〈六〉
物音がした気がして、薄く目を開ける。 闇の中に、松明の炎とそれに照らされた木の葉が浮かび上がっていた。人影が立ち上がり、見張りの方へと進む。きっと、交代の時間なのだ。すらりとした体躯と歩き方からして、どうやら新しい見張りは朱羅のようだった。
朱羅自身の意向で、彼はこの軍では指揮を執る以外のことは、他の兵と同じように働いていた。奥に構えているのは苦手だからだと言っていたが、彼は食事の支度以外はどの仕事も誰よりも的確にこなした。小さな軍だからこそ許されることなのだろうが、彼の存在の近さが、平和なはずのこの時代に敢えて前線へ赴く兵たちの心をしっかりと一つに束ねていた。
前の見張りが横になってからも、八汰は見張りに立つ朱羅の背をぼんやりと眺めていた。決して大きいとは言えない背だ。むしろ、朱羅は同年代の兵の中では華奢とさえ言える体つきだった。しかし、落ち着いた声と恐ろしいほどの強さは、小柄さを補ってあまりある。
考えているうちに、とろとろと眠気が襲ってきた。夜明けまではきっとまだ長い。もう少し眠ろうと目を閉じる直前、朱羅の前にふっと黒い影が現れた。思わず目を疑う。物音ひとつしなかったが、跪いているように見える。朱羅はサッと剣の柄に手をやったが、まもなく手を下ろして歩き始めた人影の後を静かについていった。松明の灯りが届かぬ木立の奥に二人の背が消えた時、八汰はそっと立ち上がり弓矢を取って後を追った。
落ち葉や枯れ枝を踏む自らの足音が、やけに大きく聞こえる。息を詰めて、木の間をくぐり抜けた。何故か、見つかってはならない気がしていた。火明が届かなくなると、月の明るさに気がつく。葉が落ち始めた木立の中なら、二人の姿は薄い影となってなんとか見えた。どうやら、立ち止まって会話をしているようだ。
「……明確に都倶への攻撃意志がある小国の支配を放棄して、善人にでもなったおつもりですか?」
音を立てぬよう気をつけながら近寄ると、声が聞こえた。低い男の声だ。口調は丁寧だったが、背中を這い登るような冷たさを感じた。
「手に入れろ、と命じられてはいない」
「まあいいでしょう。それより、先ほどの件はどうなされますか?」
「……まだ、時間はあったはずだ」
(……時間?)
「申し訳ございませんが、その話は我らは聞いておりません。命じられたことに従っているだけです。……もっとも、あなたが加治を攻めるとおっしゃるなら、私どもは一旦身を引くようにも言われておりますが」
「加治だと? 大国だぞ。我らのような小軍が相手になるわけがない」
北の遊牧国家の名を聞き、朱羅の口調に怒気が滲む。八汰は唾を飲み込み、そっと矢に手を伸ばした。無謀な戦をけしかける人間が、味方であるとは思えない。
「ですから、あなたはその道はお選びにならない。我らにでもわかることです。およそ、ご冗談のおつもりなのでしょう」
「……父上は、まことそのようにおっしゃったのか」
「ええ。……もちろん、あなたが父王陛下と戦うことを選ばれても何も不思議はありません」
瞬間、全身に汗が吹き出した。
(戦う? 都倶王、暁苑と?)
「私に戦う理由はない」
「そうでしょうか? 当然都倶の支配下に入れるべき奈志を懐柔し自らの旗下に収める……。これは、叛意ありとみなすに十分ではありますまいか」
「私は、父上の命に叛いたことはない!」
怒りに震える声で、朱羅は唸った。
「父王陛下には疎まれ僻地へと送られ、異母弟君である紫狛様には実質長子の扱いを奪われ、さぞ不満もおありだったでしょう」
「違う! 私は、」
「一体、何が違うのでしょう? きっと多くの民が同情してくれますよ。勇猛にして不遇の王子朱羅様が、とうとう兵を挙げられたと」
暫くの間、朱羅は黙っていた。ようやく聞こえた声は、やっと聞こえる程度の囁きだった。
「……父上は、まこと決められてしまったのか」
「そうですね。……どうしますか? 加治に攻め入るか、父王陛下と争うか、ここで死ぬか」
心臓が早鐘を打つ。
(何を言っているんだ)
行き場のない焦りが喉元にこみ上げた。唇を引き結び、一矢、手にとる。しかし、雲が月を隠した。闇が木立を包む。
「……すべて断る、と言ったら?」
辺りはまだ闇だった。見えない。朱羅の声に混じる諦めたような響きが、怖かった。
「私一人を殺して済むわけではないと、わかっておいででしょうに」
冷たい声と同時に、金属のぶつかる音がした。雲が切れる。浮かび上がった木立の影の間で、二人が剣を交えていた。
(朱羅様)
思うより早く、弓を構えた。しかし、戦う二人の距離が近すぎた。加えてこの暗闇の中だ。わずかでもずれれば、朱羅を貫いてしまう。
朱羅の動きは、いつもよりぎこちなく見えた。二人は互角か、朱羅が僅かに押されていた。脂汗がこめかみを伝う。
その時、苦しげな呻きが聞こえた。体中の皮膚が粟立つ。一つの影が、木にもたれるようにずるりと倒れた。光を失う恐怖が、足元から駆け上がる。
「……哀れな方だ。今、楽にしてさし上げます」
月明かりが、緩慢に短剣を振り上げた男をくっきりと照らした。狙いを定め、渾身、放つ。
「朱羅様!」
男が倒れるのを見届けるのも待たずに、八汰は主の元へと必死で走り寄った。
雲は今や跡形もなく消えていた。青みがかった光の中、朱羅の左肩は黒々と濡れているのが見える。
男が絶命していることを確かめ、すぐに朱羅の隣に膝をつく。かすかに落ち葉を踏む音が聞こえた気がして辺りを見回すが、何の影も見えなかった。
「朱羅様、」
朱羅の目は見開かれ、八汰が来たことに気付いていないかのように一点を見つめたままだった。何度か呼びかけると、彼は弾かれたように顔を上げた。
「……八汰? 何故、」
生きている。確かめるやいなや、八汰は自分の衣を脱ぎ、衣を裂いた。
かすれた声で朱羅は問うたが、今も心なしか息が早い。知った顔を見て気が抜けたのか、辛うじて傷口に当てていた手が衣に血の跡を残しながらずるずると落ちていった。薄暗い中でも朱羅の顔は蒼白に見える。致命傷ではないが、出血が多い。太い血管を傷つけたのかもしれない。ほうっておけば、命にもかかわるだろう。
(早く止血をしなくては)
手当のために衣に触れた瞬間、朱羅は驚くほど激しい口調で唸った。
「触るな」
「しかし、血が!」
「やめろ」
弱々しい抵抗を無視し、八汰は衣の上着を脱がせる。裂いた衣で傷口を強く押さえ、縛る。朱羅は苦しげに喘ぎ、力なく目を閉じた。八汰は、ひゅうひゅうと乱れた彼の呼吸を少しでも楽にしようと胸の布を外した。そして、我が目を疑った。