1-1 希望に向かって
1-1 希望に向かって
本来なら前書きに書く文章なのだろうが、あえて本文として記したい。これから書く文章がどのジャンルに属するのかわからないが、おそらくこれは公然とした独り言なのだろうと思う。独り言なら一人ですればいいようなものだが、壁に向かって話す独り言にはもはや耐えられないのだ。従って、わたしの独り言に興味の無い方は不快感をもよおすといけないのでこの先に進まない方がいいかもしれない。
何を書こうかとずいぶん悩んでテーマは決めないことにした。テーマを決めても必然のように逸脱するのだから決めない方が楽だと思った。この文章の名を『希望』としたが、これは切なる願いである。ようやく死にたいという希望から解き放たれて、さてどうしようかと考えていると前向きな希望が必要だと思うようになった。ところが前向きな希望などそんな直ぐに思い付くものではない。若かりし頃に持っていた希望を振り返ってみても“そんなこともあったな”という程度で希望の感覚が蘇ってこない。ならば、もう少し自分の過去を掘り下げて見ようと文章を書く理由が見つかった次第なのである。
過去のことを書くことに、もう一つ理由をみつけた。もしかするとこちらが本当の動機かもしれないほど自分の過去におかしなところが多々あるのだ。生きていた当時は不便であったり、困ったりしていたが、自分の性格なのだから仕方が無いと諦めていた。しかし、よくよく考えて見ると仕方が無いで済まされないほど異常だったのかもしれない。ここのところがよくわからないので過去を振り返ることは一石二鳥となったのである。
幼い頃から興味のあることには異常なほど夢中になり、そうでないことには異常に無頓着であった。例をあげると、今にも繋がることだが自室はゴミの山である。ゴミだけならまだしも猫の糞尿がところ狭しと散乱している。自分でも不快で異常な事態だとは思うのだが、片づけようという気はさらさらない。そんなことには興味がないのだと思う。一方、小学5年生頃だったと思うが、叔父が残した数学の本をみつけた。それは中学の数学の本だったが、それが何かわたしにはわかるはずもなかった。ところが面白いのである。そして、その本に何の意味があるのかわからないまま独学でマスターしてしまった。小学生の中で中学の数学を理解してしまった。これがわたしと数学との出会いでわたしの運命と大きな関わりを持つことになっていく。因みにわたしは数学者でも科学者でもないのだが、数学がわたしの運命に大きな影響を与え死の縁へと追い込んだ。
不幸なことにこんなことを言ったり書いたりすると「また自慢話か」と受け取られることが多いのだが、わたしが言いたいのは、何かができても何かに優れていてもそれが幸せに直結しないということだ。よくわからないのは以前のわたしの奥底ができるということに対してどのような価値を見ていたのかだが、もしかするとなんの価値もなくただ自分の満足感だけが生きている意味だったのかもしれない。
現在、精神障害者として生きているが、診断された病名と症状がアンマッチの部分が多く、再度の診断をお願いしているところである。とはいえ、診断結果が出たとしても生き方を決めていくのは自分である。勇気を振り絞って死ぬまで生き方を考えて見たいと思う次第である。