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火の影を踏む  作者: せん
第一章 欲行遠道迷
8/9

〈八〉

 鳥のさえずりが聞こえ出したころ、八汰は見張りを兵の真幸まさきに代わって朱羅の天幕へと向かった。真幸には夜のうちに起こったことを告げないでおいたが、そのせいか、昨夜のことがすべて夢だったような気がしてしまう。もしかすると、夢であることを自分は望んでいるのかもしれない。何かが、否応無しに変わっていくことが恐ろしいのだ。

 天幕に戻るとしかし、そこにはぐったりと眠る朱羅がいた。傍らに腰を下ろし、主の顔をぼんやりと眺める。

 腕が壊死しないように何度か血を通わせてやっていたが、それ以外に出血はなく、顔色も多少戻ってきているように思えた。ほっとすると同時に、情けなさがじわじわとこみ上げる。

 見てしまった以上信じざるを得ないが、やはり、八汰の知っている朱羅が女であるとはどうしても思えない。日に焼けた肌も、仕草も、なんといってもその武勇も、大国都倶の王子そのものだ。しかし、正式に部下になって五年、そばにいるようになってからはもう十年近くも経つ。それなのにちらりとも朱羅の秘密に気がつけなかったのは、どう考えても自分の失態である気がした。

(そういえば、何度か水浴びに誘って断られたことがあったな……。夏に暑いなら脱げばいいのにとか言っちゃってたし、うわ、)

 思わず頭を抱える。きっと、知らぬうちに苦労をかけていたに違いない。

(情けない……)

 頭を抱えた指の隙間から、また主の顔を見た。いつもの凛々しさが失われた顔は、ひどく儚く、淋しげに見えた。

――望みようがなかった。

 生まれた時から偽ることを強いられ、能力の高さに見合わない危険な任務をこなし、不遇を嘆きもせず怒りもせず、何も望まず、すべてを諦めて、ひたすらに従ってきた者に与える唯一のものが、死なのか。黒く、どろどろとした思いが胸の奥で渦巻く。

 ふう、と一つ息を吐き出す。見張りをした一晩の間に新たな刺客が来ることはなかったが、ここを離れたほうがいいのは間違いがないだろう。そう思ったとき、朱羅のまぶたがぴくりと動き、ゆっくりと開いた。しばらくぼうっと空中を眺めたかと思うと、はっとしたように跳ね起きる。

「朱羅様! そんなに動いては」

 言う間にぐらりと身体が傾き、朱羅は地に手をついた。しかし八汰を見据えた目はぎらぎらと光っている。

「急ぎここを発つ。分隊長をここに集めろ」

「しかし、お身体が」

 言いさした八汰を、朱羅は激しい目で睨んだ。

「集めろ。今すぐにだ」

 低く、重い声。上に立つ者の物言いだった。慌てて応え、頭を下げる。背中には汗が吹き出していたが、震え上がるような喜びもまた感じていた。どんな秘密を抱えていようが朱羅は朱羅なのだと、今更のように思い知る。


 八汰が分隊長を集めて天幕に戻った時には、朱羅は何事もなかったかのように衣を纏い、涼しい顔で座していた。狭い天幕の中に海渡、笠那、真幸、ちゅう李明りめいの五人の分隊長が座ると、ひとりひとりの顔をぐるりと見回して口を開く。 

「皆を集めたのには訳がある」

 落ち着いた、なめらかな声だった。

「昨夜、父上からの使者があった。我らに加治を攻めよとの命を携えてな」

 北の国の名を聞いて、五人の間に流れる空気が変わった。笠那が大きな身体を乗り出す。

「加治ですと!? そんな無茶な!」

 なおも言い募ろうとする笠那を手で制し、朱羅は続けた。

「その通り、これは無茶な話だ。増援もなしに加治などに攻め込めば一捻りだろうし、加治との関係は悪くなるだろう。何も良いことがない。だから私は断った」

 一番反応が早かったのは海渡だった。厳しい顔で朱羅に問う。

「つまり、俺たちが王の命に叛いたことになってしまった、というわけですか」

 朱羅が頷くと、真幸が朱羅に詰め寄った。

「何故です! 我らが叛くはずがない。それに、これではまるで陛下が我らに叛くように仕向けているようではないですか!」

「そうだ、真幸。話すことというのも、実はそちらが大きい」

 そのとき、わずかに朱羅の顔が歪んだ。だがそれは一瞬のことで、朱羅はすぐにいつもと変わらぬ調子で口を開いた。

「父上は私を討つ口実が欲しいのだ。私が女で、それが明るみに出ればどう利用されるかわからない。つまり、父上の王位の安泰を揺るがすものになり得るからだ」

 真幸が、訳がわからないという風に朱羅を見て何度か瞬いた。朱羅はひとつ、大きく息を吸って、吐く。そして、また一人ひとりの顔を見て静かに続けた。

「……そう、私は女だ。信じられなかったら、今ここで脱いで見せても良い。黙っていてすまなかった」

 朱羅の視線がわずかに落ちる。誰も、何も言えなかった。大きすぎる秘密を知ったのに、目の前にいるのはいつもと変わらぬ朱羅だ。

「あと一年ほどしたらこの軍も解散するつもりだったのだが、父上は私を討つことを急がれた。……皆を巻き込んでしまった」

 重苦しい沈黙を破って、海渡が口を開いた。

「巻き込まれたなんて、思ってませんよ」

 場違いなほど明るい調子に、朱羅がふっと顔をあげる。

「何があろうと俺たちは朱羅様についていく以外、知りやしないんです。今から軍を解消して俺を盗人に戻すつもりですか? そんなことしたって王陛下が朱羅様だけを追って俺たちを見逃してくれるとは限らない。そうでしょう? なら、ぐだぐだ面倒くさいこと言ってるより早く逃げたほうがいいや」

 海渡はそう言ってにやりと笑った。暗かった朱羅の顔にかすかに明るさが戻る。

「そうだな、海渡の言うとおりだ。今はとにかく逃げるしかない」

 朱羅は一つ息をつくと、前を見て言った。

「出立は今夜とする。各隊数名ずつに分散せよ。南へ下り、柚奈多で落ち合おう」

 五名は短く答え、恭順の意を表す。

「父上がどの程度こちらを掴んでいらっしゃるかわからぬ。監視されている可能性を考え、出立を悟られぬようにせよ」

 朱羅が目で合図をして小さく頷くと、五人はその場を辞していった。しかし、海渡だけは天幕を出ようとして、再び朱羅の前に戻って座した。朱羅と八汰の顔を順に見て、眉を寄せる。

「……八汰には言ってあったんですか」

 海渡が問うと、朱羅はばつが悪そうに目をそらす。

「いや、昨日成り行きでな」

「で、お前は? やっぱり言われて初めて気付いたわけ?」

 不機嫌そうにこちらを睨む海渡に、仕方なく頷く。

「二人とも、そんだけ一緒にいてどうしてそうなるんだか……あれ、朱羅様?」

 海渡が突然話をやめた。八汰は気になってちらりと朱羅を見る。その顔が驚くほど青白くなっているのに気付き、八汰は慌てた。

(しまった! 朱羅様が怪我をしているのを知ってるのはおれだけなのに……)

「し、朱羅様、そろそろお休みになられないと!」

「大丈夫、」

 八汰に振り返ったその拍子に、朱羅の表情がふっと消え、体がぐらりとよろめく。八汰はその体を急いで抱きとめた。

「朱羅様!?」

 返事はなかった。朱羅の顔には全く色がない。無理をしすぎたのだ。

 早めに気遣ってやれなかった自分も無理をする朱羅も腹立たしく、つい口調がきつくなる。

「あぁ、まったく! 海渡、手を貸してくれ。 朱羅様を寝かせて差し上げないと」

「……ん、分かった」

 海渡は合点のいかなそうな顔で敷物を用意し、朱羅をその上に寝かせながら首をひねった。


「八汰、朱羅様はどうしたんだ?」

 横たえた朱羅の衣の首元をそっと捲って、巻いた包帯を見せる。海渡は目を丸くした。

「致命傷じゃない。傷口も綺麗だ。多分治るのにそんなに時間はかからないと思う。……昨日使者があったって聞いたろ? それ、本当は刺客だったんだ。偶然見つけられたから良かったけど、あと少し遅かったら……」

 言いながら、恐怖が喉元にこみ上げる。海渡も重い口調で答えた。

「陛下に遠ざけられるのは仕方ないと思ってたけど、まさか命まで狙われてたとはね……」

 海渡の言葉に、先程から気になっていたことを問いかける。

「……海渡、お前朱羅様のこと知ってたのか? そりゃ、気付かないおれが悪いけど、知ってたなら教えてくれたって」

 先を越されたようで悔しく、不満を込めて呟く。すると海渡は腕を組んで、軽い調子で言った。

「知ってたよ。偶然水浴びしてるの見ちまってな。それで、殺されそうになった」

 思わず瞬く。仲間を何よりも大切にする朱羅がそんなことをするとは思えなかった。

「え? 朱羅様に?」

「そうそう。父上の邪魔にはなりたくないとか秘密を知るものは生かしておけないとか言ってさ。最初は本当に死ぬんだって思った。朱羅様相手に戦う敵の気持ちがよくわかったよ。剣向けられても、逃げられる気すら全然しないんだ。……でも、いつまでたっても動かないと思ったら、泣くんだぜ。やっぱり殺せないって。誰にも言わないと誓ってくれって。この人がそうまでして守りたかった秘密を、よりによってお前に教えられるわけねえだろ」

「……そんなことが」

 海渡はこちらをみてにやりと笑う。

「まあ、俺はその前から怪しいとは思ってたけどね。むしろ皆よく気付かないでいられるよな。特にお前、あんだけ朝から晩まで一緒にいてまあ」

 思わず海渡から目をそらす。

「……思い込んだらなかなか変えられないたちなんだ」

 もごもごと唸る八汰を笑って、海渡は天幕の出口へと向かった。彼が入り口の布を捲ると、上ったばかりの白い朝日が内側に差し込む。

「とにかく、そんな朱羅様が敢えて皆に言ったってことは本気でまずいってこった。さっさと準備して逃げようぜ」

 横になっていくらか顔色も戻った主をちらりと見て、八汰も天幕をあとにした。


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