カミングアウト
「いいじゃないですか!」
編集部の北川さんの声が、電話口から大きく響いた。思わずわたしは、耳から受話器を離してしまった。
「そうですか?」
悩んだ末に北川さんに提出したのは、「ヒロインが、幼いころ生き別れになった母親を探す」というサイドストーリーがあるプロットだった。
「母親と彼氏への想いで葛藤するところ、どんな風になるのなあ。楽しみにしてますよ」
「ありがとうございます」
と、わたし。スケジュールを確認して電話を切った。
それにしても北川さんは、人を持ち上げるのが上手だ。声が大きいのが玉にきずだけど、悪い気はしない。
さっそく取りかかろうとパソコンに向かったら、スマートフォンにあや姉ちゃんからの着信が。
まだ午後の二時を過ぎたばかりだ。珍しいな……と思いながら出た。
「もしもし。美咲ちゃん……いま平気?」
「うん。どうしたの、こんな時間に」
「近くまで来てるんだけど、お邪魔してもいい?」
「え? いま?」
わたしは、部屋を見渡した。足の踏み場のないほど、資料が散乱している。とてもあや姉ちゃんに見せられる状態ではない。
「会って話がしたいの……忙しい?」
「部屋が取っ散らかってるんだよね……この前のカフェにしようよ」
「分かった。じゃあ、待ってる」
と、あや姉ちゃん。わたしはスマートフォンを切った。
どうしたんだろう、仕事で何かあったのかな……と思いながら、わたしは支度を始めた。
あや姉ちゃんはテラス席でアイスティーを飲んでいた。珍しく、カッチリとしたスーツを着ている。社長秘書をしてます、と言っても通りそうな雰囲気だ。
「スーツなんて珍しいね」
と言いながら、わたしはあや姉ちゃんの向かいの席に座った。
「今日、レコード会社の社長に会ったの。ちゃんとした格好のほうがいいかなと思って」
「それで、緊張気味なの?」
「そんなに風に見える?」
わたしは「うん」と頷いて、注文を取りに来た奥さんにアイスコーヒーを頼んだ。
ふわりと、風が通り抜けた。
「お花が綺麗ね」
と、あや姉ちゃん。長い髪を右手で押さえながら庭を見ている。
庭では、カーネーションやペチュニア、ラベンダーなどの初夏の花々が風に揺れていた。
「そうだね」
わたしは奥さんが持って来てくれた、アイスコーヒーを飲んだ。
「ところでさ、話ってなに?」
と、わたし。あや姉ちゃんは、
「う……ん、何から話せばいいんだろう……」
と言って、うつむいてしまった。
「どうしたの? 社長さんに何か言われた?」
と、わたしが聞くと、あや姉ちゃんは顔を上げて、
「ううん、楽しみにしてるって言ってくれたわ。再デビューの日取りも、正式に決まったの」
と言った。
「よかったね! いつに……」
と言う、わたしの言葉にかぶせるようにして、
「そんなことを話したいんじゃないの!」
と、あや姉ちゃんが強い調子で言った。
「え……」
わたしは、何も言えなくなってしまった。
「ごめん……あの、ね。美咲ちゃんにとって、私は〈お姉ちゃん〉かな、やっぱり」
と言うと、またうつむいてしまった。
「ど……どういう意味?」
「……私、美咲ちゃんのことが好きみたい」
「………」
「自分から告白するのは初めてで……カミングアウトすら、まともにしたことがなくて……」
うつむいたまま小さな声で話しつづけるあや姉ちゃんは、まるでティーンエイジャーの女の子のようだ。
「ねえ……何か言ってよ」
と言って顔を上げたあや姉ちゃんの目には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「ご、ごめん……だって、あや姉ちゃんが……」
「女性も好きになるって、思っていなかった?」
わたしは、声を出さずに頷いてから空を見上げた。雲ひとつない青空が広がっている。
ふうっと、大きく深呼吸をした。あや姉ちゃんに視線を戻して、
「……いつから、わたしのことを?」
と尋ねた。
「分かんない」
と、あや姉ちゃん。
「わたしがビアンだってこと、いつ気がついたの?」
わたしは、あえて〈レズビアン〉ではなく、レズビアン同士で使われる略称の〈ビアン〉を使った。あや姉ちゃんが〈こっち側の人〉なら、このほうがいい。
「……前に洋子ちゃんから聞いたことがある」
「洋子から?」
わたしはビックリして聞き返した。
「名前は出さなかった。大学時代の友だちに、ビアンでタチの子がいるって……聞いたことがあるの」
「そうなんだ……」
そこまで聞いているのなら、飲み会のときに気がついても不思議ではない。
「私と洋子ちゃん……付き合っていたことがあるの。三年前、半年ぐらいだったんたけど」
「………」
思いも寄らないカミングアウト。言葉が見つからない。
「まだ結婚していたし、彼と修復できるかもしれないとも思っていたから……私から『友だちに戻ろう』って、切り出したの」
「……ということは、あや姉ちゃんも洋子もバイセクってこと?」
「うん」
二人ともバイセクシュアル……知らなかった。
なんで、洋子はあや姉ちゃんのことをストレートだといったんだろう。もしかすると、まだ……? そんなことを考えていたら、
「美咲ちゃん。私は〈お姉ちゃん〉以上にはなれない?」
と、あや姉ちゃんが尋ねた。
「それは……少し時間が欲しい」
と、わたし。
「………」
「いま、すぐにでも答えたい。だけど、混乱しちゃってるから……この状態で返事をすることはできない」
「そう……そうよね」
「ちゃんと返事をするから、少しだけ待ってて」
わたしは、あや姉ちゃんの顔を見て言った。
頬を、爽やかな風がなでた。
もうすぐ夏が来るんだなと、まったく関係のないことを思った。
「お前から連絡してくるなんて、珍しいな」
と健吾。スーツの上着を脱いで、わたしの隣に座った。
「悪い、急に呼び出したりして」
と、わたし。
あや姉ちゃんと別れた後、わたしは新宿に来ていた。
久しぶりに新宿二丁目のレディースバーに行こうかとも思ったけれど、思い直して目に入った店で一人で飲んでいた。
考えれば考えるほど、あや姉ちゃんに告白された嬉しさ以上に、洋子のことが気になる。冷静になれない。
こういうときは、誰かと一緒のほうがいい。そこで思いついたのが健吾だった。
「何かあったな? 女がらみか?」
「まあ、いいじゃん。とにかく飲もうよ」
と言って、グラスを合わせた。
「仕事は順調なのか?」
「ボチボチかな。いま新作に取りかかってる」
「これで三作目か」
「うん、そうなるね」
よく知ってるなあと思いながら、わたしはビールを飲み干した。
「ターキーの水割り、ダブルで」
と、わたしはバーテンダーに注文した。
「珍しいな、バーボンなんて」
「ちょっと飲みたい気分なんだよ」
「原因は女か」
「うるせえな。黙って付き合えよ」
と、わたし。健吾は苦笑い。そして、
「お前ってさあ……なんでオレと飲むと、男言葉になるんだよ」
と言って、ビールを飲んだ。
「スイッチが〈そっち側〉に入るんだと思うよ」
「お前、女だったよな?」
「うん、正真正銘の女だけど?」
「そうは思えねえなあ」
「悪かったな」
わたしはグラスに口をつけた。
「女は放っておいちゃダメだ」
健吾が二杯目のビールを注文したとき、ボソッとつぶやいた。
「それは経験上かい?」
「まあな」
と健吾。そして、
「なんか食おうぜ。……フライドポテトとシュリンプのカクテル、ひとつずつ」
と、バーテンダーに注文した。
「彼女のいない、お前に言われてもなあ」
健吾は大学時代、サッカーをしていたせいか、結構モテた。だけど、いざ付き合うことになっても練習や遠征で忙しくて、なかなか彼女と一緒にいられない。結局、フラれてばかりいた。
それは卒業しても、サッカーが仕事に変わっただけで結果は同じだった。何度、憂さ晴らしに付き合わされたか分からない。
「だから、言ってるんだよ。マメな奴ほど女がいる。逃げられない。これはセクシュアリティは関係ないだろう?」
と言って、健吾はビールを飲んだ。
バーテンダーがフライドポテトとシュリンプのカクテルを持って来た。しばらくつついていると、
「この前、洋子に会ったよ」
と健吾が言った。
「へえ……」
わたしは平静を装って相づちを打った。
「あいつ、『彼氏ができた』って言ってたけれど、投げやりっていうか、口数が少ないっていうか……様子がおかしかったんだよな」
「ふうん」
この前もそうだったな……と、わたしは思った。
洋子は、こと恋愛となると、わたしが水を向けなくてもどんどん話をする。『そこまで話す?』と感じることも多い。
それがこの前は、自分から話を変えてしまった。
「お前の女って、まさか、洋子じゃないよな?」
「はあ? なんでさ」
「あいつ、バイセクじゃん」
「それ、最近、知ったんだよね」
と、わたし。健吾は驚いた表情を浮かべて、
「へえ、意外だな」
と言った。
「わたしが知ってることを、洋子は知らないよ。で?」
「でって……だから、お前が洋子にフラれたのかと……」
「洋子は友だち。残念でした」
わたしにではなく健吾にカミングアウトをしていたなんて……話しやすいから分からなくはないけれど、少しショックだった。
「じゃあ、誰なんだよ」
と健吾。
「いまは言えないなあ」
「ちっ、つまんねえの」
「そのうち分かるよ」
と言って、わたしはターキーを飲み干した。
「まあ、シンプルに行動することだな。お前は考えすぎる」
と健吾が言った。
「……そうかもなあ」
「カップルができると、その裏には泣いている人が必ずいる。気にしてたらキリがないぞ」
「お、珍しく深い言葉」
わたしが茶化すと、健吾は、
「たまには格好つけさせてくれよ」
と言って笑った。