本目の映画の上映会がスタートしていた。またもパニックアクション映画だった。

 俺は縮めた両膝を抱えていた。

「……どうして俺?」

「年の近い一般的な男子高校生であり、一番優しくしてくれたので興味を持ちました」

「普通の、その辺の、どこにでもいるような奴に興味を持つわけ?」

「出自や環境や展望など、あらゆる分野を多角的な視点で分析し、ほぼ平均値を弾きだしたあなたは、私にとっては最も非凡な存在。私は普通を知りません。普通の会話も普通の出会いも普通の恋愛も普通の生活も縁遠いものです。心から憧れていたものです」

「何それ。褒められてる気がしねー」

「会うことを快諾してくれた時の喜びは、あなたには想像がつかないでしょう」

「いや俺も嬉しかったよ。それは本当に嬉しかった。楽しみにしてた」

 俺はがくりと項垂れた。非日常を味わえると期待して、事実その通りに理想的に進捗し、彼女との時間を堪能した。だけどここまでの非日常は望んでいなかった。

「そして……あなたは一緒にいてくれると言ってくれました。その言葉がどれほど嬉しかったか。本当にごめんなさい。私は嘘つきです。あなたを騙して連れてきました」

「……君は何者なの」

「私はエージェントです。担当は日本。工作の役目を負っていましたが、今回のことが顕在化してから日本で親しくしていた一部の上層部に真実を伝えました。日本が私のルーツのひとつであること、そして、日本の上役たちが善良であったことに因みます。私は持っているカードを包み隠さず晒した。彼らも独自ルートで少しは情報を掴んでいたらしく、私の話を信じてくれた。本来、私は帰国して両親と共に過ごすはずでしたが情報提供の見返りに、日本の上層部がこの部屋を提供すると申し出てくれたのです。私は受けました。この部屋は、簡単にいえば堅牢なシェルターです。核シェルターとも呼ばれますね。首相や次官をはじめとする先ほどの顔ぶれは、私たちと同じくこの東京シェルターに留まるようです。シェルターの数は二百。家族で使われることが多いみたいですが、密室に集まる個体数が多いほど備蓄が減るので、同行者はあなた限定にさせていただきました。人は協力する生き物ですが三人いれば諍いが起きる確率が跳ね上がります」

 淡白な説明が機械音に聞こえてくる。もし彼女がアンドロイドでも俺は驚かない。

「なんでシェルターに避難? 第三次世界大戦とか核戦争でも起きるの?」

「……ここ数十年、地球は異常気象に襲われてきました。災害は人為的に起こすことが可能です。衛星から標的を捕捉し、照準を合わせてポイント破壊したり、衛星から照射する熱で海水温度を上昇させ、空の水分量を調整して雲を作ったり雨を降らせたり、寒気と暖気をぶつけてハリケーンを発生させ、自然災害に見せかけることもできます。もちろん、不可避な自然災害もあります。今回は後者です」

「何。隕石でも落ちてくるって?」

「太陽フレアをご存じですか? 恒星は炎上し、爆発も起こしており、その欠片が宇宙に飛び散ります。フレアは数万キロ規模の大きさで水素爆発の一億倍の威力だと考えられるのが通説です。地球に接近する際に激しいプラズマが発生して電磁嵐を起こしますが、昨今地球上で起きる電波障害や電力障害はこれらに由来しています。フレアから発生するX線、ガンマ線、高エネルギー荷電粒子の衝撃波は環境に多大な影響を及ぼします」

 何だか大規模な話になってきた。

「そのフレアがそれが地球に衝突するわけ? 映画みたいにミサイルで迎撃するとか、ほら、選ばれしヒーローがフレアに乗り込んで壊してくるとか、できないのかな」

「問題は衝突ではありません。フレアの大群が太陽系を覆って大規模な電磁嵐が巻き起こる上に、地球に太陽熱が届かず氷河期を迎えます。ちょうど一年前に、このフレアの塊が鏡のような反射を起こし熱が増幅することが判明しました。つまり氷河期を凌いだとしても、フレアの大群による温度上昇で地球表面の大半が蒸発する可能性が出てきたのです」

「はは。マジ? けどそれって可能性だよね?」

「確率の数値を質問しているのですか? 早ければ数週間後、遅くても三か月後には唐突な寒冷期がやってきます。シェルターの耐久数値は未確認ですが数年の維持を期待します。もし万が一にもフレアが消失してくれれば全滅は回避できるのですが」

「……俺ら死ぬの」

「みんな死にます」

 彼女の態度は冷静沈着、口調はまるで教授の御高説に等しかった。


 *


 初日は眠れなかった。彼女から、共に寝室を使おうと提案されたが気が乗らずに居間のソファに転がる。最新PCでネットに繋げたが、所詮はロム専。こちらからの発信が許されず、監禁された事実を伝えられず再び暗澹たる気持ちになった。

 ネット社会は相変わらず定番のつまらないネタで盛り上がっている。

彼女に騙された現実と変わり映えしない平常運転のネット社会――

 一体どちらが嘘なんだろう。


 *


 一週間が経過した。部屋から出られなくてもネットが繋がるので隔離されていることを忘れそうになる。だらだらと夏休みを過ごす感覚に陥ってきた。

 彼女が慣れない手つきで料理に挑戦しているが、正直まずい。レトルトの方がマシだ。だが失敗作を口にしては「うまい」と嘘をつき、笑顔で食べる自分を、ちょっと新婚ぽくて悪くないと気にいっていたりもする。

 食糧倉庫を漁っていると、食べたことのない地方限定の即席めんを発見した。二人分の湯を沸かす。器を受け取った彼女は目を丸めて不思議そうに首を傾げた。

「カップ焼きそば。食べたことない?」

「口にしたことはありません。植物油で揚げた麺を熱い湯で戻して味付けして食すのですよね。……焼きそば? 焼いてないのに?」

「そういや焼いてないね」

「それに蕎麦の風味がしませんが……」

「蕎麦じゃなくて麺だから。ヌードル。うちは月一くらいで日曜の昼にこういう手抜きご飯が出てきたかな。俺は嫌いじゃないから平気だったけど、うちの父親がきちんと手料理を作れって怒ることがあってさ。親父は出張が多いから、どうしても地方での外食ばっかになるわけ。久しぶりに家に戻れたってのに、母親が休日くらいはサボりたいとか外食したいとか言って揉めるの。結局、親父が折れて収まるけど」

「……そうですか。あ、美味しい。初めて食べましたけど美味しいですね」

「だね。割とイケる」

 非日常が続くとそれも日常に変わる。不本意ながら俺はこの状況に適応してきたらしい。

学校へ行かなくていい。授業を受けなくていい。交友関係に気を遣わなくてもいいし、親や教師に叱られることもない。娯楽はネットで好きな時に好きなだけ楽しめるし、食べたい時に食べ、疲れたらだらだらし、寝たい時に寝る。楽園と言えば楽園だ。

 リア友の記事が更新されている。俺に該当するであろう呟きが残されていた。

「あいつどこ行ったのよ? 母ちゃんかわいそー」

 読み上げる俺の声に反応した彼女が箸を置き、まっすぐ向き直った。俺はソファを降りて床に膝をつき、床に頭突きを食らわす勢いで土下座した。

「――お願いします。端末を貸してください。母親にだけ、ちょっとだけ、心配するなって言うだけだから。多分すんごく心配してる。警察に駆け込んでたら騒ぎになっちゃうじゃん? だからちょっとだけ。一分だけでいいから、母親に連絡させて……ください」

 彼女の無言が怖くて顔をあげられない。

「この場所については何も言わない。太陽が炎上することも絶対に言わない。言ったらパニックになるし、いや、本当のことを話しても信じてもらえないとは思うけど、ただ、親には、俺が生きてることを教えてあげたいんだ。頼むよ。頼むから」

 俺は言葉尻に合わせるよう奥歯をぎりぎりと噛みしめた。

 土下座をして情に訴えるなんて生まれて初めてだ。羞恥心はない。だが他にどんな言葉を使えば真摯な想いを表現できるというのか。自分の頭の悪さが恨めしい。

 ご馳走様と言い残して彼女が寝室に消え、絶望的な気持ちに支配される。

ネット社会は今日も平和で、一年前のレスが繰り返されていても気づかないだろう。惰性の平和を繰り返す。そんなつまらない日常を恋しいと思う日が来るなんて思わなかった。

 二日後。彼女が端末を貸してくれた。

「入電して一分で自動的に電源が落ちる設定にしました。通話時間に注意してください」

「本当に? ありがとう! マジありがとう!」

 用心のために番号をメモ紙に書き写して何度も確認する。この部屋には時計がないので体感が頼りだ。俺は尋常ではない汗を掻いていた。失敗するイメージばかりが頭をよぎる。

 アンジェラはソファに座り、ぼんやりとこっちを眺めていた。

 親が不在ならば家電にかけても意味はない。しかし携帯だと電波が不安定で繋がる可能性が低くなる。ほぼ賭けみたいなものだが自宅の番号を押した。コールが鳴る。早く出ろ。頼む。一秒、二秒、指の隙間からこぼれる砂のようにさらさらと時間が流れてゆく。

 通じた。こっちが話す前に、母親が正気を失った怒声を喚き散らす。

「とにかく、どこにいるのか教えなさい! 何か不満なの! ねえ、返事して!」

「……ごめん」

 縮まる咽喉から声を絞り出す。何故だか妙に恐ろしくなって無意識に声が震える。身から出た錆という罪悪感が発露しているのか、謝罪するだけで精一杯だった。

「場所を言いなさい! お母さんたちがどれだけ心配してると思ってるの!」

 助けてくれ。ホテルの地下に監禁されて外に出られない。帰りたくても帰れない。頭の中ではそんな文字が弾きだされるのに声には変換されなかった。

「ごめん。しばらく帰れない」

「どうして! 落ち着きなさい! 何があったか説明しなさい!」

「説明」

 ちらりとアンジェラに目を向ける。無表情だった。絶世の美少女は生気を欠いた人形のようでもあり、冷徹な犯人のようでも、裁きを与える超然とした神のようでもあった。

「俺……俺は帰れない。帰れないけど元気でやってるから心配しないで」

 母親が激昂しているが俺は構わず喋り続けた。

「内緒だけど、俺、国のために働くことになったんだ。日本のためだよ? 国だよ? 信じられないでしょ。けど本当。守秘義務があるから詳しくは話せないけど、偶然ね偶然、総理大臣から頼まれちゃってさ。え、ふざけてないって。本当に嘘じゃない! 本当だってば。いやだから、うん、そう、詳しくは話せなくて」

 俺はなるべく穏やかな声音で嘘をついた。突然「日本が壊滅するから用心しろ」「世界が滅びるから逃げろ」と伝えて誰が信じるだろう。俺だって未だに信じられない。

「だから帰れない。けど心配しないで。親父と仲よくしなよ」

 思えば、出張ばかりの父親とは深い会話のひとつも出来なかった。心残りはある。けれど、この事態が冗談で、または無事に解決したら、男同士、腹を割って話すのも悪くない。

「あはは。送れたら首相とのツーショットを送るわ。びっくりして心臓を止めんなよ。うん、いや、うん。いや待って。時間がないからちょっと俺の話を聞いて。今までたくさん迷惑かけてごめん。見捨てないでくれてありがとう。帰ったら絶対に親孝行するから。戻ったら何でも言うこと聞く。だから……元気でい」

 無情にも志半ばで通話が途絶えた。遮断を知らせる機械音が耳に浸透し、心に空虚さが広がってゆく。 言いたいことを半分も言えなかった。俺は頭の悪い子供で、親を安心させてやる嘘もつけやしない。これが最後なのか。最後に交わした時間がこれか。

 アンジェラが俺の手から端末を抜き取り、慣れた手つきで幾つかの操作を経て、俺のスマホ画面を撮影している。

「首相との写真、スターたちとの写真も送付しておきました」

 彼女は端末をテーブルに置き、静かな足取りで歩み寄ってきた。傍らにぺたんと座り込んだあと、小さく冷たい掌で俺の頬を撫でて、じっと見上げてくる。

「ごめんなさい」

 彼女は平坦な口調で謝ったあと、俺の口唇にそっとそれを重ねた。人生ではじめての感触に意識が飛んだ。心がめちゃくちゃに破壊された気分だった。

 視界の端で、花瓶から伸びる彩り豊かな花束がちらついた。

花なんて綺麗だと思ったことはない。勝手に咲いて枯れてゆくものだと思っていた。

 だけど生きている。花も俺も――まだここで生きている。


 *


 十日が経過し、ゲームや映画に浸る時間も途絶えた。ソファに並んで手を繋ぎ、テレビ報道ばかりを追っている。事件。放火。詐欺。事故。思えば悲惨な文字ばかりが踊っている。有名人の結婚や出産さえも、こんな時代に、と陰鬱な要素にカテゴライズされていた。

 官邸に颯爽と入ってゆく首相が映し出される。

「去年の映像の背景を少しいじり、テロップやアナウンスを変更してるの」

「そういやこのシーン、生まれてから百回くらい見てるけど違いがわかんないかも」

 根強い人気のお菓子をぽりぽりと摘まんだ。たまに彼女が口を開けてねだるので、タイミングよく放り込んであげる。彼女にとって駄菓子は未知の食べ物らしい。体内に取り込むものは幼い頃から徹底して精査されていたという。だが今更、脳の活性化も健康的な延命も意味をなさないと彼女が寂しげに語っていた。

「なんか俺、みんなが平和ならそれでいいじゃんて気になってきた。ここで人間を見守るっていうのもある意味神様みたいだし、そう悪くない、かな」

 ふざけて笑おうとしたが、最新式テレビの電波が乱れて雑音が走る。ぎくりとした。彼女が俺よりも身を固くした。それから一時間は画面をぼうっと見つめるだけで、どちらも言葉を発することができなかった。


 *


 日本の四季を無視した日照による夜の長さと異常に低い気温のせいか、テレビ報道が騒がしくなった。どのチャンネルに合わせても終末論ばかりで、ドラマや笑いが流れることはない。やがて――一般住宅では一日数分しかテレビが映らなくなったと、僅かなネット書き込みから知れた。携帯電話は使用不可。一日に三時間の電力供給があればマシ。海外脱出を試みた者からの連絡が途絶えたこと。衛星放送が砂嵐しか映し出さなくなったこと。電車はおろか飛行機の離発着が機能していないことも書き残されていた。

 災害時のために用意した備蓄に頼れる者は息をひそめて家に閉じこもり、外気の寒さと人々の略奪から避けるため外出を控えている。外界では水や食べ物やガソリンを奪い合い、整った街並みは破壊され、店舗は崩れ落ち、人々は殴り合い、殺し合いにまで発展していると記されている。

 悪い冗談だとしか思えなかった。俺自身ここに隔離されてから何一つ事態が変わっていない。映画やゲームで時間を潰していれば何一つ異変に気付けないままだろう。

 何が真実なんだ? 常識が覆されて頭が麻痺していた。

テレビは何も映さなくなり、ネット情報も更新が乏しくなってゆく。

結局俺は、社会から与えられた舞台設定で生き、判断し、歯車のように起動していただけであり――自分で運命を切り開き、自主的に道を選んでいるなんて錯覚だった。

 俺たちは生きている。それだけだ。

 いつしか定位置となったソファで言葉少なに会話を重ねる。ここ最近の俺は、あの拳銃を離せずにいた。本物の拳銃に弾を装填するとグリップに隠れるらしい。そのせいか弾倉をがじがじと噛む癖がついた。弾がセットされていれば、迷わず自分の頭を撃ち抜くのに。

 彼女が空元気を出すように両手で膝を叩く。

「ようし、今日は何を食べよっか。カレーでいいかな」

「俺、かつ丼が食べたい」

「……まだうまく作れないから今度にしよう? そうだ。映画でも見ようよ。ああ、こっちのゲームもまだプレイしてないし」

 俺はふるふると首を振ったあと、斜めにした銃グリップの底を齧った。

「テレビが見たい。ネットしたい」

「けど」

「テレビ見たい。テレビテレビテレビてれびテレビ。ネットネットネット、ネットしたい。世の中がどうなってるのか知りたい。知りたいんだ。ねえ教えてよ」

 困惑した面持ちで目を泳がせる彼女の細い肩を掴んでぐらぐら揺らすと、溜息をついて立ち上がった。例の特殊な端末を手にして寝室から戻ってくる。

 端末とテレビをケーブルで接続すると、情緒のある薄ぼやけた提灯の光が映し出された。水面に映る月が波紋で揺らめく幻想的な姿にも見える。

「これが衛星から見た地球。太陽からの光や雲、そして海面の状態が関わるし、各国の電力事情なども含めて、私たちの認識する地球とは姿が異なるみたい」

「地球。はは。これ地球なんだ。嘘だろ。青くないじゃん」

「パリ、ローマ、ブリュッセル、ウィーン、トルコ……」

 彼女が端末を操るたびに画面がスイッチングされて異国の風景が浮かんでくる。

 一面が吹きさらしの雪に覆われた凱旋門の周囲に人影はなく、エッフェル塔は上部が折れ曲がっている。バチカンらしき建物の周囲で黒い影が力なく歩いていた。厚手のコートを着込み、顔も布でガードしているので性別はわからない。

 彼女が国名を挙げてチャンネルを変えるが、どこも雪まみれで判別がつかなかった。

「南アフリカ、ナイジェリア、リビア、エジプト……」

 無気力だった俺の瞼がくいと持ち上がり、自然と目を剥き出していた。

 アフリカの動物はどこへ消えた。草原は? 壮大なサバンナは? ピラミッドは? 砂漠は? アフリカ独特の灼熱がなく、すべてが白い雪と刺々しい氷で埋められている。

 読み上げる中東やアジア国に合わせてチャンネルが変わるが、どこも同じ景色だ。ごくまれに人間が映りこむことがあり、まるで間違い探しゲームをしているかのようだった。

「ブラジル、コロンビア、メキシコ、ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコ、カナダ」

「ああ、ああ……」

 俺はソファから滑り落ち、床上に這いつくばって頭を抱えた。透明感のある彼女の声が呪いの言葉を発している。名を呼べばその地が滅びる最強魔法だ。

「待て。待てって。こんな……なんでこんな……」

「惨憺たる状況だけれど、きっと各国のシェルターに避難してる人がいる。それに、地上生活でもまだ人類が生存していることがわかって良かった」

 彼女の冷静な滑舌に刺激され、頭の奥がぷちんと弾けた。

「ざけんなよ! 何だこれ! マジざけんな! 日本はどうなったよ! あんなにも平和だったじゃんか! 誰か生きてんの? みんな死んだのか? 家も学校も駅も壊れて雪に埋まって、母さんも友達だってみんな、日本のみんな……一億だぞ! 一億人も死んだって言うのかよ! なあ嘘だろ。嘘だって言えよおおおおおおおおおおおお!」

 腹の底から声が湧き出てきて、咽喉と口の端が切れた。痛みなどないのに、全身ががくがくと痙攣して震えが止まらない。

「こんなこと……こんなこと……」

「泣かないで」

 彼女に引っ張り上げられて半身を起こすと、子供のようにあやされた。優しい声に宥めながら、細い指先で俺の目元を拭う。瞼にキスが落ち、壊れ物を扱うように触れるか触れないかの距離でそっと抱きしめてくれる。――あの時の花束のように。

「目を閉じて」

 不規則な呼吸が続いて苦しい。声が出ない。息ができない。

「思い出して。私たちは同じ小学校に通った幼馴染み。年上の男子に意地悪をされた時に男らしく助けてくれたっけ。知ってる? 私の初恋が誰か。意識したのは三年生かな。なぜか六年生になる頃にはお互いに話ができなくなってた。学区のせいで中学は離れ離れになっちゃったけど高校生で感動の再会。あの時……子供の頃と同じように屈託なく私の名前を呼んでくれた時どれほど嬉しかったか、あなたは知らないでしょ」

 催眠術にかかったように脱力して彼女にもたれかかる。

「東京はいつも忙しくて、人がゴミのように集まっている。梅雨は湿気で髪がまとまらないし夏は室外機の熱風がうざくて秋は蒸し暑いし冬はイベント続きでリア充爆発しろ。そして大人たちは物価上昇や増税に文句を言ってた。私たちは平凡な高校生で、進学も将来も具体的に描けないちっぽけな生き物。休み時間が生き甲斐みたいなものだった。私たちは得意な科目には熱心なのに、興味がないと授業を聞き流すところが似てる。文化祭や体育祭は別の班になって残念だったけど修学旅行の夜はこっそり抜け出したよね。たった五分でも幸せだった。あの時勇気を出して告白したから神様が味方してくれて、私たちは恋人になれた。本当に感謝の気持ちでいっぱいだよ。ありがとう」

 彼女の澄んだ声が頭に木霊する。

「私たちはテレビが好き。お笑いが好き。ギャグ漫画が好き。ヒーローが好き。テスト勉強をするくらいならネットで遊んでしまう。けして社交的じゃないのに見知らぬ人間とのやりとりが好きで、軽口を叩くキャラなのに、相手に配慮した優しいレスポンスをつける。知ってる? あなたの書き込みに救われた人間はたくさんいるんだよ」

 そうだろうか。俺はただ無責任に遊んでいただけだ。面白ければそれでいいと、考えなしに書き込みして誰かを傷つけていたかもしれない。

「水の音、風の感触、雨の匂い、太陽の厳しさ、闇の包容力、星の荘厳、草の熱、虫の息遣い。この世界は奇跡の調和で成り立っているけれど、それらは空気と同じく、そこにあるのが当たり前で尊いと感じることなんてない。家があり両親がいて、友達がいて、笑いがある。私たちは世界と繋がっている」

 彼女の肩口に顔を埋めながら、人体の温度に感謝する。――少しずつ気持ちが落ち着いてくる。空気が吸える。瞼の裏に日常が蘇ってくる。

「私たちは無難な進学と就職をこなして、怖い上司に悪戦苦闘しつつも着実に稼ぎを増やしてゆく。そして腕いっぱいの花束でプロポーズ。私たちは大勢から祝福され、授かったふたりの子供を育み、喧嘩ひとつせず、互いに労りながら、何よりも愛を大切にし、死がふたりを分かつまで想いあって身を寄せ合って生きてゆくんだよ」

 今だけでも十分だ。嘘だって構わない。

 彼女の肩越しに映る残酷な映像を見ながら、いつまでもいつまでも、俺は幸せな嘘に耳を傾けていた。

                                 


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