抱きしめることしかできない
ビルの間から見える青空に、オレンジ色の光が混ざり始めたころ。わたしは、渋谷にあるレコーディング・スタジオの前にいた。
「この後、軽く飲むから……六時にスタジオの前でいい?」
と、あやちゃんから電話があったのが午後の四時過ぎ。『お疲れさまの打ち上げか……流れなくてもいいのかな』と思いながらも、わたしは久しぶりのデートにテンションが上がっていた。
スマートフォンをいじりながら、待つことしばし。
スタジオの玄関から、あやちゃんが五十代ぐらいの男性と一緒に出てきた。わたしを見つけて駆け寄ってくる。
「お待たせ! 待った?」
と、あやちゃん。
「ううん、少し前に着いたところ。こちらの方は、もしかして……」
「プロデューサーの山口良介さん。山口さん、こちらが小説家の片岡美咲さん」
と、あやちゃん。わたしを〈小説家〉だなんて紹介するものだから、柄にもなく照れてしまった。
「初めまして、片岡です」
「山口です。彩香から、お話は伺ってますよ」
と山口さん。
「え? あやちゃん、山口さんに何を話したの」
「幼なじみが小説を書いてるって、言っただけよ」
幼なじみって少し無理があるんじゃ……と思ったら、顔に出ていたのだろうか。山口さんが、おかしそうに笑いをかみ殺してから、
「彩香、片岡さんは年下だよな? 幼なじみはないだろう?」
と言った。
「だって、私が小学生のころに知り合ったんだもん」
と、あやちゃんはすまし顔。
「確かに、今となっては幼なじみかもしれないですね」
と、わたしが言うと、山口さんは少しためらいながら、
「実は……オレのところに『川村彩香が女性と付き合っている』という、匿名のメールが届いたんです」
と言った。
「えっ?」
わたしたちは、同時に驚きの声を上げてしまった。
「片岡さんが彩香の彼女なんですね? すぐに分かりましたよ」
と山口さん。穏やかな表情で、わたしを見た。
「………」
わたしは何も言えなかった。
「彩香。こんなことでオレは動揺しないよ。ここ数年、カミングアウトをするゲイも増えてきているしな」
と山口さん。そして、
「でもレズビアンは、まだまだ市民権を得ていない。マスコミにだけは気をつけてくれ」
と続けた。
「山口さん……いいの?」
と、あやちゃん。
「いいって、なにが」
「認めて、くれるの?」
「久しぶりのレコーディングを支えてくれたのは、片岡さんなんだろう?」
「……うん」
「じゃあ、オレが言うことは何もないよ」
と言って山口さんは、あやちゃんの肩をポンとたたいた。
「この話はオレが握りつぶす。大丈夫、彩香と片岡さんのプライベートは守ってみせるから」
「ありがとうございます」
わたしは山口さんに頭を下げた。
「やめてください、片岡さん。彩香をよろしくお願いします。オレにとっては妹のような存在なんです」
「はい、分かりました」
と、わたしは答えたものの、本当は、どうしたらいいのか分からなかった。
「今度、ゆっくり飲みましょう」
と言って帰っていく山口さんの後ろ姿を見送りながら、あやちゃんの手をギュッと握った。
一時間後。わたしたちは、あやちゃんの家にいた。
青山辺りのレストランで食事でもと思っていたのだけれど、どうしても周りの目が気になってしまう。それで家で飲むことにしたのだ。
テーブルの上に並んだのは、デパ地下で買ってきたお総菜。お酒は、あやちゃんが「とっておき!」と言って、ワインセラーから取り出してきたピンドン、ドン・ペリニヨンのロゼだ。
「お疲れさま!」
と言ってグラスを合わせたものの、せっかくのピンドンがおいしく感じられない。わたしもあやちゃんも口が重い。
やっと出た言葉は、あやちゃんの「大丈夫よ」だった。
「きっと、わたしの再デビューを快く思ってない人の、当てずっぽうの嫌がらせよ」
「それならいいんだけど」
「一〇年も、ファンのみんなを放っておいたから……反対する人もいると思っていたの」
と、あやちゃんは自分に言い聞かせるように言った。
「でも……ほとんどのファンが、あやちゃんの歌を聴きながら『もしかしたら、いつか……』って、待つともなく待っていたんだよ」
と、わたし。
「うん、痛いほど感じてる」
「みんな、あやちゃんを本当に愛しているし、楽しみにしているんだ」
「うん……」
あやちゃんは、グラスに口をつけた。
「ねえ……考えていたんだけどさ」
と、わたし。グラスのピンドンを一気に飲み干してから、
「明日、自分の部屋に帰るよ。で、少し様子を見よう」
と言った。
「様子を見るって……なにを?」
「メールのその後。少しの間、会うのを控えたほうがいいんじゃないかな」
「嫌よ! なんで会っちゃいけないの? 悪いことはしてないわ!」
あやちゃんが、わたしの腕をつかみながら言った。
「もし、ウワサが広まっちゃったらどうするの? 山口さんだけじゃない、ほかのスタッフにも迷惑がかかるんだよ?」
と、わたしは言った。
あやちゃんの再デビューには、多くの人が関わっている。失敗に繋がる可能性をなくしたいとは、関係者なら誰もが考えるだろう。
「でも……山口さんは私たちの味方よ」
「分かってる。だからこそ、少しの間だけ……」
「……私のこと、嫌いになった?」
「そんなこと、あるわけがない!」
「じゃあなんで!」
あやちゃんが、わたしの胸に顔を埋めたとき、わたしのスマートフォンが鳴った。放っておこうかとも思ったけれど、手にとって画面を見た。洋子だった。わたしは、渋々、電話に出て、
「……もしもし」
と言った。
「ごめんね……」
と洋子。やっと聞き取れるような声だ。
「なんのこと?」
「本当にごめん……彩香さんにも謝っておいてね」
「洋子、まさか……」
「さようなら、美咲」
と言って、洋子は一方的に電話を切った。
「どうしたの?」
と、あやちゃんが顔を上げて言った。
「洋子から……様子がおかしい」
「え?」
「ごめんね、さようならって……」
わたしは、あやちゃんの顔を見ながら言った。あやちゃんの表情が、みるみるうちに険しくなった。
「嫌な予感がする」
わたしは、バッグとスマートフォンを持って玄関へ。
「待って、美咲。私も行く」
わたしたちは洋子の部屋へと急いだ。
運よく大通りでタクシーを拾えたわたしたちは、二〇分ほどで洋子のマンションに着いた。
「部屋にいなかったら、どうしよう?」
あやちゃんが、わたしの手を握りながら言った。
「スマホにも普通の電話にも出ないし、会社にもいない……探すしかないよ」
と、わたし。
洋子の部屋の前へ。インターホンを押すが応答がない。ドアノブを回したら、ドアが開いた。洋子の靴が脱ぎ捨ててある。
「洋子、いるんだね? 入るよ?」
わたしとあや姉ちゃんは部屋の中へ。
リビングに行くと、ソファに洋子のバッグが放り出されていた。テーブルの上にはスマートフォン。
「洋子ちゃん、どこ?」
あやちゃんが寝室をのぞいたけれど姿がない。わたしは、おそるおそる浴室のドアを開けた。
「洋子!」
そこには手首を切って、浴槽に腕を突っ込んでいる洋子の姿があった。
「しっかりして、洋子!」
頬をたたいても目を開けない。わたしは浴室に飛び込んできたあやちゃんに向かって、
「救急車! 急いで!」
と叫んだ。
洋子は睡眠導入剤を大量に飲んでから、手首を切っていた。
「思ったより傷は深かったんですが、大丈夫です。胃も洗浄しました。念のため、二・三日、入院したほうがいいでしょう」
と医者が言った。
「ありがとうこざいます」
わたしたちは頭を下げた。
ストンと、あやちゃんがベッド脇の椅子に座った。ホッとしたのだろう。全身の力が抜けてしまったみたいだ。
あやちゃんは眠っている洋子の頭をなでながら、
「洋子ったら……心配かけて……」
と言った。
やっぱり洋子って呼んでいたんだなと思いながら、わたしはあやちゃんの肩に手を載せた。
「あ……ごめん」
と、あやちゃん。
「なにが?」
「洋子ちゃんのこと、呼び捨てにしちゃった……」
「そんなこと、気にしなくていいから」
もう午前零時を回っている。会社には朝になってから休みの電話を入れるにしても、ご両親には連絡したほうがいいんだろうか……そんなことを考えていたら、洋子が目を覚ました。
「う……ん……」
「洋子ちゃん、大丈夫?」
と、あやちゃん。
「彩香……さん、美咲……。ここは……病院?」
「うん。二・三日、入院だって。おとなしくしてるんだね」
と、わたし。
「ごめんなさい……」
と言って、洋子は布団を被ってしまった。
「謝るくらいなら、こんなことしないで」
あやちゃんが泣きそうな表情で言った。
「だって、どうしていいか分からなくて……自分が嫌になっちゃって……」
と洋子。やっと聞き取れるような声だ。
「あやちゃんのこと、まだ好きなんだね」
と、わたし。
「……分かんないよ……」
「山口さんに、私たちのことをメールしたのは……洋子ちゃん?」
と、あやちゃんが尋ねると、洋子はコクリと頷いた。わたしはため息をついてから、
「あやちゃん、今晩は洋子についていてあげて。わたしは帰るね」
と言って病室を出た。
「美咲、待って」
と、あやちゃんの声。振り返ると、泣きそうな表情のままで私を見ている。
「帰るって……どこに帰るの?」
「あやちゃんの家に帰るよ」
あやちゃんはホッとした表情を浮かべて、
「ホントね? 帰ったら家にいるわね?」
と言った。わたしは、あやちゃんを軽く抱きしめてから、
「うん、ちゃんと待ってる。洋子を頼んだよ」
と言い、病院を後にした。
あやちゃんの帰りは夜が明ける前。思いのほか早かった。
「洋子ちゃんが彼氏を呼んでほしいって言うから……。連絡して、来るのを待って帰ってきたの」
あやちゃんは疲れ切った様子でソファに身を沈めた。
「彼氏……そうか、そうだよね」
わたしは、あやちゃんの隣に座って肩を抱いた。
「彼氏には、私とのことも話したんだって」
「そう……」
全部、知った上で付き合っているなんて、よっぽど洋子が好きなんだろう。
「洋子ちゃん、彼氏に怒られてたわ。当たり前よね」
と、あやちゃん。
「大丈夫そう?」
「うん。彼氏、若いのにしっかりしてる。私の出る幕じゃないわ」
と言ってあやちゃんは、無理やり笑顔を作った。そして、わたしの肩にもたれかかりながら、
「どこにも行かないで……」
と言った。
「あやちゃん……」
「お願い、ずっと一緒にいて」
わたしは何も言わずに、ギュッと抱きしめた。
こんなあやちゃんを放ってはおけない。でも、問題がなくなったわけではない。
どうするべきなのか、ますます分からなくなってしまった。