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火の影を踏む  作者: せん
第一章 欲行遠道迷
9/9

〈九〉

 弓矢を揃え、食料を包む。夕陽が辺りを染め始めた頃、八汰は準備を終えて朱羅の天幕へと向かった。横たわる主の傍らに静かに座し、顔色を見る。一日中寝ていたにもかかわらず、まだ青白い。この傷で今夜発つのは無茶としか言いようが無いのだが、頑固な朱羅が意見を曲げることはおそらくないだろう。部下に怪我を隠したことも今夜の出立を止められるのを危惧したからかもしれないと思い至り、ため息をつく。

 幼い頃から朱羅はこうだった。自らの体調は二の次で、無茶ばかりする。雨の中稽古をし続けては風邪を引き、その風邪のまま稽古をしてこじらせて師匠に叱られることも何度もあった。なんと言おうが聞かなかったのに、一度一緒に稽古をした八汰にうつしてしまってからはきちんと寝るようになったのだった。思い出していると、こんな状況にもかかわらず笑みが漏れる。

 かすかな笑い声に反応するように、朱羅のまつげが震えてゆっくりとまぶたが開いた。

「八汰?」

「笑ったの、気付いたんですか? 耳ざといですね」

「……楽しいことは分け合おうと、昔言ったじゃないか」

  かすれた声で、朱羅は言った。入り口の隙間から差し込んだ夕陽が、彼女のまぶたと頬を照らした。青白い頬に、金色の光が差す。その瞬間、息ができなくなった。黄金の陽光が散った朱羅の瞳から、目が離せない。

 なんとか言葉をつなぎ、微笑んでみせた。

「昔から、あなたの無茶には肝を冷やされてばかりです」

「そろそろ慣れたはずだ」

 ぼやく八汰を横目に、朱羅は身体を起こそうと身じろいだ。すぐに手を貸す。ようやく身体を起こすと、朱羅は八汰の目を覗き込み、強い眼差しをふと和らげた。

「さて、これから我が軍は散り散りになるわけだが……手負いの私がこれ以上無茶をしないように、お前は私とともに来てくれないか」

 胸が熱くなる。朱羅が自分へと注ぐ信頼が、嬉しくてたまらない。

「もちろんです」

「このザマだ、手間を取らせることになるだろうが」

「あなたについていけるのです。他に望むことはありません」

 朱羅はまぶたを一度閉じ、そっと開いてにやりと微笑んだ。

「私といる限り、お前の肝が温まることなどないだろうな」

「承知の上です」

 小さく笑い返すと、朱羅は満足気に目を閉じてゆっくりと立ち上がった。上着の袖に腕を通し、帯を結ぶ。

「柚南多だ。そこから、加治へと逃れる」

 朱羅が入り口を出た瞬間、夕陽の最後のひとしずくが彼女を照らし、消えた。


 朱羅が野営地の中ほどまで進むと、自然と兵たちがその周りに集まり出す。怪我をしていることを微塵も感じさせない朱羅の歩みに、八汰は内心舌を巻く。傷は深い。一歩進むだけでも苦しいはずだ。

「皆に、聞いて欲しいことがある」

 薄闇の中集まった兵たちを見渡して、朱羅は静かだが通る声で言った。

「分隊長から話してもらったとおりだ。私は、私を信じ、命を預けてきたお前たちを騙していた。その上、私の問題に巻き込んでしまった……お前たちには何の罪もないのに。それで、今から私たちは分散し来るであろう追手を撒き、別の場所で落ち合うこととした。しかしだ」

 朱羅はそこで言葉を切った。

「落ち合った先で、一体どうする? 時間を稼いでどうなる。父上は私を狙っておいでだ。私と落ち合えば、お前たちの危険は増す。……だから、私はお前たちに柚南多には来ないでほしい」

 兵がざわつく。ちらりと伺った朱羅の顔は、あくまで冷静だった。

「父上が今動かれたということは、お前たちが秘密を知っている前提で、我々全員を消すおつもりだということだろう。だから、逃げても安全だとは決して言えない。ただ、時間はできる。難しいことはわかっている。だが、できるだけ遠くへ逃げて、生きてほしい」

「嫌だ」

 兵の中から声が上がった。

「そんなの、絶対に嫌です。俺に、あなたを忘れて生きろと言うのですか」

「俺も嫌だ。朱羅様が見出して下さらなかったら、とうに死んでいた身。今更何も恐れるものはありませぬ」

「そうだ。取るに足りぬ俺たちを、あなたは大切に扱ってくださった。そのあなたを裏切るような事ができるはずがないじゃないですか」

 我も、我もと、兵が朱羅に詰め寄る。

 朱羅の顔が、苦しげに歪んだ。そのまま何も言えずにうつむく。その時、笠那が口を開いた。

「朱羅様」

 朱羅が顔を上げる。

「わしらを心配してくだすってるのは、嬉しいです。けど、」

 笠那が、泣きそうな顔で縋った。

「朱羅様を見捨てろなんて、そんなひどいことをおっしゃらないでくだせえ」

「お前は特にいけない。笠那」

 朱羅は表情を変えずに笠那を見た。

「家族がいただろう。娘はまだ二つだと、可愛らしい盛りだと言っていたじゃないか。それを置いて、負け戦に命を賭してはだめだ」

「生きて帰ります。朱羅様が陛下に歯向かうことなんてしてねえことは、ここにいるみんなが知ってる。きっとわかってもらえます」

 長い沈黙のあと、朱羅はふうと息をついて、苦笑した。

「今日から数えてきっかりひと月後、南の柚奈多だ。遅れたものは置いていく」

 その言葉を肯定と受け取って、兵達の顔に喜色が広がっていく。

「目立たぬよう、夕闇に紛れて少しずつ分散せよ」

 通る声でそう告げ、朱羅はふっと微笑んだ。

 風がごうと吹く。

「拒めない私を、許せとは言わない」

 葉が擦れる音にかき消された囁きを、八汰は聞いた。

 夜が来る。じわじわと濃くなる闇に溶けこむように、朱羅率いる都倶精鋭軍は、静かに野営地をあとにした。

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