ストレートには手を出すな
あや姉ちゃんは、急に忙しくなった。
わたしは、時間さえ合えば出かけるつもりではいるのだけれど、日付が変わるころに電話がかかってくるものだから、どうにもならない。
打ち合わせにレッスン、新曲づくり。その合間に新居探し。ホッと息をついたときには、たいてい夜中になっているのだそうだ。
「もしかして、わたしの声を聞かないと寝られないの~?」
と冗談口で言ったら、
「だってえ、聞きたくなっちゃうんだもの」
と、あや姉ちゃんは思いっきり甘え声。
わたしはカミングアウトをしてないからこそ、あや姉ちゃんはわたしのセクシュアリティを知らないからこそできる〈遊び〉だ。そうと分かってはいても、心のどこかで期待してしまう自分がいる。これは、わたしの〈もって生まれた性〉としか言いようがない。
そんな、ある日。珍しく夕方に電話がかかってきて、食事に出かけることになった。
場所は銀座の裏路地にあるレストランバー。ダークブラウンを基調にしたインテリアと、ライト・ダウンした照明が落ち着いた雰囲気を醸し出している。
先に着いたわたしは、入り口がよく見えるテーブル席に座って生ビールを注文した。
半分ほど飲んだとき、あや姉ちゃんがきた。
軽く胸元が開いた小花柄のワンピースに、カーディガンという装い。ウエーブのかかった長い髪は、ポニーテイルにまとめられている。
いままで、パンツかジーパンにシャツといったスポーティな格好が多かったせいか、思わず見とれてしまった。
「お待たせ、美咲ちゃん。……どうかした?」
そう言いながら席に着いたあや姉ちゃんは、ボーッとしているわたしを、不思議そうな顔をして見ている。
「あ、ごめん。いつもと雰囲気が違うから……そのワンピース、可愛いね」
「ありがと」
あや姉ちゃんはニッコリ。そして、
「わたしも同じのを」
と注文を取りに来たウエイトレスに言った。
あや姉ちゃんは、生ビールをグラスの半分ぐらいまで一気に飲んでから、
「仕事の後のビールって最高!」
と言った。今日の服装には似合わないオヤジのようなセリフに、吹き出しそうになった。
「それにしても、忙しそうだね」
「ほとんどが打ち合わせだけどね。いろいろ考えるのは楽しいけれど、疲れるのは頭だけでしょ。早く歌いたいわ」
「レッスンもあるんでしょ?」
「もちろん。やっと、喉が開いてきたって感じかな」
「喉が開く……素人には分からない感覚だなあ」
いくらあや姉ちゃんとはいえ、長い間、本気で歌っていなかったのだから、〈自分が納得できる声〉を取り戻すのに、少し時間がかかっても仕方がないだろう。
「再デビューの日にライブをすることになったの。アルバムもつくらなきゃいけないのに、間に合うのかしら」
不満げな表情とは裏腹に、あや姉ちゃんの声は弾んでいる。
「随分、思い切ったことをするんだね」
「わたしも、そう言ったのよ。でも山口さんったら、『大丈夫、問題ない』って言うのよね」
「山口さんって、プロデューサーの山口良介さん?」
「そうよ。一緒に仕事をするのなら、山口さんがいいって思っていたから」
山口良介さんは音楽業界では有名なプロデューサーで、アイドル歌手やアーティストを何人も手がけてきた。あや姉ちゃんも、そのうちの一人だ。
あや姉ちゃんに歌をつくることを勧めたのも山口さんだったらしいし、その素質にほれ込んでいたとも聞いている。
今回、再デビューの話を持ちかけたのが山口さんだったのか、あや姉ちゃんだったのかは知らないけれど、山口さんにとっても『待ちに待った川村彩香の再デビュー』であることは間違いないだろう。
「特別なアイデアでもあるのかな……」
と、わたしが言ったとき、仲のよさそうなカップルが入ってきて、カウンター席に座った。女性の顔がハッキリと見えた。
「あ、洋子……」
思わず声が出た。あや姉ちゃんも二人を見て、
「あら……」
と、つぶやいた。
声をかけるべきかどうか迷っていると、洋子もわたしたちに気がついて、一瞬、けげんな表情を浮かべた。が、すぐに笑顔になって席を立ち、わたしたちの方へ。
「こんな所で会うなんて、偶然ね」
と洋子。
「久しぶり、洋子ちゃん。素敵な彼氏ね」
と、あや姉ちゃん。
「やだ。タダの、会社の後輩よ」
「ホントにぃ?」
と、わたし。
「出先から直帰できたものだから、ちょっと飲んで帰ろうかって話になったのよ」
「真意のほどは、今度ゆっくり聞くよ。ほら、待ってるよ」
洋子の連れの男性は、メニューを見る振りをしながらチラチラとこちらを伺っている。
「今年入社した新人くんなのよ。落ち着きがないったら、ありゃしない」
洋子は小声でわたしたちに言った。そして、
「それじゃあ、またね」
と言って戻っていった。
洋子たちが店にいたのは、三〇分ほどだっただろうか。わたしには見せたことのない、艶っぽい表情で男性に話しかけていた。一方の男性は、わたしたちが気になるようで気もそぞろ。
わたしたちが二杯目の生ビールを飲み終えるころ、店を変えることにしたのか、そそくさと出て行った。
「邪魔しちゃったかしら」
と、あや姉ちゃん。
「わたしたちの方が先にいたんだから、不可抗力だよ」
わたしは肩をすくめた。
「洋子ちゃん、彼を気に入っているみたいね」
「うん。ちょっと意外だけどね」
「なんで?」
「洋子は、年上の肉食系男子が好みだと思っていたから」
と、わたし。ウエイトレスを呼んで、ウォッカトニックを注文した。
「人って、見かけによらないものだし、いろいろな面を持ち合わせてもいるのよ」
と、あや姉ちゃん。
「それって、あや姉ちゃんにも言えること?」
「さあ、どうかしら」
と言うと、あや姉ちゃんは意味ありげにほほ笑んだ。
それから数日過ぎた、平日の午後。わたしは渋谷にいた。
編集部で、担当の北川さんと新作の打ち合わせをしていた。
わたしは恋愛小説が専門で、心理や情景などの描写に気を使って書いている。その部分が評価されて、作家デビューにこぎ着けたのだけれど、単調な展開になりがちなのがウイークポイントだ。
「片岡さんの小説は、読書家には評判はいいんです。ウチにも新作を楽しみにしている連中は多いし。だけど、エンターテインメント性が加わると、もっと読者が増えると思うんです」
と北川さんは、わたしをなだめるように言った。
「……分かりました。考えてみます」
と言ったものの、あまりにも漠然としすぎていて、いま一つピンとこない。わたしは、ノートとボールペンをバッグにしまった。
「一週間ぐらいで、なんとかなります?」
編集部の北川さんが、メガネを直しながら聞いた。
「ええ、大丈夫です」
と、わたし。席を立って、編集部を後にした。
もう、夕方の六時をまわっていた。夜でも昼でもない独特の陽ざしが、渋谷の街並みを包み込んでいる。
『エンターテインメントねえ……ミステリーとかかな……ベタだよなあ……』
などと考えながら歩いていたら、いつの間にか渋谷駅前にいた。
これから帰れば、部屋に着くのは八時近くになってしまう。どこかで食べていこうと思い、駅前を離れようとしたら、後ろから「美咲!」の声。
振り返ったら洋子がいた。
「やっぱり、美咲だ。歩き方で分かったわ」
「そんなに特徴ある?」
「うん、男前な歩き方してるもの」
と洋子はオーバーに肩を切って歩く仕草をした。思わず苦笑い。
「今日は一人? どこかで食べていこうよ」
と、わたし。
「うん。会社に電話するから、ちょっと待って」
と言って、洋子はスマートフォンを取り出した。
わたしたちは、表参道まで足を伸ばすことにした。
「イタリアンが食べたい」
と洋子が言うので、表参道ヒルズの中にあるトラットリアへ。
人気店だけあって少し並んだものの、並木道がよく見える窓際の席に通された。
「この前は驚いたわ。誰か見てると思ったら、美咲と彩香さんなんだもの」
洋子は、ピッツア・マルゲリータをほおばった。トロトロのチーズがおいしそうだ。
「それは、こっちのセリフ。仲のいいカップルだなと思ったらさあ……」
わたしはニヤリ。赤ワインをひと口飲んでから、バーニャカウダをかじった。
「だからあ……」
「彼氏なんでしょ? 白状しなよ」
「隠してもしょうがないか。一応、彼氏だよ」
洋子は、意外とあっさり認めた。
「その、『一応』ってなに。付き合ってるんでしょ?」
「八歳も年下だし、落ち着きはないし、頼りないし……まあ、可愛いって言い方もあるけれど」
と洋子。そしてムール貝のパスタを取り分けながら、
「私さ、いままで年下には興味がなかったでしょ」
と言った。
「うん。だから、少しビックリした」
わたしは、洋子から取り皿を受け取った。
「入社早々、告白されてね。断っても断っても、言い寄ってきたものだから……押し切られた」
「へえ、あの年下くん、見かけによらないね」
わたしは、心の中で『当たりだよ、あや姉ちゃん』とつぶやいてしまった。
「でも今や、その押しの強さは、どこへやらって感じなんだけどさあ……ところで、美咲」
わたしは、パスタを飲み込んでから、
「なに?」
と言った。
「最近、彩香さんと、よく会ってるみたいね」
と洋子。ワインを飲みながら、ジッとわたしを見た。
「ああ、うん。まあね」
「好きになって、ないでしょうね?」
洋子の問いかけに、わたしは心臓の鼓動が速くなったのを感じた。ワインを飲んでから、
「まさか! わたしにとってあや姉ちゃんは〈お姉ちゃん〉なんだよ」
と思いっきり否定をした。
「ホントに?」
「しつこいなあ、洋子。ホントだってば」
と、わたし。まだドキドキしている。
「それならいいんだけど。聞いているとは思うけれど、彩香さん、再デビューが決まったから……いまがいちばん大切な時期でしょ」
「知っていたんだ」
「うん。ついこの間、関係者から聞いたの」
さすが洋子は耳が早いな……と思いながら、バーニャカウダをかじっていたら、
「それと、余計なことだと思うけどさ」
と洋子が顔を近づけてきた。
「なによ」
「ストレートに手を出すとヤケドをする……前に美咲が言っていたセリフだけど、一応、言っておく」
と言うと洋子は、座り直してワイングラスを手に取った。
「ストレートの洋子に、言われるとは思わなかったよ」
わたしは苦笑い。『そうだよなあ、あや姉ちゃんはストレートだよなあ……』と思いながら、グラスのワインを飲み干した。