〈一〉
矢をつがえた。すぐに放つ。
放たれた矢が敵兵の胸元に突き立つ。
顔に驚きを貼り付けたまま敵兵は馬の背へと倒れこむ。乗り手の異変に感づいてか、馬は跳ねるように駆け出した。こと切れた兵の身体が、まるで人形のようにはじき飛ばされた。
戦はまだ始まったばかりだ。
土ぼこりが舞い、曇り空の淡い白は濃さを増す。剣や槍の交わる硬い音が重なりあう草原で、八汰は馬を駆っていた。脚で馬を操りながら、再び前方の敵兵へと狙いを定める。放った矢はやはり敵兵を正確に射抜いたが、敵の数は一向に減らないように思えた。
敵兵およそ二千五百に対し、味方はわずか二百五十。いくらこちらに精兵が集うとはいえ、一人で相手にしなければならない敵が多すぎる。恨めしい思いで次の矢をつがえた。
寡兵の戦では、敵の総大将を素早く討ち取ることが要だ。しかも、なるべく鮮やかに。敵方がどんなに多かろうと、目の前で総大将を討ち取られれば大抵は戦意を失う。寄せ集めの兵であればなおさらだ。戦う意味を失った数は、無為な集団にすぎない。
しかし、厚い人の壁が、総大将への道を塞いでいた。その首を討ち取るには、まだこの場を耐え抜かねばならない。壁を徐々に切り崩し、道を作るのだ。八汰は口を引き結び、目の前の騎馬兵に狙いを定めた。
矢を放ったその時だった。戦場に一迅の風が吹き、味方から一騎が飛び出した。
追い風に煽られるように敵兵の間を巧みにくぐり抜け、小柄な彼は瞬く間に敵陣へと躍り出た。彼の長剣は降り注ぐ矢をなぎ払い、槍を軽々とあしらう。息を一つ吸って吐く、たったそれだけの間に、彼は敵の総大将のすぐ隣に迫っていた。
彼の切り開いた道に、味方がどっとなだれ込んだ。そうして敵が散りはじめたころ、彼はすでに総大将と向かい合っていた。総大将を守るように飛び出した二騎が、数度の剣の閃きのあと馬上からずり落ちる。さらに斬りかかる側近を次々と返り討ちにすると、彼は剣を最後の一人――総大将へと向け、まっすぐに見据えた。何か、言葉を交わしているように見える。しかし次の瞬間、総大将の剣が、彼へと振り下ろされた。
がきりと剣が交わる。彼は剣を押し返すと、大柄な総大将にひるむことなく一撃を繰り出した。鮮やかな軌跡を描いた剣はしかし、総大将に弾かれる。しかし寸の間もなく次の一撃が繰り出された。
激しい攻防が続く。一分の乱れもない舞のように、それは人の目を惹きつける戦いだった。魅入られたように動かない兵達が、いつの間にか二人の戦いの周りに円を描く。
しかし、総大将の持つ剣が二度、三度とはじかれると、均整のとれたその攻防が揺らいだ。総大将は無理やり剣を振り上げ、胴に本人も気付かぬ隙ができる。
一瞬の静止。
彼の剣は、相手の腹を貫いていた。勢い良く剣を引き抜くと、赤い血が噴き出し、大きな身体がずるずると騎馬から滑り落ちはじめる。馬が数歩身じろぐと、手から抜け落ちた剣のすぐ後に、力の抜けた身体がどさりと地面に横たわった。
それを見届けると、彼は呆けたように眺めている敵兵に向き直った。よく通る声が草原に響き渡る。
「我は都倶国国王長子朱羅! 奈志の大将は討ち取った。まだ抵抗するものはあるか!」
肌が震えた。味方であるはずのこちらまで圧する声だった。はっとしたように顔を上げた敵兵のうち、一人が持っていた剣を地に放った。降伏の合図だ。それを皮切りに、敵兵は次々と剣を手放した。
勝ったのだ。そう分かった瞬間、つがえかけた矢を戻し、いつの間にか止めていた息を吐き出す。彼の戦いに魅入られていたのは、敵兵だけではなかったようだ。同時に寒気が背を這いのぼる。
(またあんな無茶を……)
大将に何かあれば壊滅するのはこちらとて同じだ。止める気も起きなかったなんて、どうかしている。頭を抱えたくなるのをこらえ、主の名を呼ぶ。
「……朱羅様!」
八汰は馬の腹を蹴り、彼のもとへと駆け出した。
敵の損失はおよそ百、味方は一人も失わぬうちの終戦であった。