赤ちゃんポスト
目の前に捨てられていたソレを拾ったのは自分が10歳だったとき。
父親の妹が捨てて行ったんだろうとすぐに分かった。肝心の本人は住所も電話番号も変えて、連絡の仕様がなくなっていた。必死で探そうとする母親に祖母は可哀相だから家で育てようと言って引き取った。その時の母親の顔は新しいコブなんか欲しくないとでも言いたげで、子供ながら汚い世界を見た気分になった。
名前もついていない新しい家族。性別は女。母親からはあんな女の子供だから関わることはないと言われた。
母親は長男である父親の家に嫁ぎ、父親の実家で祖父母と同居している。長男特有の責任に付き合わされた母親にとってはいい迷惑だっただろう。したい事も我慢してきたに違いない。そんな母親とは逆に父親の妹は頭が悪い癖にホイホイと股を開く。子宮で物事を考えているんじゃないのだろうか、と言うほど男との話が絶えなかった。
ソレを捨てるまでに堕胎した回数は実に4回。勿論全員父親は違う。
堕ろす費用も馬鹿にならず、こんな時だけ頭を下げて実家に帰ってくる妹に母親は罵声を浴びせていた。しかし祖父母はどんなに馬鹿な女でも自分の可愛い娘に変わりはない。すぐに金を工面してやっていた。そんな女を自分が叔母として好きになるはずもなく、過去にそいつに会った時に――
「あんたは頭が悪いから普通の仕事で金を稼ぐ事もできない。だから体売ってるんだろ?でも馬鹿だから避妊する能もない。そんで子供ができるんだ。そのまま子宮に大量に精子注いでもらえば、そのまま子供はその汚い液体で溺死するんじゃないのか?金もかからないからやってみろよ」
顔を思い切り殴られて金切声をあげて泣かれた。祖父母は馬鹿な妹を庇った。正直今でもなぜあの時怒られたのかは理解できない。折角行かせてもらった学校で勉強もせずに遊びほうけて、就職もせずに実家ですねかじりしていると思ったら、ある日突然置手紙も残さず消えていた。その後は子供を堕ろす時の金の請求しか来ない女を庇う理由はなんなのか?
血の繋がりが大事なら、なんで女の子供は簡単に堕胎させる金を出すのか。ソレだって血はつながっているはずなのに。
今回ソレを捨てて行った理由は、これ以上堕胎しすぎると子宮が傷ついて妊娠ができなくなる―― からだったらしい。確かに孕むしか能のないあんな女が欠落品になったら、後はのたれ死ぬだけだ。この選択しかなかったんだろう。
あの女の子供だと思うと、どうしてもソレを妹に思えなんてできなかった。
ソレは憎たらしいくらいあの女に似ていた。本当にあの女が残した爪痕のような物だった。勿論ソレを自分の母親が愛せるはずもなく、暴力まではいかないが最低限の事しかしなかった。残りは祖父母の仕事、そして自分の仕事。
3年も経つとソレを可愛がらない母親に痺れを切らせて祖父母や父親が喧嘩する声を聞きながら宿題をするのが日課だった。決まってその時はソレは自分の部屋に放り投げられていた。ソレは遊べ遊べとやかましい。頭にきて突き飛ばしたらベッドに頭をぶつけて大声で泣き出した。
どうせ泣いたって助けなんか来ない。大人たちは自分たちの喧嘩で精一杯さ。しかしあまりにも延々に泣くので、仕方なく要らなくなった色鉛筆をソレに向かって投げ捨てた。
カシャンと音を立てて中身を覗かせた色鉛筆を見てソレは途端に泣き止んだ。あとは要らなくなった紙をこれまた乱暴に投げてやれば、後は黙って絵を描くだけだ。
「それやる。だから大人しく絵でも描いとけよ」
それだけ告げて背中を向ける。しばらくして喧嘩の喧騒の中に何か線を引く音が聞こえ、ソレが色鉛筆で絵を描き始めたんだということが分かった。
それから4年が経った。その間に祖父母は2人とも仲良くあの世に行った。皆が泣く葬儀の中で泣きながらも嬉しさを堪えきれない母親を見て、酷く吐き気がしたのを覚えている。これからは自分たちの好きなようにできる。貴方の好きなようにさせてあげられる―― そう言っていたが、好きなようにしたいのはあんただけだったんじゃないのか?それはさすがに言えなかった。
その頃になると、父親も不倫に走り家に帰ってこなくなる日が続いた。更に追い打ちをかけたのが自分に彼女ができたこと。勉強しに行くと言って家を出ては彼女とこっそり会っていた。母親はソレと2人になるのに耐えきれなかったらしく、飯を作らなかったり徹底して存在を消し始めた。ソレはそんな時は決まって自分の部屋で泣く。それが面倒くさくて飯を装ったり、適当にパンやおにぎりを買って部屋で食わすのは自分の役目だった。そんな餌付けをしたのが運の付き、ソレは部屋に入り浸るようになった。
それから半月、父親の不倫の証拠をつかんで母親はますます荒れだした。そして父親は言った。子供を愛せない君を見て、気持ちが覚めてしまったと。
母親のソレへの当たりは更に酷くなった。ついには暴力にも手を染めた。泣きながらただ殴られているソレを自分が止めることはない。誰だって被害を被りたくないからだ、ましてソレは自分の本当の妹じゃない。ただ家の前に捨てられていた人間の形をしたゴミだったから。物食って排泄すれば、それだけで迷惑な存在だから。
決まってソレは自分の部屋に来て涙を流す。もう何年もそうやってきた。そして機嫌が悪い時は更に自分から暴力を振られて更に泣く。いつしかソレは自分の部屋に来なくなった。
その代わり、今度はポストの前にただ立つようになった。手紙なんかこねぇぞ。そう言おうとした自分にソレは手紙を待っている訳でもなく、ただただポストの前に立っていた。
「来るわけないじゃん。要らないお前なんかに手紙出す馬鹿いんの?」
12月の凍える空の下で、ソレはまた母親に怒られた後1人でポストの前に立っていた。家に入るわけでもなければ、家に招き入れる自分ではない。ただなんとなくソレが気になってポケットの中に入れていたホッカイロをソレに投げた。受け取るのも鈍くさく、地面に落としたホッカイロを慌てて拾ったソレはこっちを見てきた。
「やる。もう暗くなんだから、いつまでもそこにいねぇで気が済んだらさっさと家に入れ」
ソレはなぜか泣きそうな顔で頷いてホッカイロを大事に両手で閉じ込めた。なんだか自分が持っているよりもソレが持っている方がホッカイロも幸せだろうなと、しょうもない事を思った。
家に入ってもソレのために母親が料理するとは思えない。結局いつもの通り小さな皿に飯を盛って自分の部屋に持っていく。でも今日は一口も口にしなかった。
「食わねぇのかよ」
なんだか気分が悪く、脅すような口調になった。ソレはホッカイロを抱きしめて離さない。さっさと下に持って降りなければ洗い物は自分になる。その少々の面倒にソレからホッカイロを奪い箸を持たせた。
「返してください!」
久しぶりに聞いた子供特有の甲高い声と掴みかかってきた小さな手にビックリして、咄嗟に出た自分の手はソレのこめかみに当たり、小さな体はよろめいて地面に倒れた。最悪飯はこぼれたなかったから掃除は必要なかったが、ソレはもう何も言わず俯いて黙るだけだった。その日の飯は捨てた。
殴った時に感じたのは背徳感と後悔とちょっとした興奮。いままでも泣かすことはあったが、力はセーブして、泣きだしたらすぐに止めていた。でも今回は違った、新しい発見をしてしまった。返事も反応もしない物に当たるよりは生きて反応する物に当たった方が気分がすっきりすると分かったからだ。ソレは涙も流さない、声も上げない、ただ黙って殴られてるだけだった。でも時折あげる痛みを堪える声が、堪らなく満足感を煽った。
むかつく事があった時、友達と喧嘩をした時、彼女の我儘に苛立った時、勉強が上手くいかない時、いつしか殴るのが日課になっていた。季節は1月になり、1か月のうち大体3日に1回のペースでソレに当たった。
その頃からただでさえ謎の行動だったポストを眺める時間が増えた。その行動も自分を苛つかせた。
それは突然訪れた。
今日も些細な事だった。なんてことはない、彼女と別れたからだ。理由は彼女の浮気、こっちから別れを振ってやれば泣いて縋ってくる。一発殴ってやろうかと思ったけど止めておいた。自分には他にサンドバックがいるから。
家に帰って母親がパートにいないのをいい事に、声を押し殺すソレをいつもより強めに殴った。我慢していたけど、流石にいつもより強い痛みにすすり泣く声が聞こえる。なんだか少しだけ気分が晴れ、ソレがいつも大事そうに持っていた色鉛筆を蹴っ飛ばしてお終い。ふたが外れて中身がばらけた色鉛筆を見ると気分が落ち着いた。
今日はいつもより短い時間で怒りが収まったな。そう思って席に着こうとした瞬間、ソレは今までにない大声で泣き出した。やかましい金切声を出して必死で色鉛筆の中身を直していく。
「うるさいよお前」
言っても聞かない、泣き続けるそれに段々イライラしてきた。金切声をあげてまるで構ってほしいとでもいう様に泣くソレは父親の妹にソックリで気づけば幼い体の髪の毛を掴んで床に叩きつけていた。肩が跳ねる、ソレはそのまま泣かなくなり動かなくなった。
―――――
それが目を覚ましたのは1時間後だった。流石にやりすぎたと反省し、ベッドに寝かせ宿題をしていた。次はもう少し手加減をしなければ、うっかり殺してしまって犯罪者になるのはごめんだ。いくら要らない人間だと言えど殺してしまえば罰せられるのは自分だ。そんな割に合わない事をしてたまるか。
少しだけイライラしているとベッドから音が聞こえ、そいつが虚ろな目でこっちを見ていた。
何も言わない、何も映していないその目は何だか不気味で、とてもじゃないがその目に見られながら勉強なんて集中ができなかった。
「お前、うざすぎ。やっぱりあいつの子供だな。お前の母親もどうしようもないクズだったよ。ゴミ押しつけて姿消して、お前が消えてくれればこっちもこんな家族メチャクチャになんかならなかったのによ」
なんて言っていいのかわからず出てきた言葉はソレの全てを否定する物だったけど、それが反応することはなかった。ソレはボソボソと小さな言葉で何かを呟いている。どうやらどこかに行きたいと言っているようだった。
いつもなら放っておくが、いつもとは違う尋常じゃない様子に流石に少しだけ罪悪感が募り、それの口元に耳を傾けた。
「……き、たい」
「どこに?」
「と……に、たい」
「は?聞こえねぇよ馬鹿」
真っ黒な瞳から零れ落ちた涙と共に、何度目かになるうわ言を今度こそははっきりと聞き取った。
「……赤ちゃんポストに行きたい、です」
手に握っていたシャーペンが床に落ちた。ソレは瞬きもしないでポロポロと涙を零し、それを呟き続ける。そしてようやくソレが行っていたポストをひたすら見ると言う奇妙な行動が理解できて泣きたくなって死にたくなった。
「ポストの形、わから、ないの……テレビで、1回だけ、言ってただけだから……」
「私、赤ちゃんじゃないけど入れるかなぁ……7歳は駄目、かなぁ……」
「おうちのポストは入ら、ないの。108㎝の私は……赤ちゃんポストは駄目、なのかなぁ……」
ゴミだと思ってた、ゴミみたいな女から生まれてきたんだからゴミに決まってるって。声を押し殺して泣いているのは生まれてきた報いだって思ってた。寒い日も風が吹く日もひたすらポストの前でソレは待っていた。ポストの中にはいる事がそれが一番望む幸せだったのかもしれない。
今更自分が行っていた行動に後悔して涙が流れた。でももう遅い、ソレの頭を撫でることも、手を握ることも自分にはできない。だってソレの名前を呼ぶことも今になってもできないんだから。自分にできることは……――
バラバラになった色鉛筆を入れてふたも直してソレに渡した。ソレは色鉛筆を大事そうに抱きしめて涙を流す。
「これ、私が生まれて初めてもらったプレゼントだよ。これとホッカイロが、私がもらったプレゼント」
ホッカイロを奪った時に、いつもは黙っているソレが抵抗したことがあった。何の気なしに渡したホッカイロと色鉛筆、そんなガラクタを大事に持たれていたなんて思いもしなかった。ホッカイロは捨ててしまったから色鉛筆だけがソレの全てだったんだ。
「ごめんなさい……俺が、悪かったよ。明日、電話する。お前を赤ちゃんポストに連れて行くよ」
その言葉を聞いたソレは、涙を流しながら笑った。
でも両親は認めてくれなかった。父親は相変わらず今日も帰ってきていない。でも母親は世間体を気にして中学を卒業するまでは家に居させる。卒業したら出て行かせる、と言ってのけた。これ以上は自分が限界だった、今更どうやってソレと接していけばいいんだ。暴力をふるう事しかしてなこなかった。兄弟らしいことなんて1つも……母親は認めてくれなかった。
このことを伝えることができなかった。ソレはまた目に暗い光を宿すだろう。中学を卒業するまではここに縛り付けられる。施設に電話しようかとも思った、でも最後の望みをかけて、自分の部屋に向かった。
小さなダンボールを引っ張り出して、ペンに赤ちゃんポストと書いた。ソレは段ボールをまじまじと見ていたが、赤ちゃんポストの字に反応して中に入ってきた。中には言ったソレはこれで助かるとでも言ったように嬉しそうに笑う。
うん、助けるよ。ただの罪滅ぼしだけど……
「……もう、何もしないから。ここをお前の赤ちゃんポストにしていいぞ」
ソレは何も言わなかった。でも数分の沈黙が流れた末に口を開いた。
「何でも、してくれる所ですか?」
その質問に肯定する。さすがに包丁で自害しろ、とかここから飛び降りろとかは無理だけど、それ以外の自分にできる事なら何でも。その思いを込めて頷けば、泣きそうな顔で次々と要求を突き付けた。
「一緒にご飯、食べてくれますか?」
「一緒に眠ってくれますか?」
「一緒にお話ししてくれますか?」
どうして7歳の子供にこんな言葉を喋らせてるんだろう。涙を零しながら頷けば「一緒に泣いてくれるんですか?」と返ってきた。するよ、全部する。
ソレの顔が明るくなる。
「ここは……安全な所ですか?」
「……世界一安全な所にする」
ソレが嬉しそうに笑い、手を伸ばしてくる。その手を握り返せない自分にソレは要求を突き付けた。
「……抱っこして、くれますか?」
自分が怖くないんだろうか。気絶するまで暴力を振ったのに……逆にこっちが怖くて触れない。でも伸ばしてくる手を受け取って抱き上げた。軽い、あんまりご飯食べてないせいだ。でも暖かい。
ソレは嬉しそうに首元に顔を擦り付ける。
「……ポストから出たら、お願いは聞けなくなりますか?」
「いいや、1回入っちゃえばずっと続くよ」
「なら……名前、呼んでくれますか?お願いします。もう我儘も言いません」
家族の誰もソレの名前を呼ばなかった。ソレの名前は勿論“ソレ”で片づけていたから。名前を誰よりも読んで欲しがっているソレは、泣きそうな顔でこっちを見ている。本当にごめん、祖父母が大切に君の名前を付けてくれたのに。
「玲奈……ごめんね」
「……赤ちゃんポストは、本当にありました。裕輔お兄ちゃんが、名前を呼んでくれました」
スッと出たソレの名前。玲奈は泣きながら嬉しそうに笑った。玲奈は俺の名前を知っていたんだ。玲奈の口から初めて出てきた自分の名前に、嬉しくて悲しくて、ただ泣きながら笑うしかなかった。
そのままベッドに腰掛けて、抱きしめていると自分が過去にあげた色鉛筆が視界に入った。こんな物を玲奈はずっと大事に持ってくれていた。宝物だと言ってくれた。
「明日、2人で買い物行こう。もっと宝物、増やしてやるよ」
「宝物、もう増えました」
ふんわりと嬉しそうに笑った玲奈はヘンピな宝物よりもずっと輝いていた。