〈七〉
数呼吸分、息を忘れた。しかし、傷口を縛ったばかりの布に染み出す血を見て我に返る。脱がせた衣をゆっくりと着せ、胸元を隠した。
何も言えず、朱羅の顔を見る。朱羅の顔は蒼白で、何かを堪えるように固く閉じた唇が微かに震えていた。視線は下に向けられたままだった。
「……逃げろ、八汰」
かすれた、消え入るような声でそういった次の瞬間、朱羅は顔を上げて八汰を見た。
「私を捨て置け。逃げるんだ」
「……どういうことですか」
「聞いていただろう? 父上は私を消すと決められたのだ。今なら間に合う。都から追っ手が来る前に逃げろ。遠くに」
朱羅は、少し錯乱しているようだった。身体を起こそうと動く主を押さえ、鋭く囁く。
「あまり話さないでください、傷が」
「皆を巻き込むことになるなんて思っていなかったんだ。お前は逃げろ。逃げてくれ。生きるんだ」
ひやりと冷たい手が、八汰の手首を掴んだ。
「口を噤んでいさえすれば、きっと父上も深追いはなさるまい。だから早く」
「朱羅様、」
怯えたように目を見開き、朱羅は口を開いた。
「見ただろう? 私は女だ」
言葉にされて初めて、今しがた見たものが幻ではなかったのだと思い知る。布の下にあったのは、小ぶりではあるが間違いなく女の乳房であった。
(一体、どういうことなんだ)
掴まれた手首から、朱羅の震えが伝わってくる。突然、目の前の人がとても脆く弱い人に思えた。口を引き結ぶ。
「……戻って、手当の続きをしましょう」
「だめだ。私が死ななければ、お前たちまで」
うわ言のようにつぶやく朱羅を、なるべく傷に障らぬように背負い上げる。ぐったりと力ない身体は、やはり男にしては華奢かもしれなかった。動揺を飲み込み、一歩を踏み出す。
「話してもらうまでは、死んでもらうわけにはいきませんからね」
背中に浅く早い息を感じ、八汰は野営地へと急いだ。
朱羅を天幕へと担ぎ込み、灯りに火を点す。橙色の光が狭い天幕に満ちた。荷物の中から清潔な布を取り出し、肩の布を取り替える。幸い傷口はきれいだったから、今の出血さえ止められれば治りは早いだろう。灯りのもとできつく布を結び、鎖骨の上を押さえつける。しばらくしても血がにじまないのを確かめ、ようやく一息ついた。
「……八汰」
「まだ、話さない方がいいですよ。傷が開いたら困ります」
「お前に、謝らなくてはならない。皆にも」
朱羅は、薄く目を開けて虚空を眺めていた。もう取り乱してはいないようだ。多少色の戻った唇を一度閉じ、また開く。
「黙っていて、すまなかった」
「……どうして教えてくれなかったんですか」
「お前に話したら、全部崩れてしまう気がして」
「でも」
言い募る八汰を遮るように、朱羅は一つ大きく息を吸った。
「父上はとある傍系の生まれで、継承権は決して上位ではなかった。しかし、三十年近く前、内乱を制し王となられた。だが、即位されてからも血筋を理由に王位を狙う者は何人もいた。それで、より王家の血の濃い母上を正妃として迎えられたのだ。……父上の地位をさらに確かなものにするには、世継ぎが必要だった。母上がようやく私を身ごもられた時、幾人も呼んだ占師は皆揃って生まれるのは男児だと言ったそうだ。だが、生まれたのは私だ。そして、母上は私をお産みになってすぐ亡くなられた。その頃、丹国とは緊張状態にあったから、内乱の種を増やしたくなかったのだろう。そういうわけで、私は男として育てられた」
火明が揺れて、床に落ちる影を揺らす。
「しかし、母上の後に娶られた妃との間には正真正銘の王子、紫狛と蒼威が生まれた。そしてかつての政敵も立て続けに死に、丹も倒した。となると、やっかいな秘密を抱える私だけが憂いの種だ」
まるで誰か知らない人のことを語るかのような落ち着いた口調で、朱羅は自分を語った。
「お前は、私がもっと多くを得られたはずだと言っていたな」
朱羅は、つ、と視線を八汰へと向けた。そして、弱々しく笑った。
「望みようがなかった。私は二十の歳に死ぬようにと言われていたんだ」
言葉を選ぶのは、無駄なことに思えた。何を言っても、虚しいだけだとわかっていた。代わりに、都倶王に対する激しい怒りが腹の底から湧き上がるのを感じた。
「でも、あと一年あったはず。それだけがわからない……」
朱羅が視線をそらす。途端、呪縛から放たれたように感じた。主の顔を見ると、蒼白さは増し、額には脂汗が浮いている。話の途方もなさに、すっかり気を取られていたようだ。慌てて布を手に取り、汗を拭ってやる。
「一旦休みましょう」
「皆を、巻き込んでしまった」
朱羅はまたこちらを見上げた。苦しげに潤んだ、しかし切実な色をともなった視線が、八汰をかちりと捉える。
「いいから休んでください。お願いします。……おれは、あなたを失うわけにはいかないんです」
いくらか語調を強くしてそう言うと、朱羅は一瞬だけ泣きそうな顔をして、まぶたを閉じた。
「……父上」
じきに、規則正しい呼吸が聞こえてきた。わずかに早く浅い呼吸だったが、よく眠っているようだ。おそらく、一番危険な山は超えたはずだ。ほっとすると同時に、頭をぐしゃぐしゃとかきむしる。
驚きよりも、焦りが強かった。もう何かが動き始めてしまったのだ。当たり前の日常は、きっと二度と帰ってこない。どうすればいいかも皆目わからなかった。
ただ、思うよりも早く自分の口から出た言葉を思い出す。
――あなたを失うわけにはいかないんです。
あれが、自分の本心なのだろうか。ならば、この憎しみも、目の前で眠る主に死を強いる者への怒りからなのだろうか。
そのとき、とうに諦めたはずの願いが狂おしい程に迫り、胸を焼いた。目を閉じて、拳を強く握る。爪が手のひらに食い込む。
(もう、失いはしない)
いつの間にか、天幕の外はかすかに白んでいた。八汰は、静かに燃える灯りを睨み、そっと消した。
心は、決まった。