年上の彼女は甘えん坊
泣かれるか、それとも思いっきり責められるか……。
どちらにしても、おいしいお酒にはならないだろうと思っていたのに、洋子の反応は意外なものだった。
「やっぱりねえ……」
わたしから電話があったとき、そんな予感がしたのだという。
「彩香さんは美咲のタイプだし、元々、顔見知りなんじゃあ……時間の問題かもって、思ってもいたのよ」
とまで言われてしまい、わたしは苦笑いを浮かべるしかなかった。
「それよりも、いろいろとゴメンね」
と洋子が、申し訳なさそうに言った。
「え?」
「カミングアウトをしてなかったり、彩香さんがストレートみたいな言い方をしたり……」
「いいよ、気にしてないから」
と、わたし。ウォッカトニックをひと口飲んでから、
「ホッとしたよ」
と言って笑った。
「私が怒るとでも思った?」
「うん、下手をしたら泣かれるかもしれないって思ってた」
「何でよ。私にだって彼氏がいるのよ?」
と、洋子。
「そうだけど、元恋人と友だちが付き合うってなると話は別って、ケースも多いじゃん」
「一般的に言ってでしょ。もう昔のことよ」
わたしは、『本当に昔のことになってるのかな』と思いながら、
「あやちゃんも安心するよ。口には出さないけれど、洋子のことは気にかけてるから」
と言った。
「二人とも心配しすぎ。それよりも美咲、気を付けてよ」
「うん、分かってる」
と、わたしは言って、ウォッカトニックを飲み干した。
あやちゃんの再デビューは一〇月一日に決まった。その日に再デビュー記念ライブも行われる。
これからが大事なときだ。マスコミに気づかれてしまうと、致命傷になりかねない。
「普通にしていれば二人がカップルだなんて、誰も思わないだろうけどね」
と洋子。そして、
「お店を変えようよ。素敵なワインバーを見つけたんだ」
と言って席を立った。
「ちゃんと話せたのね。よかったわ」
と、あやちゃん。ホッとした表情を浮かべた。
「うん。『やっぱりね』って、言われちゃったよ」
と、わたしは言ってビーフシチューを食べた。
「おいしい! あやちゃんって、本当に料理上手だね」
洋子と会った翌日の夜。わたしは、あやちゃんの家にいた。どこかに出かけようかとも思ったのだけど、
「たまには家でのんびりしようよ」
と、あやちゃんが言うので、お邪魔したのだ。
「お酒が飲みたければ遠慮しないでいいのよ? ワインもビールもあるんだから」
あやちゃんは、明後日からレコーディングが始まる。レコーディングやライブツアーの間、お酒を飲まないのは前からの習慣だそうだ。
今回は久しぶりのレコーディングということもあって、早めに禁酒を始めていた。
「わたしに飲ませて、ひと口もらおうって魂胆でしょ?」
「バレちゃった?」
「ダ~メ! ひと口飲んだら、もっと飲みたくなっちゃうよ」
と、わたしが言うと、あやちゃんは〈ぷうっ〉とふくれてしまった。そして、
「……食後のデザートにしようっと」
と言いながら席を立ってキッチンへ。コーヒーメーカーをセットした。
「美咲が買ってきてくれたケーキ、あのカフェのでしょ?」
「うん、新作だよ。この前、試食させてもらったんだ」
「え~、いいなあ」
あやちゃんがカップケーキとコーヒーを持ってきた。わたしの横に座って、
「明日、引っ越し先候補の下見なんだけど、一緒に行かない?」
と言った。
「明日? 明後日からレコーディングなのに?」
と、わたし。
「疲れるようなことじゃないし、大丈夫よ。忙しい?」
「ううん、平気だよ。場所はどこ?」
「目黒よ」
「へえ……」
「その後で買い物したいな。おそろいのパジャマが欲しいの」
と言って、あやちゃんはカップケーキを食べた。
「おいしい! 甘さがちょうどいいわ」
「だよね。マンゴーが甘いから、シフォンの甘さを控えめにしたんだって」
わたしもカップケーキをひと口。コーヒーとの相性も抜群だ。
「ね……今日は泊まっていくでしょ?」
わたしの肩にもたれかかりながら、あやちゃんが言った。
「パジャマないよ?」
「もう……意地悪」
あやちゃんが、潤んだ瞳でわたしを見ている。
「意地悪なの、知らなかった?」
と、わたし。
あやちゃんの顔をそっと引き寄せて、優しくキスをした。
あやちゃんと下見に行った物件は、目黒川沿いにあるマンションだった。グランドピアノが置ける防音室がある部屋を探していたのだそうだ。
「グランドピアノ? 買うの?」
「まさか! 実家から持ってくるのよ」
「そうかあ……懐かしいなあ」
子どものころ、あやちゃんがよく弾いてくれた、あのグランドピアノと、また対面できるなんて思ってもみなかった。
防音室の広さは申し分なく、リビングとベッドルームも広々としていた。
「うん、ここに決めた。美咲、いいよね?」
と、あやちゃん。
「え? わたしは構わないけれど……」
即決するところがあやちゃんらしいけれど、正直、驚いた。
広い窓の向こうには目黒川。いま、名所の桜並木は青葉だけど、春には淡いピンクで染まるはずだ。
「春になったら綺麗でしょうね」
と、あやちゃん。
「仮契約を済ませちゃうね。終わったら買い物に行こう」
あやちゃんは不動産屋の担当者のほうへ。メガネをかけた若い担当者は、仮契約まで進むとは思ってなかったのだろう。驚いた様子で、こちらを見ている。
笑顔のあやちゃんと、慌てて書類を用意する担当者。あまりにも対照的で思わず笑いそうになった。
レコーディングが始まったら、あやちゃんは、ますます甘えん坊になった。
大勢のスタッフに囲まれて〈歌手・川村彩香〉モードで仕事をこなして家に帰ると、たいてい日付が変わっている。静まりかえった家にいると、人恋しくなってしまうようで、
「ごめんね、声が聞きたいの」
と、甘えた声で電話がかかってくる。
できるだけ付き合ってあげたいのだけど、毎日のように続くと寝不足になるし、声だけでは心配にもなる。
じゃあ、あやちゃん家にいれば? わたし自身がいれば寝ていてもOKなんじゃ……と思いついた。
わたしの仕事は、ノートパソコンとスマートフォンさえあれば、どこでもできる。
夕方、自分の食事を済ませてから、お腹を空かせて帰ってくるあやちゃんのために、胃の負担にならないような夜食……雑炊やうどんなどを用意する。料理が得意ではないわたしには、これくらいが限界だ。
仕事をしながら帰りを待っていたり、先に寝ていたりと、その日によって違うけれど、日付が変わるころに聞える〈カチャカチャ〉という、鍵を開ける音には気がつく。
わたしが寝ているときは、あやちゃんは、そっと寝室に入ってきてキスをする。わたしは抱きしめたい衝動を抑えながら、モソモソと起き出して、あやちゃんの夜食に付き合う。
そんな日々が一か月ほど続いたある日、あやちゃんが珍しく夕方に帰ってきた。
「今日は早かったね。もしかして目処が立ったの?」
と、わたし。
「うん。明日、最後の曲にコーラスを入れて終了よ。あとはスタッフにお任せ……長かったあ!」
と言いながら、あやちゃんはリビングのソファに身を沈めた。
「お疲れさまを言うのは、明日のほうがいいのかな?」
わたしはソファの後ろから、あやちゃんを抱きしめた。
「うん、そうして。そばにいてくれて、ありがとう」
あやちゃんは、わたしの手を握りながら言った。
「美咲のほうは?」
「こっちも順調。さっき、原稿をメールしたよ」
と、わたし。あやちゃんの横に座った。
「よかった。じゃあ、明日の夕方は出かけても大丈夫?」
「うん。平気だけど?」
「どこかでお食事したいな……おいしいワインが飲みたい」
「いいね、そうしようか。今日はどうする?」
「う~ん……ピザでも取らない?」
「了解」
わたしは、電話の横にある宅配ピザ屋のメニューをあやちゃんに手渡した。
「ピザとパスタとサラダでいい?」
「ティラミスも!」
「はいはい」
と、あやちゃん。スマートフォンを取り出して電話をかけた。