あや姉ちゃんはNGワード
朝から落ち着かない。集中できない。
パソコンに向かうものの、打っては削除を繰り返すこと数時間。
「今日はダメだ……」
わたしは諦めて電源を切った。
時計の針は午後の四時を指している。約束の時間は夜の七時だ。かなり早いけれど支度を始めた。
カジュアルすぎる格好はやめたほうがいい。だけど、堅苦しいのもわたしらしくない。迷った末に、ジーパンに半袖の白いボタンダウン、薄手のカーキー色のジャケットを羽織った。
部屋を出て、いつものカフェへ。
「いらっしゃいませ」
と奥さんが笑顔で迎えてくれた。
「ブレンドをください」
と言って、わたしはカウンター席に座った。
「これから大切な用事でもあるの?」
と奥さん。サイフォンにコーヒーの粉とお湯をセットした。
「なんで分かるんですか?」
「とても緊張しているみたいだから」
コポコポと、ロートにお湯が上がっていく。
「端から見て分かるほどなんですね。まいったなあ」
わたしは苦笑い。コーヒーの香りが漂い始めた。
「はい、お待ちどうさま」
いい香りだ。わたしはコーヒーをひと口。独特のほろ苦さと温もりが、じんわりと体に染みわたっていく。「ふうっ」と息をついた。
「これ、食べてみてくれる?」
と言って奥さんが差し出したのは、マンゴーがデコレーションされたカップケーキだった。
「え、いいんですか?」
「試作品なの。感想を聞かせて」
「ありがとう」
わたしは、カップケーキをひと口。スイートな生クリームとみずみずしいマンゴー、甘さ控えめのフワフワとしたシフォンケーキ。絶妙だ。
「おいしい! シフォンケーキの甘さを、他のよりも抑えているんですね」
「あ、分かる?」
「はい、ちょうどいい甘さでおいしいです」
「よかった。さっそくメニューに載せようかしら」
と奥さん。
「じゃあ、次からはお金を取られるんですね」
「はい、ひとつ五〇〇円いただきます」
と言って、奥さんは笑った。
夜の七時過ぎ。わたしは、銀座のレストランバーにいた。カウンター席に座ってビールを飲んでいた。
カフェで奥さんと話をして、少しはリラックスしたかと思ったのに、やっぱり落ち着かない。もう、ビールは二杯目になっている。早く着きすぎてしまったせいでもあるのだけれど。
店のドアが開いた。あや姉ちゃんだ。わたしを見つけて手を振ったけれど、笑顔が硬い。
わたしの横の席に、あや姉ちゃんが座った。
「ごめん、待ったみたいね」
と、あや姉ちゃん。
「ううん、わたしが早すぎたんだ。何を飲む?」
「私も生ビールと……何か食べよ?」
わたしたちが頼んだのは、シーフードサラダとブルスケッタ、チキンのトマト煮込み。
あや姉ちゃんの生ビールが届いた。
グラスを合わせたものの、わたしもあや姉ちゃんもぎこちない。
生ビールを飲むあや姉ちゃんの横顔を見ながら、どう話をしようかと思っていたら、
「ごめんね、美咲ちゃん。悩ませちゃったかな」
と、あや姉ちゃんが切り出した。
「そんなことないよ」
「そう?」
「だって答えは、ずっと前から決まってたんだから」
と、わたし。手に汗がにじんでいるのが分かる。あや姉ちゃんに、心臓の鼓動が聞こえるのではないかと思うほど、ドキドキしている。
「ずっと、前から?」
「うん。ずっと前から好きだった。飲み会のあの日まで、あや姉ちゃんの影を追いかけてきたんだと思う」
「………」
「子どものころの気持ちを、そのまま持ち続けているんじゃないかとか、いろいろ考えたよ。でも、やっぱり好きなんだ」
「美咲ちゃん……」
わたしはカウンターの下で、そっと、あや姉ちゃんの手を握り、
「付き合ってください。一緒に幸せになろう」
と言った。
「ホントに私でいいの?」
と、あや姉ちゃん。
「あや姉ちゃん以外は考えられない」
「再デビューするから、他のビアンのカップルよりも、ずっとずっと息苦しいのよ?」
「そんなの、どうにでもなるよ」
「私、美咲ちゃんよりも、早くおばあちゃんになっちゃうよ?」
「大げさだなあ。言うほど年は変わらないじゃん」
わたしは苦笑い。
「それに、それに……」
「ああ、もう! ここじゃ何もできないんだから、素直に頷いてよ」
わたしは、ギュッと手を握り直した。
やっと、あや姉ちゃんがコクリと頷いた。目が潤んでいるように見えた。
どのくらい、そうしていただろう。
「ワインでも飲まない?」
というあや姉ちゃんの声で我に返った。
ワインリストの中から、ボルドーの赤を注文した。
妙な緊張感から解放されたせいか、わたしもあや姉ちゃんもピッチが速い。あっという間にボトルの半分ぐらいまで飲んでしまった。
「私のこと、なんて呼んでくれるの?」
と、あや姉ちゃんが尋ねた。
「どうしようか……」
と、わたし。もう彼女なんだから〈あや姉ちゃん〉と呼ぶのは、さすがにおかしいだろう。
「彩香って呼んでほしいなあ」
「え! 呼び捨て?」
思わず声が大きくなってしまった。
「いきなり呼び捨てにするのは、ハードルが高いよ」
「私も、美咲って呼ぶから。ね?」
首をかしげて、わたしの顔をのぞき込むようにして言うその顔には、珍しく赤みがさしている。『少し酔ってるのかな……可愛いなあ』と見とれていたら、
「ねえ、聞いてるの?」
と、少しスネた表情を浮かべた。
「ごめん、ごめん。あやちゃん、じゃダメかなあ?」
と、わたし。
「ま、いいわ。慣れたら彩香って呼んでね?」
「う……ん、頑張ってみる」
「いまから〈あや姉ちゃん〉はNGワードだからね、美咲」
あやちゃんは、わたしを呼び捨てにすることには、抵抗がないらしい。あまりにも自然に言うので、こっちのほうが照れてしまう。
「言っちゃったら、どうなるの?」
「……ペナルティーとしてキスを一回、じゃあ逆効果よねえ」
「うん、あや姉ちゃん!」
わたしは、ふざけてキスをする仕草をした。あやちゃんは笑いながら、右手でわたしの顔を押さえた。
「もう、美咲ったら!」
そして優しく引き寄せて、
「後でゆっくり、ね?」
と、耳元でささやいた。
リリ、リリリリリ……。
スマートフォンの着信音で目が覚めた。手に取って画面を見る。あやちゃんだ。
「……おはよ」
「おはよう。寝てたでしょう?」
「うん……いま、何時?」
「とっくに一〇時を過ぎてるわよ」
「マジッ! 寝すごした!」
わたしは、ビックリして飛び起きた。アラームを八時にセットしておいたのに、気がつかなかった。
「仕事を頑張らなきゃいけないって言ってたくせに」
と、あやちゃんはスネたような声で言った。
「うん、今日はピッチを上げないと……」
夕べ、タクシーであやちゃんを家まで送ったとき、「泊まっていかない?」と言われた。けれど、最初から朝帰りするのは気が進まなかった。それで、仕事を理由にして帰ってきたのだ。
実際、昨日の遅れは今日中に取り戻しておきたかった。
「ちょっと酔っぱらってたから、心配だったのよ。電話してよかったわ」
「ありがとう、助かったよ」
わたしはキッチンへ。冷蔵庫の中からペリエを取り出して、ひと口飲んだ。
「実は、私も寝すごすところだったの」
と言って、あやちゃんは笑った。
「えっ、電話してて大丈夫?」
「まだ平気。事務所に十二時だから」
わたしは椅子に腰をかけてから、
「じゃあさ……ちょっと気になってることがあるんたけど」
と言った。
「なあに?」
「洋子には話しておかないと……マズイと思う」
「……そうよね」
あやちゃんの声のトーンが、ちょっと低くなった。
「わたしから話そうか?」
あやちゃんから洋子に、ことの次第の話をさせるのは気が引けた。それに、洋子が受けるショックも大きいはずだ。
あやちゃんは「う~ん」と考えてから、
「……美咲に任せたほうがいいのかも」
と言った。
「分かった。近いうちに話をしておく」
と、わたし。
「私もいたほうがよさそうだったら言ってね。二人で話をするのもアリだと思うし」
「うん。どっちにしろ報告するから……じゃあ、仕事頑張って」
「美咲もね」
と、あやちゃん。電話を切った。
わたしはキッチンへ。コーヒーメーカーをセットしてから、フルーツグラノーラをボウル皿によそい、冷蔵庫から牛乳を取り出した。遅く起きた朝の定番メニューだ。
洋子は、なんて言うだろう。もしかしたら泣かれるかもしれない。
「……仕方がないか」
わたしは覚悟を決めた。