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火の影を踏む  作者: せん
第一章 欲行遠道迷
3/9

〈三〉

 薄闇が頬を撫でる。奈志の長の元へと向かう道。蹄が地を叩く音だけが、ひやりと冷たい風に混じっていた。宴の準備に浮ついていた心が、水底へと落ちていく墨のように、ゆらゆらと沈んでいく。先ほどまで戦場だった場所は、今、ただの荒れた草原でしかなかった。けれど、この場所で死んだ者も確かにいるのだ。

(……愚かなことを)

 わずかに唇を噛んだとき、前を見たまま朱羅が口を開いた。

「なあ、八汰」

「はい」

「お前は、これが、仕方のないことだと思うか」

「……どういうことでしょう」

「今回手を出したのは奈志が先だ。理由は知らぬが、愚かなことをしたものだと思う。だが、お前が言ったとおり私にはこれを制圧の好機だとしか思えない。父上のために持ち帰る土地が増えるとしか」

 風に、朱羅の黒髪が揺れた。かける言葉を探すうちに、彼は話を続ける。

「反乱の芽を摘むなどと言って、私がしているのは何だ。結局、いつもただの侵略だろう。他人の生きる土地をひたすら喰らって進む」

 彼の声はいつもと変わらず穏やかだった。けれど、どうしてか心が騒いだ。

「お前だって、侵略は嫌いなはずだ」

 胸の奥がぞわりと揺らぐ。彼の表情は薄闇で見えないはずなのに、強い眼差しを感じた。上辺のみの浅はかな慰めは要らぬと、彼はそう言っているのだ。唇を引き結び、唾を飲み込む。

「……朱羅様は、どうお思いなのです」

 問いで返すのは卑怯だと知りながら、八汰はそう言った。朱羅は、二呼吸ほどの間を空けて、自嘲するように答えた。

「口ではこう言いながら、父上の目に入ることができるならばやむなしと、そう思ってしまう自分がわからぬのだ」


 日の名残がほぼ消えた暗い空気の中、門の灯りは良く目立った。馬にまたがったまま、数歩分朱羅の前に出る。

「こちらは、都倶長子朱羅殿下であらせられる。奈志の長殿との会談のためお越しになられた。目通り願いたい」

 口上が終わると同時に、門が開かれた。くぐった門の内側は、街と言うよりは集落と言ったほうがふさわしいような佇まいで、質素な家々だけが道にわずかに灯りを漏れ出していた。

「こちらへ」

 見張りの一人が歩み出て、二騎を導きはじめる。

 松明の灯りをゆっくりと追いながら、周囲を見回す。どこかの水田へと水を引いているのであろう溜池には、輝き始めた月が映り、ゆらりと風に揺れてほどけた。

 静かな夜だった。街全体が、この地の向かう運命をすでに受け入れているように思える。

――仕方のないことだと思うか。

 朱羅の声が蘇る。街が受け入れていたとしても、きっと彼はまだ迷っている。それが避けようのないことだとしても、そうやってひとつひとつ悩むのが、朱羅という人だった。誰もが惹きつけられる輝きの裏で、自分の優しさに縛られて潰れかける。彼はいつもそうだった。だからこそ、これから彼が言わねばならないことを思い心が沈む。

 ひときわ大きな屋敷の前で、見張りは足を止めた。

「こちらです」

 門番に案内を引き継ぎ、見張りはさっと後ろに下がった。


 通された木組みの屋敷は内側もごく質素な作りだった。しかし、磨き上げられた床や整った庭に、戦闘を好まず外交だけで歴史を築いてきた奈志の民の威厳が滲む。

 案内が繊細な木格子の戸を引くと、男が一人、平伏していた。彼を一瞥し、朱羅は上座に用意された敷物の上に腰を下ろした。その背後に下がり、膝をついて控える。

「顔を上げられよ。……そなたが富賀ふが殿、でよろしいかな」

 朱羅の言葉にわずかに身じろぎ、富賀はゆっくりと身体を起こした。ちらりと男の顔を見やり、やはり違和感が募る。壮年の男は、諦めと闘志がないまぜになったような表情で、静かに口を引き結んでいた。八汰には、このような目をする者が愚かな戦などに手を出すとはどうしても思えなかった。

「仰せの通り、私が奈志族長代理を任されております富賀にございます」

 朱羅はすぐには言葉を継がなかった。じっと、目の前の男を推し量っているように見えた。息を一つ吸い、口を開く。

「長たらしい前置きは好かぬゆえ、単刀直入に聞かせてもらおう。そなたは、此度の戦いを企てた者ではないな?」

「……はい」

「私が討った、あの男か」

 富賀はしばらく押し黙ったあと、小さく頷き、ぽつりぽつりと話し始めた。

真雁まかりという名でした。族長の血筋は、ここ奈志では重んじるべきものでしたゆえ、病、事故で次々と跡継ぎをなくした我々は、血を受け継ぐ最後の一人である彼に従わざるを得ませんでした」

「諌める者は?」

「……私が、そうすべきでした」

 重い沈黙が、二人の間に流れる。先に口を開いたのは、朱羅だった。

「それで、富賀殿は今後、奈志をどうされるおつもりか」

「どう、とは」

「二つ、道がある。我が都倶に従い、自治を諦める代わりに民の命を守る道、都倶の支配を拒み、抗戦を続ける道。私が思うに、後者はあまり賢いとはいえない。都倶の正規軍は我等のような小軍とは比べ物にならないから、多くのものが命を落とすだろう」

「やはり我らは、」

 富賀が答えようとしたとき、遮るように朱羅が言葉を続けた。

「だが、私ならばもうひとつの道を示せる」

 思わず朱羅の顔を伺う。灯された火明に浮かび上がった朱羅の横顔は、どきりとするほど眩しかった。

「私たちは、辺境の地を平定せよとの命を受け、遠征を続けている。どの地であるかは私達が決めることではない。父上の定めた場所に征くだけだ。しかし此度の戦い、先に仕掛けたのはそちらだ。つまり、奈志を平定することは命じられてはいない」

「それは、」

「私が申し上げない限り、奈志が都倶に刃を向けたことが父上のお耳に入ることはない。奈志は自治を守れる」

「しかし、あなたのお立場ならば、得にはならないはずでは」

「もちろん見返りは要求させてもらう。兵糧を少々頂きたいのだ」

 言いながらいたずらっぽく笑った朱羅を見て、ふっと力が抜ける。宴にあるだけの食料を使わせたのは、最初からこのつもりだったからなのだろうか。

「もうひとつある。富賀殿、そなたにはこの地をきちんと治めていただきたい。ただ一人の過ちにより多くの命を失わぬために。父上の命があれば、私は奈志をかばうことはできない。だから、父上の悪評を買わぬように。この地の民をこの手で殺めておきながら身勝手な願いだとはわかっている。だが、この通りだ」

 そう言って、朱羅はすっと頭を下げた。慌てて彼より低く頭を下げる。すると、富賀はぎょっとして平伏した。

「お、お顔をお上げくださいませ! 頭を垂れるべきは私でございます」

「何をしたわけでもない。ただ、私は何もしないと、言っているだけだ。そなたがすべきは奈志を元のような国へと再興することであって、私に頭を下げることではない……そして、すまないが陣で兵が私の帰りを待っている。今宵はこれまでとして、明日にでもまた話そう」

 富賀は立ち上がった朱羅を見上げ、一瞬眩しそうに目を細めてから再び床に額を擦り付けんばかりに平伏した。

「まことに、ありがとうございます」

 歩き始めた朱羅のために戸を引き、礼をして部屋を出る。朱羅の背を追った。

「朱羅様、何故あのように」

「手柄がひとつ増えた程度では、父上は私を認めまい。ならば彼らに返したほうがいいと思ったのだ」

「しかし、」

 言い募ろうとすると、朱羅はこちらを振り返った。その目に浮かぶ暗さに、言葉を失う。

「ならば、奈志を持ち帰れば父上は私をご覧になるのか? 継嗣として扱って下さるのか?」

 何も言えなかった。朱羅が、父親である都倶王にどんな扱いを受けてきているかは仕えてきた五年ほどの間にいやというほど知っている。本来なら最も大切にされるべき長子であるのに僻地での遠征を強いられ、都に戻ってもいくらも経たぬうちに次の戦地へと送り出される朱羅は、理由こそわからないものの、明らかに父王に疎まれていた。

「……すまん、意地の悪い言い方だった。でも、本当にこれで良かったと思っているんだよ」

 そう言って笑う朱羅がどこか諦めているように見えて、胸の奥がずきりと痛んだ。

「さあ、あまり遅くなると海渡に怒られてしまう。行くぞ」

 何も言えないでいる八汰を見て困ったように笑うと、朱羅はまた前をみて足を踏み出した。


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