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指切りげんまん  作者: 田中芽生
7/11

あや姉ちゃんはNGワード

 朝から落ち着かない。集中できない。

 パソコンに向かうものの、打っては削除を繰り返すこと数時間。

「今日はダメだ……」

 わたしは諦めて電源を切った。

 時計の針は午後の四時を指している。約束の時間は夜の七時だ。かなり早いけれど支度を始めた。

 カジュアルすぎる格好はやめたほうがいい。だけど、堅苦しいのもわたしらしくない。迷った末に、ジーパンに半袖の白いボタンダウン、薄手のカーキー色のジャケットを羽織った。

 部屋を出て、いつものカフェへ。

「いらっしゃいませ」

 と奥さんが笑顔で迎えてくれた。

「ブレンドをください」

 と言って、わたしはカウンター席に座った。

「これから大切な用事でもあるの?」

 と奥さん。サイフォンにコーヒーの粉とお湯をセットした。

「なんで分かるんですか?」

「とても緊張しているみたいだから」

 コポコポと、ロートにお湯が上がっていく。

「端から見て分かるほどなんですね。まいったなあ」

 わたしは苦笑い。コーヒーの香りが漂い始めた。

「はい、お待ちどうさま」

 いい香りだ。わたしはコーヒーをひと口。独特のほろ苦さと温もりが、じんわりと体に染みわたっていく。「ふうっ」と息をついた。

「これ、食べてみてくれる?」

 と言って奥さんが差し出したのは、マンゴーがデコレーションされたカップケーキだった。

「え、いいんですか?」

「試作品なの。感想を聞かせて」

「ありがとう」

 わたしは、カップケーキをひと口。スイートな生クリームとみずみずしいマンゴー、甘さ控えめのフワフワとしたシフォンケーキ。絶妙だ。

「おいしい! シフォンケーキの甘さを、他のよりも抑えているんですね」

「あ、分かる?」

「はい、ちょうどいい甘さでおいしいです」

「よかった。さっそくメニューに載せようかしら」

 と奥さん。

「じゃあ、次からはお金を取られるんですね」

「はい、ひとつ五〇〇円いただきます」

 と言って、奥さんは笑った。



 夜の七時過ぎ。わたしは、銀座のレストランバーにいた。カウンター席に座ってビールを飲んでいた。

 カフェで奥さんと話をして、少しはリラックスしたかと思ったのに、やっぱり落ち着かない。もう、ビールは二杯目になっている。早く着きすぎてしまったせいでもあるのだけれど。

 店のドアが開いた。あや姉ちゃんだ。わたしを見つけて手を振ったけれど、笑顔が硬い。

 わたしの横の席に、あや姉ちゃんが座った。

「ごめん、待ったみたいね」

 と、あや姉ちゃん。

「ううん、わたしが早すぎたんだ。何を飲む?」

「私も生ビールと……何か食べよ?」

 わたしたちが頼んだのは、シーフードサラダとブルスケッタ、チキンのトマト煮込み。

 あや姉ちゃんの生ビールが届いた。

 グラスを合わせたものの、わたしもあや姉ちゃんもぎこちない。

 生ビールを飲むあや姉ちゃんの横顔を見ながら、どう話をしようかと思っていたら、

「ごめんね、美咲ちゃん。悩ませちゃったかな」

 と、あや姉ちゃんが切り出した。

「そんなことないよ」

「そう?」

「だって答えは、ずっと前から決まってたんだから」

 と、わたし。手に汗がにじんでいるのが分かる。あや姉ちゃんに、心臓の鼓動が聞こえるのではないかと思うほど、ドキドキしている。

「ずっと、前から?」

「うん。ずっと前から好きだった。飲み会のあの日まで、あや姉ちゃんの影を追いかけてきたんだと思う」

「………」

「子どものころの気持ちを、そのまま持ち続けているんじゃないかとか、いろいろ考えたよ。でも、やっぱり好きなんだ」

「美咲ちゃん……」

 わたしはカウンターの下で、そっと、あや姉ちゃんの手を握り、

「付き合ってください。一緒に幸せになろう」

 と言った。

「ホントに私でいいの?」

 と、あや姉ちゃん。

「あや姉ちゃん以外は考えられない」

「再デビューするから、他のビアンのカップルよりも、ずっとずっと息苦しいのよ?」

「そんなの、どうにでもなるよ」

「私、美咲ちゃんよりも、早くおばあちゃんになっちゃうよ?」

「大げさだなあ。言うほど年は変わらないじゃん」

 わたしは苦笑い。

「それに、それに……」

「ああ、もう! ここじゃ何もできないんだから、素直に頷いてよ」

 わたしは、ギュッと手を握り直した。

 やっと、あや姉ちゃんがコクリと頷いた。目が潤んでいるように見えた。


 どのくらい、そうしていただろう。

「ワインでも飲まない?」

 というあや姉ちゃんの声で我に返った。

 ワインリストの中から、ボルドーの赤を注文した。

 妙な緊張感から解放されたせいか、わたしもあや姉ちゃんもピッチが速い。あっという間にボトルの半分ぐらいまで飲んでしまった。

「私のこと、なんて呼んでくれるの?」

 と、あや姉ちゃんが尋ねた。

「どうしようか……」

 と、わたし。もう彼女なんだから〈あや姉ちゃん〉と呼ぶのは、さすがにおかしいだろう。

「彩香って呼んでほしいなあ」

「え! 呼び捨て?」

 思わず声が大きくなってしまった。

「いきなり呼び捨てにするのは、ハードルが高いよ」

「私も、美咲って呼ぶから。ね?」

 首をかしげて、わたしの顔をのぞき込むようにして言うその顔には、珍しく赤みがさしている。『少し酔ってるのかな……可愛いなあ』と見とれていたら、

「ねえ、聞いてるの?」

 と、少しスネた表情を浮かべた。

「ごめん、ごめん。あやちゃん、じゃダメかなあ?」

 と、わたし。

「ま、いいわ。慣れたら彩香って呼んでね?」

「う……ん、頑張ってみる」

「いまから〈あや姉ちゃん〉はNGワードだからね、美咲」

 あやちゃんは、わたしを呼び捨てにすることには、抵抗がないらしい。あまりにも自然に言うので、こっちのほうが照れてしまう。

「言っちゃったら、どうなるの?」

「……ペナルティーとしてキスを一回、じゃあ逆効果よねえ」

「うん、あや姉ちゃん!」

 わたしは、ふざけてキスをする仕草をした。あやちゃんは笑いながら、右手でわたしの顔を押さえた。

「もう、美咲ったら!」

 そして優しく引き寄せて、

「後でゆっくり、ね?」 

 と、耳元でささやいた。



 リリ、リリリリリ……。

 スマートフォンの着信音で目が覚めた。手に取って画面を見る。あやちゃんだ。

「……おはよ」

「おはよう。寝てたでしょう?」

「うん……いま、何時?」

「とっくに一〇時を過ぎてるわよ」

「マジッ! 寝すごした!」

 わたしは、ビックリして飛び起きた。アラームを八時にセットしておいたのに、気がつかなかった。

「仕事を頑張らなきゃいけないって言ってたくせに」

 と、あやちゃんはスネたような声で言った。

「うん、今日はピッチを上げないと……」

 夕べ、タクシーであやちゃんを家まで送ったとき、「泊まっていかない?」と言われた。けれど、最初から朝帰りするのは気が進まなかった。それで、仕事を理由にして帰ってきたのだ。

 実際、昨日の遅れは今日中に取り戻しておきたかった。

「ちょっと酔っぱらってたから、心配だったのよ。電話してよかったわ」

「ありがとう、助かったよ」

 わたしはキッチンへ。冷蔵庫の中からペリエを取り出して、ひと口飲んだ。

「実は、私も寝すごすところだったの」

 と言って、あやちゃんは笑った。

「えっ、電話してて大丈夫?」

「まだ平気。事務所に十二時だから」

 わたしは椅子に腰をかけてから、

「じゃあさ……ちょっと気になってることがあるんたけど」

 と言った。

「なあに?」

「洋子には話しておかないと……マズイと思う」

「……そうよね」

 あやちゃんの声のトーンが、ちょっと低くなった。

「わたしから話そうか?」

 あやちゃんから洋子に、ことの次第の話をさせるのは気が引けた。それに、洋子が受けるショックも大きいはずだ。

 あやちゃんは「う~ん」と考えてから、

「……美咲に任せたほうがいいのかも」

 と言った。

「分かった。近いうちに話をしておく」

 と、わたし。

「私もいたほうがよさそうだったら言ってね。二人で話をするのもアリだと思うし」

「うん。どっちにしろ報告するから……じゃあ、仕事頑張って」

「美咲もね」

 と、あやちゃん。電話を切った。

 わたしはキッチンへ。コーヒーメーカーをセットしてから、フルーツグラノーラをボウル皿によそい、冷蔵庫から牛乳を取り出した。遅く起きた朝の定番メニューだ。

 洋子は、なんて言うだろう。もしかしたら泣かれるかもしれない。

「……仕方がないか」

 わたしは覚悟を決めた。

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